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通知

 車両には、僕独りが取り残されている。電車はとっくに終点に着いていたようで静かだった。開いたままのドアからは、生暖かい風が吹き込んでくる。僕は慌てて立ちあがる、すると視界の隅に白い物が見えた。振り返ると隣の座席にスマートフォンが落ちていた。ギラギラしたカバーからして、それが女性の物であるということは容易に想像がつく。ふと、隣に女性が座っていたことを思い出した。駅員に届けないと――僕は落とし物を手に取り電車を降りる。
 案内表示に従い改札に向かっていると、手にしていたスマートフォンが震えた。思わず、反射的に、画面を見てしまった。

『Kカフェに先に入っているから』
 点灯した画面の中央にはそう表示されている。メッセージの通知のようだ。おそらく待ち合わせていた持ち主の知り合いは、先に着いてしまったのだろう。そういえば店名に思い当たる節がある。たしか駅を出て10分ほどの場所にあったはず。

 直接届けるのはどうだろうか。それほど離れているわけでもないし、なにより拾った方も落とした方も、落とし物の手続きはとにかくめんどくさいのだ。僕はそれを何度も経験していた。カフェに行ってみて、それらしい女性を見つけられなかったら、駅に戻って駅員に渡せばいい。っていうか、これが出会いのきっかけにならないかな、なんて邪で甘い考えがあったことは否定しない。

 それが後悔へと変わるのに時間はかからなかった。Kカフェに着いたものの、僕は店に入れずにいた。一体なんて伝えて渡せばいいだろう。それらしい理由が見つからない、うかつだった。
 何を言っても気持ち悪がられそうな気しかしない――。冷や汗をかく。

 一先ず、それらしい女性がいるのかどうか確認して、いなかったら駅に戻ろう。うん、そうしよう。僕は通行人を装い、窓越しに店内を観察する。女性がいないことを願って。

 ――いた。見つけてしまった。僕の願いは届かなかった。
 彼女は窓際の4人掛けの席に座っている。その向かいの椅子には男が座っていた。どちらも二十台半ばだろうか。僕と変わらないように見える。

 男がこちらに顔を向ける。僕と目が合うと、彼は僕に向かって手招きをした。「えっ」慌てて背後を確認するも誰もいない。僕は自分を指さすと、彼は大きく頷いた。
 恐る恐る店内に入って、手招きする男に近づく。

「座って」
 男に促されるまま席に腰を下ろす。
「君が彼女のスマートフォンを持っているのだろう」
 僕は慌ててスマートフォンを女性に差し出す。
「これあなたのですか?電車で拾って――」早口になってしまう。
「うん、私の。ありがとう」
 彼女は静かに受け取る。

「で、一昨日の夜どこにいた?」
 男は女性を睨みつけた。痴話喧嘩だろうか。

「いや、だから、それは!」
 彼女は露骨に不機嫌になる。
 とても気まずい沈黙が流れる。

 暫くして、男がこちらを向いた。
「届けてもらって感謝をしているが、もう君に用はない」
 僕を一瞥して、そう告げた。帰れと言っているのだ。

 僕は顔を上げた。
「あの」
「なんだ」男が口を挟んでくる。僕は男を無視して彼女の方を向く。
「あの、警察に相談するのをお勧めします」
 彼女は困惑していた。

「おそらく、あなたの知らないアプリが入っていると思いますよ。それであなたのスマホを追跡していたんです」
 彼女がスマートフォンを確認する。画面が横に二・三度スライドして、止まる。彼女のチッという舌打ちが聞こえる、何かを見つけたようだ。
「消さない方がいいです。犯罪の証拠になりますから」
 不正指令電磁的記録供用罪、他人のスマホに許可なくアプリを入れることは犯罪行為になる。整然と伝えると、男は明らかに狼狽していた。知らなかったのだろうか。僕は立ち上がって、店から出る。

 深いため息をつく。とんでもない修羅場に巻き込まれちゃったな。どこかでコーヒーでも飲んで、一旦落ち着こう。
 後ろで自動ドアが開き、先ほどの女性が追いかけてきた。
「あの、さっきはありがとう。これ、届けてもらったし助けてもらったし」
「いえいえ、とんでもない」
 僕は掌を振る。
「あの、詳しいね。私知らなかったわ、そういうことが罪になるなんて。あのままだったら、アイツに……」
 少し怒ったような表情をしていた。
「なんというか、最近僕も同じことをされちゃったっていうか。それで……」
 俯いてしまう。
「僕が悪いんですけどね」
 乾いた笑いを残して、僕はその場を立ち去った。

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