見出し画像

ベートーヴェン誕生日

昨日(12月16日)はベートーヴェンの誕生日だった。

この男への感謝をどんな言葉で述べればいいのだろう。

交響曲第5番(運命)は、初演の時から「なんかすごいものを聞いた」というザワザワ感を聴衆に与えた。

同じザワザワ感を、私は10歳の時に覚えて、まだザワザワしている。

ベートーヴェンは「自由」という概念と強く結びついている。

教会の中で席を立てない聴衆を相手にしたバッハは、じっくりと盛り上げる音楽を提供できた。それは理想的な均衡を有している。

ベートーヴェン以降は、「自由」に席を立てる聴衆を意識せざるを得なかった。だから、沸点の低い、盛り上がりの早い、盛り上がりの大きい、どんどん盛り上がっていくような音楽で、聴衆をつかもうとする。

バッハの音楽が「安らぎ」を、ハイドンが「活気」を与えるとすれば、ベートーヴェンは「興奮」させようとするのである。

私の知り合いで、

「ベートーヴェンの音楽は汚い。グノーのほうが美しい音楽を書いた」

と言う人がいた。彼の耳はけっして間違っていないと思う。ベートーヴェンの優先順位では「美しさ」が一番でなかっただけだ。

ベートーヴェンがあまりに優秀だったので、パラドックスが生まれる。ベートーヴェンの音楽は、説得力がありすぎて、逆に聴衆の「自由」を奪ってしまう。

「第3」交響曲のような長い曲を、それまでの作曲家はあまり書かなかった。ベートーヴェンは、耳のある聴衆を長く拘束できる自信があった。だからベートーヴェン以降、1曲の時間が長くなり、一方では「退屈なクラシック」の印象が広がる。その音楽が面白いと感じられればいいが、感じられない人には、その時間は拷問である。

「第9」の、有名な終楽章の前におかれた、「退屈な」長い緩徐楽章は、いまも音楽好きを選別する試練になっている。

「自由」から生まれたベートーヴェンが、逆に人々の「自由」を奪う。その矛盾、その功罪については、高橋悠治が書いていた。

だが、それもベートーヴェンの責任ではあるまい。

あまりに強いプロ意識が、彼自身を拷問にかけていたのは間違いない。亡くなった時には大金持ちだったが、金を使う暇のないワーカホリックだった。

その仕事の質と影響力に、いまもかなう者はいません。お誕生日おめでとう。

いいなと思ったら応援しよう!