コミュニケーションの話
どうも、カクノさんです。
これまた今更ですが、最初の挨拶を「こんにちは」にすべきか「こんばんは」にすべきか悩んだ末、時間の関係ない「どうも」にしていることが結構あります。
カクノさんが note を書くのはだいたい夜なので「こんばんは」が自然なのですが、読む人がいつ読むかはわからないわけで、そうすると「こんばんは」だと昼に読む人に配慮ができてないかなとか、じゃあ「こんにちは」ならいいのかというと書いている今は夜なのにこんにちはと挨拶するのも変じゃないかとか、余計なことをいろいろ考えるのです。
実際そんなことで文句を言ってくる人など(ほとんど)いないだろうに。
いもしないクレーマーに勝手におびえて表現を自主規制する、なんだかどこかで見たような構図ですね。
それと似たような話で、自分の弱さを主張して「あなたの表現で私は傷ついた、配慮しろ」と迫ってくるタイプのクレーマーが「繊細チンピラ」なんて名付けられていましたが、そのネーミングセンスに感心したものです。
言い得て妙とはこのことか。
外見コンプレックスの話
いつもの通り、前段のお話は本編とはあんまり関係ないので、一旦お忘れください。
ここからは、ちょっと昔のお話。
カクノさんは昔から、自分の外見が嫌いでした。
好きじゃないとか、嫌いなところがあるとかではなく、嫌い。
好きなところが思いつかないくらいに嫌いでした。
小さい頃からカクノさんは「父親似だ」とか「父方の祖母に似ている」とか言われていまして、その父や父方の祖母のことがあまり好きではなかった、というのも、自分の外見が嫌いになった一因かもしれません。
カクノ兄は外見も体質もどちらかといえば母親の方に似ていて、何度羨ましいと思ったことか。
おまけに食べることが大好きで太りやすい体質だったこともあり、コンプレックスに拍車がかかっていくわけです。
外見が嫌いだから飾る意味がないと思っていたのか、ファッションなどにもまったく興味がありませんでした。
当時流行っていた制服のスカートを短くするだとか、ルーズソックスだとか、学校指定のカバンを潰して(ぺちゃんこにして)使うだとか、本当に一ミリも参加しませんでしたね。
そんな学生時代のカクノさんの行き着く先は、当然のように絵に描いたようなオタク女子。
もちろん陰キャの方です。もちろんモテません。
それでも当時のカクノさんは、幸運にも気の合う友人に恵まれたため、非常に楽しい学生生活を送っていました。
上京などでその友人と離れた後は、陰キャぼっち街道まっしぐら。
就職先で今の夫に出会うまで、全く色気のない人生を送っていました。
カクノさんを変えたもの
今のカクノさんは、妻になりました。母になりました。ついでにお猫様の下僕にもなりました。
肩書が増えて家族が増えて、昔よりは自分が好きになった気がします。
昔は鏡を見るのが嫌でした。
そこに映るものは、自分の好きな要素を何一つ持っていないから。
(強いて言えばメガネくらいですかね……)
今は、鏡を見て老けたなあとガッカリすることもありますし、いいかげん本気で減量を考えるべきだとか思ったりもしますが、昔よりは鏡の中の自分を嫌だとは思いません。
なんでだろうと思い返すと、行き当たるのはやっぱり夫の言葉です。
夫はやたらと私のことを、かわいいかわいいと褒めるのです。
出会った頃から今に至るまで、もう14年近くになりますが、少なくとも2日に1回(会っていない日を除く)は、かわいいとかきれいだとか言ってくれます。
その度にカクノさんは照れと気恥ずかしさでのたうち回るのですが。
それだけの期間かわいいと言われ続ければ、自分でもちょっとその気になります。
かわいいと思う服を着てみたいと思うようになりました。
スキンケアをサボらずにやろうと思うようになりました。
髪のためにちょっといいシャンプーを使うようになりました。
そうしたら、鏡の中の自分に、好きとは言えないまでも嫌いじゃないところが少しずつ増えていきました。
誰か(カクノさんの場合は夫でした)に、かわいい、きれいだと言われ続ける存在でありたいと、ちょっとだけ外見を磨くことに興味が出てきました。
褒めるということ
植物も、きれいだねと褒めながら育てると、本当にきれいな花を咲かせるそうです。
どうやら人間も同じのようで、きれいとかかわいいとかかっこいいとか、ポジティブな声掛けをしていくと、どうやらそんなふうに変わるらしい。
とすれば、それはきっと子供も同じ。
自分は親として、子供にポジティブなことを言っているだろうか?
……世の中の親御さんの中にも、きっと耳が痛いひとがいることでしょう。
カクノさんも同じです。
しかしアドラー心理学によれば、褒めることも叱ることも、子供の自主性を奪う、良くない行為だとされています。
では、子供にポジティブな声掛けをすることは良くないことなのでしょうか?
現実的に、子供を褒めも叱りもしないというのは難しいです。
完璧にそれを実現するには、周りの大人全員の協力が必要になるでしょう。
身近な誰か一人でも褒めてしまえば、その味を知った子供はそれを求めるでしょうから。
でも、だからといって「子供の自主性を奪う」と分かっている行為をやり続けるのかというと、それも親として選択し難いものです。
そうこう悩んでいるうちに、子供たちは勝手に成長してしまうのですけどね。
だいぶ話がそれました。
褒めるという行為は、簡単なようで難しい。
アドラーは「褒める代わりに関心を示す、尊敬を示す」ことを提案していました。
相手を一人の自立した人間と認め、尊敬を持つこと。
やっぱり難しいです。特に、幼い子供相手には。
ついついあれをしろこれをしろ、それはやめろと口を出してしまいますし、言ったところで第一次反抗期の子供たちは話なんて聞きやしません。
そんな猛獣珍獣たちを日々相手にしている保育士さんたちには本当に頭が上がりません。
彼らのあの忍耐力、包容力はいったいどこから来ているのか、本当に同じ人間なのか、実は仏の化身とかなのではと思ってしまいます。本当に。
どんどん話がそれますね。
何の話でしたっけ。
そう、褒めるということ。
カクノさんは、褒められて救われた(というとちょっと大げさですが)人間なので、褒めることの弊害をあまり信じたくありません。
ですが、実際に褒められた子供の行動を見ていると、どうやらアドラーの言う通り、自主性を失っているようにも思えるのです。
実際、本人が「褒められたいからやる」と言っていたこともあります。
そして今気付いてしまいましたが、カクノさん自身も「褒められた→褒められるようなことをしよう」という思考をしていました。
もっと褒められたいから、夫の喜ぶような服を着よう、とか。
そこにはカクノさんの意思があるようで、実はなかったのかもしれない。
なんだかちょっと怖くなってきましたが、ともかく褒められて嬉しくて、カクノさんの人生がいい方向へ向かったことは事実です。
夫には感謝しています。
でも、「褒める」ことにはやっぱり抗えない魅力と罠があるのも事実のようです。
けなし続けるよりは褒めた方がいいのは間違いないでしょうけど、あまりにも褒め続けるというのも考え物なのですね。
コミュニケーション、難しいです。
今日のヘッダ画像は、「コミュニケーション」で検索してみました。
かわいいイラストに惹かれ、説明に書かれていた内容に共感したのでこちらを選ばせていただきました。
本当にその通りです。
感情は道具、いつでも自分は選ぶことができる。
画像提供ありがとうございます。
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