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「みんなで決める」のむずかしさ 組織の意思決定の課題と考察

これはなに

 センスとアドリブと伝統を重んじる舞台芸術業界、安定重視と組織間調整の超保守的上場企業、KKD(勘と経験と度胸)ドリブンの零細建設業、理詰め地獄のコンサル会社、レペゼン階層型組織の自衛隊、個人の自由意思と倫理と葛藤の集合体である非営利団体・・

色々な形態の組織を経験してきましたが、組織の意思決定 に関しては常に迷い、悩み、試行錯誤を繰り返してきました。
その経験と、文末に紹介します参考書籍から学んだ内容と気づきをまとめてみます。

こんなひとにオススメ

- 意思決定に関わるひと
- アンケートや投票を取り扱うひと
- 議論や意思決定をリードするひと

はじめに

「Life is a series of choices 」
ハムレットの一節のとおり、人生とは選択の連続です。

今、何をするか?からどう死んでいくか?まで、
すべてのひとの営みは何かを選び、決めるということを繰り返しています。

 社会、政治、そしてビジネスなど集団においては下される意思決定は、より大きな影響を生み出しますが、個人の知恵を集約し、誰もが納得するよりよい意思決定に至るのは簡単ではありません。

私も、何かを決めた後にも常にこれが良い意思決定だったのか?ということは自問しています。

同じような課題を感じている方に少しでも参考になれば嬉しいです。

ざっくり言うと

みんなで決めるのは難しい。なぜなら価値観や前提が違うし、人間はそこまで合理的になれないし、疲れもするから

意見が分かれた時にどうやって集約するのか、公正な集約ルールはない。とりあえず多数決はやめとこう。

正しさに固執しすぎてはいけない。手持ちのカードを確認して決めよう。


「みんなで決める」は正しいのか

フラットで民主的で、多様性に重きを置き、全員で欠点を補完しあいより良い意思決定をする。

うん。100点だなあ。
いかにも今の社会制度や価値観にもマッチするし、独裁的な決定とは対象的にいかにも理想な意思決定であるように見えます。

しかし、プロダクトマネジメントや経営論においては、このような合議制のデメリットについてはよく述べられるテーマです。
代表的なところをいくつか挙げます。

みんなで決めるのデメリット

時間がかかる

参加者全員に、前提知識や背景を正しく理解をしてもらうまで説明が必要です。また、意見が分かれれば、その真意を全員で理解し評価していくことになります。

満場一致や全員が満足する”正しい”意思決定にこだわるほど時間は消費されていきます。
 時間をかけすぎることは、成果が先延ばしにされるばかりかメンバーが疲弊して判断力が下がってしまったり、議論の前提や状況が変わってしまう可能性もあります。


一貫性がなくなる

 議論は多くのケースで、全体における、ある特定の課題に対して、その対応策が論点となります。ですが、その課題の背景には様々な前提が存在しています。
その最上位まで遡れば、「私たちはどうありたい」というビジョンであり、以後、戦略、戦術・・と段階的に具象化され、プロジェクトとなり最終的には今、何をするかというレイヤまで落ちてきます。

 論点の背景にあるこれらを、合議の参加者全員が正しく理解し合意されていないと、局所的な議論によって前提を無視した案が採用されたり、プロジェクト同士で足を引っ張りあう案を採用しかねません。

専門性がなくなる

 より高度で専門性の高い課題については、参加者全員が同程度の理解をすることは現実的に困難です。専門家から生まれる特異なアイディアが多数者が理解できないという理由で不採用になっても良いのでしょうか。

門外漢の客観的な意見は、ときに新たな気づきを生み出す有益なものです。
しかし、その影響力が肥大し意思決定を左右する実質的な決定権をもってしまうことは危うい状態です。


責任の所在が曖昧になる

「みんなで決めた」ことに責任をもつのは誰でしょう?合議の参加者、組み込まれる意見の量が増えるほどにその所在は曖昧になります。

そして、合議によって下された意思決定が「見送り」「判断保留」である場合、その結果責任はより曖昧になってしまいます


ありきたりな結論になる

 多くの人の納得感を優先しようとすれば、自然とそれは折衷案、玉虫色の先鋭さの失われた凡庸で退屈な案となります。革新的であったりリスクが高く見えるものほど万人には理解されないにくいものです


集団浅慮に陥りやすい

 集団浅慮とは、集団であることによって誤った判断に至ってしまう心理です。
孤立を恐れて同調してしまう、集団の同質性によってうまれる過信、自己批判の欠如、他者への思いやりからくる譲歩や沈黙。カリスマや話術にたけたメンバーの意見に流される、「他の誰かが進めてくれるだろう」という社会的手抜き・・などなど、無意識に起こりうる思考の歪みです。

こうなると、所謂「三人寄れば文殊の知恵」が全く働かなくなり、合議によって期待したものが得られなくなります。

集約ルールが不完全であること

 話し合いで、一つの結論に至らない場合、集められた意見をなんらかのルールによって集約しなければいけません。

集約ルールは多数決をはじめ様々ありますが、同じ投票行動であっても集約ルールによってその結果は全く異なるものになってしまいます。

これは18世紀ごろから、ボルダ、コンドルセなどの哲学者、数学者が研究を続けてきたものですが、全てのケースに対して完全な集約ルールはありません。

単純多数決はもっともわかりやすく、選挙をはじめ一般的にも、よく利用されますが次のような問題があります

・票が割れることによって、漁夫の利的に最下位の候補が採用されてしまう
・投票者が誰かに流されたり、各自で判断しようとしないとき機能しない
・投票者の判断が正しい確率が50%を下回るとき機能しない
・分断が起こりやすい

つまり、投票者が理性的で自立した正しい判断ができたとしても、票が割れてしまうと誰も望まない結果が採用されるのです。

例:21名で会食の店を決める

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単純多数決ではイタリアンが採用される。
イタリアンを1位に希望する人数は最多であるが、3位(もっとも希望しない)の人数も最多である。

どうすればいいのか

合議が難しいからと言って、少数者の専制や独裁が良いということでもありません。より良い意思決定とは何かを整理してみます。

より良い意思決定とは

競い合う主張型ではなく最善手を探る探求型である

当事者同士が主張しあい、相手を説得しようと競い合うのが 主張型 。それとは対照的にそれぞれがアイディアを出し合い、それを評価、検証することでアイディア自体の力試しをするのが 探求型です。探求型は人ではなく、アイディアを批判的思考によって評価し、全体としての決定を重視します。当事者間に勝者敗者が存在することはありません。

情緒的対立が抑えられ認識的対立が起こる

 進行中の討議事項を巡って、アイディアや前提、最善策について異なる見解が展開され新たなアイディアを生み出す対立を 認識的対立と言います。

一方で、個人的軋轢やライバル感情、自己保身などからくる感情的な対立を 情緒的対立 といいます。
たとえ優れた結論に達したとしても、感情的なわだかまりが残ると 決定事項に対して団結することができなくなってしまいます。

 アイディアに対しては批判的思考で厳しく評価をしつつ、感情的にはならない。というのは現実として感情をもつ人間には難しい局面も多いですが、それを恐れすぎて認識的対立自体も避けるようになってしまうと良い意思決定にはなりません。

場が加熱して、情緒的対立の気配を感じたら、小休止をとったりクールダウンすることも有効です。


透明性があり公正なプロセスであること

前述した感情的なわだかまりを抑える上でも重要であることが公正な手続きであることです。
公正さとは、 どの意見も決定に至る過程で考慮されたことを参加者が感じられること
そして、最終決定に至った 論理的背景を参加者に開示する ことです。


適切な参加者と場が設定されること

参加者は多すぎても、少なすぎてもいけません。
そして、探求型の議論をするためには参加者の素養として次のようなものが求められます。

- 討議事項の前提を理解することが可能
- 批判的思考によって自分と他人の意見を評価できる
- 論理的思考によって自分の意見を伝え、他人の意見を理解できる
- 討議をする上で同じ目的を共有できること

これらはもちろん、個々の特性によって個人差があるため、リーダーのファシリテーションによって適当な場を作り、それを補完することが必要です。
そして、参加者は自身の求められる役割や姿勢を理解していることが重要です。

適切な時点で終了されること

意思決定は素早く行われるほうが良いです。
そのためには 締め切りと、意思決定基準を明確にする必要があります。

そして、 選択肢をいたずらに広げすぎないことも大切です。

MECEを叩き込まれ、論理的思考が得意で、皆の意見を尊重したい、バランス重視のモラリストほど

「すべてを網羅しないと気が済まない病」

にかかりやすいです。

また、当事者意識があり責任感が強い討議参加者ほど、

「俎上にあがっていない案を挙げなければシンドローム」

にもかかりやすいです。
これは議論の発散フェーズでは良くても、収束フェーズに発生してしまうと厄介なものになります。

日々適当に生きている私でさえ、これで迷走したことはしばしばあります。

熟議は必要ですが、何について熟議するのかを誤らないようにする 必要があります。

追加の調査や討議時間を延長することで意思決定の結果がどの程度かわるのか?という視点を常にもつことが大切です。



適切な集約ルールが採用されること

前述の通り、どのケースにおいても完全な集約ルールは存在しませんが、 ボルダ・ルールが総合的にはメリットが多く実用的とされています。

単純でより満場一致に近い結果が得られるためです。

ボルダ・ルール
メンバーが選択肢を希望する順位に並べ、順位に応じて加点し、そのスコアによって選択肢を選ぶ(1位3点、2位2点、3位1点)

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このケースだと中華の勝ち。
イタリアン:24点 + 11点 = 35点
中華:21点 + 20点 + 4点 = 45点
和食:18点 + 22点 + 4点 = 44点

熟議の末、選択肢が絞られ、決定案の採択を行う場合には、国連安保理の採用する コンセンサス方式やWTOの採用する ネガティブ・コンセンサス方式などを組み合わせても良いかもしれません。

コンセンサス方式
議長の提示する決定案に対し、メンバーに反対者がいなければ(または大方の同意がえられていれば)全会一致とみなし決定する。
不服のあるメンバーがいると、意思決定が滞る。事前の根回しによる合意形成が前提。
ネガティブ・コンセンサス方式
議長の提示する決定案に対し、メンバーに賛成者がひとりでもいれば決定する。
コンセンサス方式のデメリットに対応して迅速な手続きを可能にする方式。不服のあるメンバーは上位組織に再審を申請できる。


集約ルールについて詳細に興味のある方は文末の参考書籍をどうぞ。
政治や紛争解決の意思決定に関する試行錯誤を知ると、「みんなで決める」の奥深さを実感できます。

判断の偏りを抑える工夫があること

人はどうしても、経験や立場によって感情に左右されその判断には偏りが生まれます。
これは意識しても抑え込むことは難しいので、それを抑止する工夫が必要です。
起こりうる判断ミスのリスクには次のようなものがあります。

個人的利害による判断ミス

個人的な利害が強くある場合、集団としての最適解よりも自らに利する判断を優先してしまいます。


ゆがんだ思い入れによる判断ミス

自分の所属する組織や、親しい身内、担当してきた業務に対して思い入れがあるほど、贔屓してしまったり、批判的な思考が働きにくくなります。


類似の経験による判断ミス

類似の経験があるとその時の感情が判断に影響を与えます。
たとえ、同じ状況ではなくても過去の経験が成功体験であれば、楽観的に、失敗体験であれば、悲観的な判断をしてしまいやすくなります。

意思決定者の中にこのような特性をもつメンバーがいる場合には、次のような工夫が考えられます

- 外部の第三者を介入させる
- 新しい経験をさせる
- 立場の異なるメンバーと同じグループにして協働させる
- 偏りが強くなりすぎないように定期的なジョブローテーションをする


おわりに

どれだけ、学びを繰り返してアプローチを変えたとしても、それが「良い」意思決定プロセスで「最善の」決定だったかと問われた時、

わたしには正直わかりません。

「もっと早く決めるべきだったのでは?」

「もっとじっくりと討議すべきだったのでは?」

「採用しなかったあちら案の方が良い結果が出たのでは?」

「自分はこの業務に思い入れが強すぎて判断が偏っているのでは?」

これらの問いに、完全合理性を持った確定的な回答を持ち合わせていません。



しかし 正解はわからない中で、なんらかの決定をしなければいけないのが現実です。
そしてそれは常になんらかのトレードオフを伴うものになります。

どこかの誰かの痛みを伴う決定の場合もあるかと思います。

コロナに対する政府の対応や、米国や欧州、世界中で起きている価値観や思想における分断、どれも集団における意思決定の結果によるものです。

民主主義の黎明期から多くの哲学者、数学者が挑戦してきたこの難題に触れてみると、「みんなで丁寧に話せば分かり合える」と単純化してしまうのは、あまりにもナイーブで逆に問題の解決を遠ざけてしまうのかもしれません。

「人民に問われているのは、彼らがそれを認めるか否かではない。問われているのはそれが、人民の意思である一般意志に合致するか否かである。」
- ルソー

「みんなで決める」を上手にやるには、脳や認知能力の限界を知り、みんなが個人の集まりのままではなく、その共同体における集合的な人格を意識して、共通の目標を持つことが、良い意思決定をする上でのヒントになるかもしれません。

「俺はいいけど、YAZAWAはなんていうかな?」

という感じで。

そこんとこ よろしくぅ


参考書籍


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