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『冬のソナタ』を思い出して

私が『冬のソナタ』を観ていたのは、6歳くらいの頃。
覚えているのは小さい雪だるまを作るシーンくらい。

あとは、

「僕らしい」ってなんですか?

というヨン様のセリフ。

変に真面目なのに、なんだかぬけているこのセリフ。姉と母と私の内輪では小ネタになり、モノマネをしてたのを覚えている。

でも、やはりやったことは回ってくるようで、最近このような言葉に直面することが増えている。

以前、自分が書いた脚本の初稿を友人に見せた。感想をいろいろ言ってくれた。その中にあったのが、

カコらしい

という言葉。私には、あんまりピンとこず、まだまだ努力が足りないんだなと思わせてくれた言葉だった。

時を遡るっこと1年

今日も、また別の方から

意見を述べたら・・・カコちゃんらしい

質問したら・・・カコちゃんらしい

と言われた。

自分も驚くほど、頭にきた。

自分の行動の客観視が普段以上に働いてしまい、発言するのをやめたくなった。

でも、なんでこんなにもこの言葉が気になるのだろう。なぜ頭にくるのだろう。

自分なりに掘り下げると仮説は以下の通りだ。が、やはり自分の思考はいつも似たような路線を乗る。だから一人で考えるのは危ない。思い込みや正解ができてしまい、人として腐る。なので、みなさんのご意見もぜひお聞かせください。よかったらで。

①「私らしい」が何なのかを
自分よりも他者のほうが把握していることに危機感を感じる

②自分の思考や行動はパータン化されていることに気付かされ、

次の行動/発言が読める人になっている自分がつまらなく思える。

いわえる凡人だということに、心が折れる。凡人だということは、私はいいと思っていて、そこへの否定はないが、凡人も凡人なりに能動的でいたい。

ある程度、予想外でいたい。

③Walt Whitmanが"I contain multitudes"という言葉を残した。

あんまり他人の言葉を借りるのは好きではないが、この思考は好きだ。

意味としては、人間一人一人には何層もあるという解釈を私はしている。ミルフィールのようだ。矛盾することも大いにあるだろうし、嘘をつくこともある。

余談だが、マンハッタンにあるLady Mの抹茶ミルフィールはとても美味しい。

この「人間一緒くたんではない」という思考に反しいるのが、

自分のことを一つの存在としてまとめる「カコらしい」という言葉
私はこれにひかかっている

26年間いろいろな場面の自分を見てきた中のデータ量 

目の前にいる方が私を見てきたデータ量
自分の方がさほど多くデータは脳内にあるはずなのに、なぜこの人は「カコらしい」なんて言えるのだろう。それこそ、他人だから、そのデータが少ないから言えるのか。
あと、とても人を読むのがうまい人も、もちろんいる。私は、そういう方々にはとても読みやすいほうだと思う。

④真面目に考えすぎ

おそらく正解は④だ。

まぁ、ただこの話に補足すると、

映画を撮ると

写真を撮ると

ちょっとずつ「自分らしい」の発見がある。このプロセスはとてもとても楽しい。

で、この投稿を書きながら気づいたことがある。
聞けばいい。

「私らしいってなんですか?」

って。
ヨン様スタイルでね

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