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神様を信じない私が祈る理由

note公式のお題企画で「#私の習慣」についての記事を募集されていたので、今日は私の習慣について振り返ってみる。


まずは「習慣」の意味を確認。

長い間繰り返し行ううちに、そうするのがきまりのようになったこと。
その国やその地方の人々のあいだで、普通に行われる物事のやり方。社会的なしきたり。ならわし。慣習。
心理学で、学習によって後天的に獲得され、反復によって固定化された個人の行動様式。

goo辞書より

ふむ、毎日でなくても繰り返して当たり前になっていることなら習慣と呼べるんだ。


私の習慣を思い出してみると、驚くほど様々あった。
その中でも無意識にやっていることは、

救急車のサイレンを聞いたら「治りますように」と3回祈る

こと。

断っておくが、私は信仰深いわけでも何かの宗教に入信しているわけでもない。
これは母の教えがきっかけで習慣化してしまった。


私が幼少期のころ、母と道を歩いていると救急車が通り過ぎた。そのとき母は指さして
「あれは怪我をした人を治してもらうために、病院に運ぶための車なんだよ」
「あの車の中には痛い思いをしている人が乗っているの。だからサイレンを聞いたら『治りますように』と祈ろうね。」
と教えてくれた。

3回という数字は、そのとき母が言ったのか後から私が付け足したのかはわからない。なんにせよ、それから20年以上経つ今も救急車のサイレンを聞くたびに私は「治りますように」と祈っている。


ふと疑問に思う。
私は一旦何に祈っているのだろうか。

私は理屈っぽいところがあるので、証明されていないことは基本的に信じられない。神様も幽霊も運勢も、サンタクロースと一緒。信じたい人が信じればいいと少し距離を置いて考えている。

じゃあ何で私は救急車のサイレンを聞くと祈りを捧げてしまうのだろう?


そう考えたとき、数カ月前のWBCの試合を思い出した。
準決勝で日本とメキシコが対戦し、逆転勝利したあの試合。
メキシコに得点をリードされている状況の9回で追いついたあの瞬間。
日本の観戦者 全員が祈っていただろう。

『どうか得点を入れてくれ』

変な話だが、あの緊張を交えた祈りと同じなのではないかと思う。


緊急を知らせる大きな音を響かせながら、周りの車をかき分けて街を走る救急車の中では、きっと苦しんでいる人を救おうとしている隊員の緊迫した救命活動が行われているんじゃないか。
救急車のサイレンを聞くと、そんな状況を想像して胸がキュッと締め付けられる。

『どうか患者さんを救ってくれ』

どうか患者さんが無事ですように。
どうかこの窮地が救われますように。

私はそんな思いで、神様ではなく救急隊員に祈っている。


私は理屈っぽいので、通りすがりの救急車に祈っても救急隊員に届くはずはないし物理的な力になるわけではないと思っている。

そう思っているけれど、習慣のせいでサイレンを聞くと祈らずにはいられないのだ。

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