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陸上競技で記録に伸び悩んだ日々。〜努力の意義を疑うこと〜

目次
1.中学高校と続けていた陸上競技
2.努力することの楽しさと価値
3.努力の意義とは何か?価値観が崩壊し始める
4.ゼロからの再出発

1.中学高校と続けていた陸上競技
私は中学、高校と陸上部の長距離に所属していました。元々は球技が苦手で陸上競技の長距離に入ったのですが、努力して、たくさん練習すれば記録が伸びるので徐々にのめり込んでいきました。

ただ単に練習するのではなく、大会の結果から自分の弱点を分析して、弱点補えるようなを筋トレを追加したり、休日も自主練をしていました。なので、初心者でしたが記録がそこそこも伸びて、陸上競技をさらに好きになりました。

2.努力することの楽しさと価値
陸上競技を続ける中で私は以下のような考え方を持つようになりました。
「努力して何かを達成することが最も優れた価値観である」
努力して、苦労して何かを獲得するという行為を至高としていました。
こうした考え方が私自身の精神的な土台になっていたので、惜しまず努力ができました。

3.努力の意義とは何か?価値観が崩壊し始める。
高校2年生の頃ぐらいから、競技の成績が徐々に伸びなくなってきました。少しばかりのスランプや記録が出ないことは経験していたため、伸び悩み出したからといって、競技への努力は怠りませんでした。
「そんなに甘いものじゃない。だから何度でもトライし続ける」というような心境で努力を続けました。

しかし、1年ほど経っても記録は伸びませんでした。むしろ記録は悪くなっていきました。正確に言うと練習でタイムは向上しているのに、試合ではまったくダメという状況でした。

そこで、ふと考えるようになりました。「こんなに努力してまで、競技の記録を向上させる必要はあるのか?」

冷静になれば、当然です。極論人間が速く走れる必要はないし、人生の価値観において、頑張ることが全てではありません。また努力することが至高だとという価値観の良し悪しを証明する術はありません。

詰まるところ、夢中になり盲目になれていたからこそ、努力ができていました。ですが、その魔法は長く続く成績不振により解けてしました。

こうなっては、今までのように、練習に精を出して取り組むことはできません。競技の成績もさらに悪くなっていきました。

こうして、私は足場となる価値観を失い、以下のようなことを考え出しました。
「世界で最も優れた価値観は何か?」

4.ゼロからの再出発
そもそも価値観というものは個人が各々で大切に持っていればいい話で、世界で最も優れている価値観を持つ必要はありません。しかし当時の私は、私自身の価値観が優れているという自信が欲しかったのです。だから普遍的であることを望みました。

悩んで考え抜いた私が辿りついたのは、世界で最も優れた価値観などというものは存在しないということ。価値観の良し悪しを決める基準は存在しないし、優劣を証明することができない。逆に言えば、優劣を決めれないからこそ、どんな価値観も平等に認めらることができる。

ならば、
「もっと自分の本心に正直に、やりたいようにやっていこう。」と考えるようになりました。

陸上競技に話を戻すと、結果が出なくて辛いといのも本心でしたが、とりあえず部活動は3年間続けたいという思いも本心であったし、結果を追求して努力することが好きだというのも本心でした。

それら一つ一つの本心は、矛盾しあっているようにも思えるし、点と点がうまく繋がらない気もします。ですが、それらを肯定し、そのまま受け入れました。本心や欲求に辻褄を合わせる必要はない。とにかく本心を認めようと考えました。

結果、練習にも精一杯取り組めるようになり、3年生の引退まで続けることができました。ですが陸上競技の成績は向上しませんでした。当然、結果が出なかったことは悔しかったですが、それを含め、人生や自分の心と向き合うことを学んだ良い経験になりました。


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