一日暮らし
ふとした時に、幸せを感じることがある。
部屋で一人黙々と課題を進めているとき。
子供たちとくだらないゲームの話をしているとき。
トマトがやけにみずみずしくて何個も食べちゃうとき。
程よい疲れをお風呂で流して、ぼんやりこうしてnoteを書いているとき。
どうしてしまったのだろうというくらいに、ここ最近は何やら充実している。
大学も春学期が終わって、夏休みに突入したからだろうか。
こんなにもわけわからないほど幸せを感じているときは、周りの人まで不思議と幸せそうに見えてしまう。
みんなそれなりに忙しいし、うまくいかないこともあるし、コロナで大変だし。
でもどこか、この色々な限りがある日常ではあるが、そこに向かってひたむきに生きている。
どうかこのまま、今の何気ない日常が続いて欲しい。
僕は心からそう思う。
***
とはいえ、少し不安な自分もいたりする。
少しうまくいきすぎなのではないか、と。
よくいうではないか。良いことも悪いことも半分こずつなのだと。
そのtheoryからすれば、今のこの幸せの感じはそう長くは続かない。
それはつまり、世の常だ。
何百年も前から、それは誰しもが認識してきたことだ。そうでなければ、
祇園精舎の鐘の声ウンヌンカンヌンなどと歌いはしなかったはずなのだ。
次は何か、起こってほしくないことが起きるのかもしれない。
誰かが病気で倒れるかもしれない。大切な人を突然なくすかもしれない。自分が何か悲しい出来事に巻き込まれるかもしれない。テロでも起きるのかもしれない。
そんな縁起でもないことを考えたって仕方がないのは重々承知である。
ただ、今この瞬間がうまくいきすぎて、僕は少々心配なのだ。
良いことも悪いことも半分ずつ。
そのようなことを最初に言いだした人は一体誰だろうか。
でも、この世で最初にその言葉を発した人の気持ちは、僕はよくわかる気がする。
その人もきっと僕のように、この先が恐ろしくなるほど幸せだったのだ。
***
そんなことを書いていたら、禅のある言葉が頭に浮かんだ。
「一日暮らし」
どんなに辛いことでも楽しいことでも、その日限りだという心持ちでいれば悲しみのどん底まではいかないし、浮かれることもない。
たまに人間はこうして、来でもいない未来について不安に思うものである。
ああ、いい日だった。
そう言って布団に入れば良いのだ。
2020.8.3
書きかけの手帳
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