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#003 本屋、九年前を振り返る


Radiotalk『架空の本屋ラジオ』
#003 本屋、九年前を振り返る

いらっしゃいませ、ごきげんよう。えまこです。
『架空の本屋ラジオ』の第三回になります。
自己紹介の前二回を終えて、そろそろ本の話・本屋の話にどっぷり入っていこうかなと思っていたんですけど。

今、時間が夜中の1時40分です。
私が眠るまでが今日、ということで、日付は変わらず3月11日の夜中です。
この日付にはやっぱり、思うところがありますよね。
九年も経ったそうです。
九年前の3月11日の話をちょっとだけ、しようかなと思います。

九年前というと、私が四軒の本屋さんに今まで勤めてきたんですが、そのうちまだ一軒目の本屋さんにいた頃です。
(閉店の半年前)ぐらいのタイミングで地震がありましたんで、もう六年ぐらい勤めて、その店ではベテランスタッフになってたとこでした。
駅ビルのテナントの本屋さんだったので、ビルのまぁまぁ上のほうの階に……
まぁまぁ? 真ん中へんなんだけど高さはある階に、入っていて。
結構体感する揺れが大きかったことを覚えてます。

そのお店が、照明・ライトを上から吊り下げるかたちでくっついているお店で。
その他に雑誌の販売促進のポスターとかを、天井の高い位置から貼りつけてぶら下げているような、上から下がっているものがすごく多い状態のお店だったので。
揺れてるものが目に入るっていう、視覚的に揺れを大きく感じるっていう、そういう状況でした。
なので、たぶん、実際の揺れの感じよりも目から入ってくる情報でちょっと怖さが増したかもしれないっていう。
そういう気がします。

……はい。

あんまり、こう、しみじみと暗い話にしようと思って今日の収録をしているわけではないんですけど。

こういう、災害があったときとか、作家さんが亡くなったときとか。
喜ばしい話ではない、なんていうんですかね、悲しい出来事があったときに、本屋さんでできることってあるのかなぁっていうのを、割とたびたび考えます。

あとあれですね、あの、犯罪を犯した人が手記を出すっていうときとか。
この本をどう扱うか、この事件を、この出来事をどう扱うか。
まるで何事もなかったようにいつも通りに営業をするには、無視をするには、あまり大きすぎる出来事で。
何かアクションをする、なにかこう、お店としての気持ちを何らかのかたちで表しようっていうときに、何ができるかっていうのを、何かあるごとに感じます。

作家さん亡くなったときは追悼フェアを組むっていうのはけっこうあることですね。
ただその、悲しい出来事をネタに儲けているんじゃないか、っていうような見方を、当時はどうしてもしてしまっていて。
特にこの一軒目の本屋さんにいたときっていうのは、私はレジと接客の専門のスタッフだったので、棚とか本を選ぶっていう権限を持っていなかったんですよね。
なので、自分の知らないところで企画されたフェアが組み上がっていくのを、レジからずっと眺めてるっていう、そういう立場だったんですけど。

この、震災があったときも、一か月かそこら経ったあとで、北海道はだいぶ落ち着きを取り戻している頃に、確か、東北出身の作家さんの著作を集めたフェアっていうのを組みました。

それは、見た人がどう思われるのか、応援する気持ちでそのフェアを眺めて手に取って買ってくださっていたのか、当時はすごく複雑な気持ちも持って見守っていました。

そのフェアを見た女性のお客さんが、レジまで「すみません」って言って来て。
「写真撮ってもいいですか」っていうお問い合わせをくださったんですけど。
東北に知り合いの方がいらっしゃるので、北海道の片隅の本屋でこういうことをやってるよっていうのを送って励ましにしたいんだっていうようなことをおっしゃって、写真を撮っていかれました。
それはまぁ、否定的に受け取られた結果のことではなかったよなと、思うんですけど。

なんかこう、本っていうのは、生活必需品ではない。
なかったところで命は脅かされない、ていうものなので。
こういう不景気なことがあったときとか、世の中が上手く回ってないとき、お金を節約しなきゃいけないときに、真っ先に削られるもののひとつであろう、っていうのは思うんですけれど。
そういうものが、こういう災害時とかの危機的な状況のときに強いて求められるっていうのは、いったいどういうことなんだろうなぁっていうのを、割と折につけ、今も考えます。

作家さんの追悼フェアなんかのときは、その人の亡くなったことを悼み、偲び、その方の足跡とか偉業とかを広くお知らせするとか、振り返るっていう意味を持っているかなと思うんですけど。
それをきっかけにその方を知るお客さんっていうのもたぶん出てくるので。
まったく意味のない、無駄なことっていうわけではなさそうかなとは思いつつも、やっぱりなんとなく、それで商売してるっていう気持ちが拭えなくて。
企画するほうが「この悲しい出来事をネタに一儲けしてやろう」っていう魂胆を抱えてやってるわけではないんですよね。
真心100%のはずなんですけど。
なんかこう、二つの気持ちが同居することが気持ち悪かった、っていうのがその当時の心情でしたね。
素直な気持ちでした。

難しいなぁ、と今も思います。
……うん。

なので……
特にこの震災のあとから「頑張ろう」っていう言葉がすごく言われる・聞かれるようになりましたよね。
あれ、言うほうには全然もちろん悪気がなくって。
ほかに何て言ったらいいのっていう気持ちもあるぐらいですけど。
「同じようにあなたのつらさを分かち合いますよ」っていうふうに、寄り添いますよっていう姿勢でいることが親切だな、って考える人が多いのかな、って思いました。

でもこう、頑張ろうっていう、よかれと思ってかけた言葉が、まだもう少しこの場所にうずくまって悲しんでいたいとか、考え込んでいたいとか、もうちょっとぼーっとしてたいっていう人の手を無理矢理引っ張って立たせて「頑張ろう!」って言って走ろうとしている、っていうことになっていたら、それはちょっと嫌だなと思って。

あなたが、あなたの苦しくない時間の流れで、動こうとすることの邪魔をせずに見守っていますよ、っていうぐらいの距離の取り方をできたら、それが私にはいちばん気が楽というか。
いちばんいいかな、っていう気がしているんですけど。
悲しさをどれくらい悲しむか、とかっていうのは、人それぞれなんだろうなっていうのを、この九年間かけて思うようになりました。

本屋さんに何ができるかってなったら、まぁ、なんですかね……
情報……というには、編集されて刷られて置かれてるものなので、最新情報ではない。
なにか、心の拠り所になるっていうことなのかなぁ……
というのを、ずっとこう、九年かけて、何が正解に近いのか、正解がないことだと思うので。
「私は悲しい出来事を正しく悲しんでいるんだ」っていう、世の中に対するご機嫌取りみたいな悲しみの表明をせずに、素直な気持ちであったことを忘れない、悲しんでいる人をその悲しみのままに否定しません、お待ちしていますよっていうような。
お店ってお客さんを待っていて、やってきていただいて成立するものなので。

まぁそんなことを考える、九年目の当日の夜中でした。はい。

またびっちり12分をしゃべりましたが……
またいずれ、本の話でお会いしましょう。
ありがとう(ございました、がちょん切れました)

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