「制限」を設けて生活を豊かに
昨日までは小学校教員であったが、今日からは別の職につく。
とはいっても、いろんな事情でまだ仕事は始まっていない。
つまるところ、僕は今、絶賛「ただの人間」である。
いわゆるニートとも表現できなくはないだろうが、一応やるべきことはしっかりとあるので、やはり「ただの人間」というのがしっくりくる。家にいる時間が圧倒的に長い。引っ越しもあるのでその準備だとか、次のステップへの学習だとか、たくさんやることはあるのだが、時間が無限に感じられてのんびりしてしまう。
人間誰しも、同じ状況に置かれたらそうなるのではないだろうか。
以前、育休をとった人が似たようなことを言っていた。
「育休を取り始めたら、仕事からも解放されて、時間は無限大で、ついダラダラしてしまった。」
おそらく、僕らは普段から時間や仕事の縛りを受けすぎている。だから、急に解放されると、何をしたら良いのかわからないという戸惑いもありながら、普段不足している睡眠だとかダラダラする時間というものに反動がいくのだろうと思う。
僕ののんびりも、その反動であろう。
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しかしながら、いつまでものんびりしているわけにもいかない。目の前に次のステップがあるのだから、そのステップに向けた準備をしなくてはならない。加えて、自分で他の道も開拓していこうという目標が僕にはある。その道の方の準備もまた、コツコツと進めていかねばならない。
しかしながら、体がなかなか動かない。のんびりしてしまうのである。
これはなぜかというと、僕自身「時間が無限にある」と錯覚しているからだ。
それもそのはず、昨日まで通勤時間で往復3時間を費やして、おまけに8時間以上毎日働いてきたのだ。慢性的な寝不足もあったのだ。それから解放されて、時間が無限大にあると錯覚しない方がおかしいのである。とはいえ、この錯覚から解放されないことには、没落の人生を歩むことにある。
こうなったら、時間は有限であることを自分の身体に叩き込まなければならない。
ということで、僕は決めたのだ。
noteに使う時間は、1日あたり1時間。
学習に使う時間は、1日あたり2時間。
スマホに使う時間は、1日あたり1時間。
これ以上は、時間を費やさない。そうすることできっと脳は「1時間しかnoteを書けない」「2時間しか勉強できない」という考えになり、むしろ作業が捗ると思うのだ。時間は有限である。有限の中でいかに自分を高めるか、結果を出すかが、この世界の常識である。のんびりする時間も大切だが、のんびりばかりもしていられないのだ。僕の身体に、その感覚を叩き込むフェーズである。
事実、僕はこう執筆を進めながら、1時間のタイマーをセットしている。これが鳴ったら、僕は即座にこのnoteを保存して閉じなければならない。登校もできないわけである。そんな「切迫感」もありながら進めている。
僕の持論だが、「鍛冶場の馬鹿力」というのはあると思うのだ。人間、追い込まれたらちゃんとやるのである。夏休みの宿題なんて、いつもそうであったではないか。普通の人間は、だいたい宿題は溜め込むのである。休みの最後の日まで溜め込んだ挙句、最後はなんとかやり切ってしまう。そのときの集中力たるや、最強ではなかっただろうか。そんな「夏休みの最終日」的な環境を自ら生み出すことで、自分を高めていこうという取り組みである。
***
僕も26歳になった。30代が見えてくると、変に適当な生活も送りたくないものである。見どころのある大人になるには、それなりにちゃんとした生活をしなくてはならない。僕自身、時間の使い方以外でもまだまだ青二歳的なところがあるので、アップデートしていかなくてはならないと思っている。
そのステップワンとしての、この時間制限である。
まずは一週間、続けていけたらなと。
2024.04.01
書きかけの手帖
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