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憎み、怒り、そして悲しみへ 2022/10/21

日記

・銀杏を憎悪して始まり、銀杏に憤怒して終わる1日。

・毎日通る道に銀杏の木が生えてるのが泣きそうなくらい嫌だ。誇張でもなんでもなく、毎朝なんでこんな思いしなきゃいけないの……??と、悔し涙が溢れそうになる。穏やかに1日を始めたいのに、潰れた銀杏が歩道に散乱しているのを見ると一気に気持ちが沈む。

・今日は特に酷かった。牛の死骸が腐ったような匂いが数メートルにわたって充満していて息なんて吸えたもんじゃない。口で呼吸しても微かに香ってくる。いや、本当は口でも呼吸したくない。銀杏から出るクサ微粒子が体内に侵入してほしくないから。


・コミュニケーション能力(コミュ力)って言葉はなんか、なんか嫌かも……!!というのをここ最近強く感じる。今更だけど。

・コミュニケーション能力。一般には、「言語・非言語を含めて他者と円滑な意思疎通をはかれる能力、成立させられる能力」という意味で使われている。自分が伝えたいことを正確に表現する力や、相手の話に傾聴して正しく情報を受け取る力、そして相手の言わんとすることまで汲み取る力が大事なんだそうだ。

・たしかに、話す力や聞く力は大事だと思うけど、双方向のやりとりで"一緒に"成立させていくコミュニケーションに対して、個人が能力を鍛えて何になるんだとも心の底から思う。コミュニケーション能力なんてものが存在するとすれば、それはコミュニケーションを行う当事者同士の間にだけ存在するもので、個人に依って存在するものではないだろう。片方がどれだけ巧みな技術を持っていようとも、もう片方が全くその話に乗ってこなかったらコミュニケーションが成立しているとは言えないのだから、コミュニケーションにおける個人的な技術などほとんど意味がない。今の「コミュニケーション能力」という考え方は、コミュニケーションを一方的なものとして捉えすぎだ。

・それに、話す力や聴く力が重視されるコミュニケーション能力という概念は、何か「コミュニケーション」に正しい形があることを前提にしている風があるけど、コミュニケーションは双方向で即興的に組み立てていくものなのだから、そこに正道は存在しないはずだ。お互いに上手く話ができず、上手く話が聞けないことが正解のコミュニケーションもあるだろうし、円滑に進まず詰まりまくることが正解のコミュニケーションもあるだろう。もちろん、話す力や聴く力が重視される場面は多いだろうけど、それは例えば"ビジネスシーンにおける正解"でしかなくて、"コミュニケーション全般の正解"ではない。ある特定の局面でしか成立しない正解が、全体の正解とされてしまうのはおかしい。

・何が言いたいのかわからなくなってきたし、かなり詭弁ぎみだけど、とにかくコミュニケーション能力なんて実態のないものを、あらゆる場面での価値判断の規準に据えるの嫌だね〜〜〜というだけ。本当にあの、やめよう。怖いから。そんなものに振り回されて追い詰められる人がいる現実は怖い。人と上手く話せない……と悩んでいる人は、「相手だって私と上手く話せていない」という視点が抜け落ちている。


・これ、なんか就活とかで疲れた人が書いてそうなことだな。全然そんなアレじゃない。さっきたまたまテレビでコミュニケーション能力が云々という話を見かけて、そんなもん存在しねぇわカス!!!と思ったから書いただけ。コミュニケーション能力って本当にカスの概念だから……。








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