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よい老人になる自信

私は子どものころから「よい老人」になる自信があった。

30代のころ、デートした相手から、「あなたは、よい老人にはなれそうね」と言われた。

だから、早く老人にならないかなー、と思っていた。

いま老人になって、ようやくここまで来れたか、と思う。これまでの60余年の人生は、無意味だった。

哲学者のショーペンハウアーが書いていた。よき人生とは、親が残した資産で暮らし、働く必要のない人生だ、と。(ショーペンハウアー自身、そういう人生を送った。だから、フランス革命が起こったとき、その余波で資産が奪われないかビクビクしていた)

私はそういう幸運に恵まれなかった。貧乏な家庭で、いっさい余裕がなかった。親が堅実な人だったので、借金などで苦しまなかったのは幸いだが、一家そろって袋張りの内職なんかしていた。

だから、学校を出たら働くしかなかった。なんの門閥も、コネもなく、就職には非常に苦しんだ。それが当たり前だから文句は言えないが、業界(マスコミ)に入ってみると、金持ちの子弟やマスコミ2世3世が多く、しかもそいつらのほうが出世する。フジテレビの新社長は遠藤周作の息子だって? ふーん。世の中とはそういうものだ。

私のようなのは、たいしてよい目にもあえず、定年まで歯をくいしばって働くほかなかった。むかしだったら、退職するまでに親が死に、家を譲られたり、多少の資産が入ってきたものだ。しかし、いまは親が長生きだから、そういうこともない。これまた文句がいえないが、なんだかなー、と思っているのは私だけではないだろう。

私の親の世代は、日本の高度成長期を生きたから、まだよかった。高度成長とは、子どもの世代が、ふつうの人間であっても、親の生活水準を抜けるチャンスだ。親より、よい生活が送れるとなれば、それだけでも生きる希望があるというものだ。最近の中国がそうだった。

しかし、われわれは高度成長が終わったあとに就職した世代だから、親よりいい生活が送れているとは言えない。親の世代で当たり前だった結婚だってできにくくなっている。年金だって、親の世代のほうが多かった。

しかも、むかしは55歳から年金が出た。私から下の世代は65歳にならないと支給されない。この支給開始年齢は、今後、どんどん繰り下げられるだろう。私より下の世代が死にたい気分になっても当然だと思う。生きていても、親よりみじめな生活が待っている可能性が高いのだから。

私が公的年金支給前に「遁世」できたのは、独身で子どもがいないので教育費等がかからなかったこと、サラリーマンの晩年に少しだけ出世して少しだけ貯金ができたためである。それまで老後のためのなんの経済計画もなかったが、退職金で中古マンションを買い、貯金をすこーしずつ、すこーしずつ取り崩しながら生活している。

いずれにせよ、年金支給まで働かなくて生活できるメドができたのは、人生最大の幸運だった。

働かないで生きていける! なんとも素晴らしい日々だ。働いているあいだは、「奴隷」であったとつくづく思う。被雇用者は雇用者の奴隷であり、雇用者もマーケットや取引先、銀行などの奴隷であり、結局のところ、働いているかぎり、人はみな奴隷である。

奴隷ではない、というのは、24時間、自分の考えだけで、時間を自由に使える境遇だ。これもショーペンハウアーが「幸福論」で書いている。朝起きて、今日の時間を全部、自分の考えだけで使えるーーそれこそが生きるべき人生だ、と。

そう、退職して、私は奴隷から「貴族」になれたのだ。日本の皇族だって公務があることを考えれば、あれも本当の貴族ではない。まったく働かなくてもすむ、という境遇を確保して、はじめて「貴族」である。

ずっと貧乏だった私が、退職して貴族になれるとは思わなかった。お金のない「没落貴族」ではあるが、しかし、人生の残り時間が少なくなれば、お金より時間がほうが価値があるのだ。時間をお金に換算できるなら、自由時間がふんだんにある私は、そうとうな資産家である。

同世代でも、「いつまでも働いていたい」「働くのが生きがいだ」と言う人がいる。私にはマジ信じられない。どうせ働かなければならないなら、やりがいのある仕事をしたいものだとは思う。だが、いくらやりがいのある仕事を持っていても、まったく働かなくてもすむならば、そのほうがいいに決まっている、と思う。

もっと言うなら、老人になっても働いている人のなかには、いつまでも肩書きや地位にしがみつき、若い人の前にみにくい姿をさらしている人がけっこういる。

このnoteを私は吉田兼好の「徒然草」の精神で書いているが、その徒然草にも、いつまでも世間にしがみつく老人のみにくさが書かれていた。老人が若者のあいだに混じるのはみにくい、とも書いてあった。同感である。

社会保障費や年金負担の問題から、政府は老人をいつまでも働かせたがっているようだが、社会の迷惑だろう。老人は職場でも嫌われるのだ。認知症を防ぐために、老人も若者に混じって活動しましょう、などと書いている本もある。若者には迷惑だ。なによりも美意識のうえで、老人はできるだけ早く社会から退場すべきである。

いまの60代はむかしの40代だ、とかいう戯言に惑わされないようにしよう。60歳以上の者が「自分はいつまでも若い」などと思うのは、ただただ滑稽だ。「青春とは心の持ち方である」という頭の悪い格言がある。老害で会社のお荷物になっている経営者がよく座右の銘にしているやつだ。「イケメンとは心の持ち方である」といってジャニーズに応募するブサメンを考えてみよ。

徒然草ではないが、「老いては衰えよ」である。もういつ死ぬか、いつ体が動かなくなるか、いつ頭がボーッとするか、わからないのだから、奴隷労働で時間をつぶすのは惜しいだろう。

世の中には、生活のために、70歳を超えても働かざるをえない人たちがいる。自己責任もあるだろうが、気の毒な事情の人もいるだろう。老人になっても働く人にはそれぞれ事情があるのだから、それについてあれこれ言えない。早くリタイアしてハッピーだ、などと言うのは、そういう人たちのことを思うとはばかられる。コロナ禍のいまの状況ではなおさらだ。

でも、私だって、ここまで30年以上も奴隷労働をしたのである。イヤなことばかりであった。やっとそれから解放されて、喜ぶくらいはいいだろう。

もともと私は「隠居」にあこがれつづけてきた。やっと自分の人生が送れる、という思いだ。明日も働かなくて、何をして過ごそうかと思うと、わくわくして眠れないほどだ。

そういう私の、貧乏だがハッピーな老人生活も書いていこうと思う。私はよい老人になる自信がある。

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