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「みんな」のストーリーに「わたし」はかき消される



「愛想笑いしたり気を遣ったりするの、やめなよ」


ダンスサークルに所属していたとき、一緒に練習をつづけてきたおなじチームのリーダーにこう言われたことがあった。


「愛想笑いせずに素を見せてほしい」

リーダーはそう言いたいのだろう。


愛想笑いしたり気を遣ったりするのは、あなたたちを信頼していないからだよ。

ねえ、ほんとうにわたしに興味をもってる?

わたしがおそれず信頼できるようにあなたたちがはたらきかけていないのに、どうしてわたしだけがあなたたちにこころを開かなければならないの。


「みんな信頼しあってなかよく」

それがあなたたちの理想なんでしょう。

だけど、そこにわたしのこころって存在してないよね。

「みんな信頼しあってなかよく」という理念が大事なのであって、わたし個人のきもちはどうでもいいんだよね。



「みんな」のストーリーにのせてひとと接すると、個人は見えなくなる。

「みんな」のストーリーに、「わたし」はかき消される。






あなたが見ているのはわたしじゃない



ある映画を見た。ネタバレ防止のため内容は改変するが、こんなはなしだった。


主人公の良子は統合失調症を患っている。良子は働かずに実家で両親と暮らしている。

彼女には血がでるまで部屋の壁に頭をぶつけるような狂気的な側面があった。

良子は、両親が自分をグループホームにいれる計画をたてているのを知る。良子は実家を離れる不安と自由を失うおそれにさいなまれた。

そこで、グループホームに入るのを避けるために、彼女はアルバイトを探す。


両親のツテで良子はあるカフェを紹介される。

そのカフェのオーナー夫婦は、病気のある良子をこころよくうけいれ、良子をアルバイトとして雇った。

ひととまともにコミュニケーションがとれず、遅刻を繰り返し、グラスを割り、失敗ばかりする良子にオーナー夫婦はおおらかにやさしく接する。

ここでは不登校を経験した不良っぽい見た目で発達障害のある慶介がバイトとして働いており、慶介は良子に「よっ」と気さくに話しかけた。

良子はだんだん、「このひとたちとならやっていけるかも」という期待をいだきはじめる。


しかし、このお店と良子との関係には、微妙な違和感が描かれている。

たとえば、オーナーの奥さんが良子に

「やっぱり、家でやることがないといろいろかんがえちゃうでしょ。ここでみんなと笑顔ですごしていたら、病気もよくなるわよ」

と言ったり。


良子があたまのなかに過去のトラウマが鮮明によみがえり、外で30分以上休憩をとったときに、戻ってきた良子にオーナーが

「自分から積極的に仕事に貢献しないと、変われないぞ」

と言ったり。


そんなとき、閉店後のお店でオーナー夫婦、慶介、良子の四人で食事をとった。

オーナーは良子に

「ぼくたちにはなんでも話してくれていいからね」

と言った。


良子はそのことばが嬉しかった。

もっと自分のことをわかってもらいたい。

そう思って、こんなことを話した。

「わたし、シャワーを浴びるのが怖いんですよね」

「シャワーが怖い? どうして?」

「シャワー浴びるとき、シャワーの穴がいくつもあって、穴から視線を感じてそれがわたしをぐさぐさ突き刺すんです。シャワーのなかに怖いものがいて、ずっとそいつらに狙われてて。怖くないですか? わかりますよね?」


みんなはきょとんとしていた。オーナーはこう言った。

「いや、なに言ってるの?」

オーナーの奥さんは気まずそうに愛想笑いを浮かべている。

慶介は

「どした? リョーちゃん、不思議ちゃんがでちゃった?」

とその場をなごませようと軽口をたたいた。

良子は「すみません、外の空気を吸ってきます」と部屋から逃げだした。


部屋の外にでると、物干しにはしまい忘れていた布巾が干してある。

良子は取り乱して助けを求めようと母親に電話をするが、母親は電話にでない。

良子はかんしゃくをおこし、スマホを投げつけた。


「良子ちゃん、どうしたの? なにか音がしたけど。大丈夫?」

オーナーの奥さんが良子のようすを見にきた。

良子はホースの蛇口をめいっぱいひねり、布巾に思いっきり水をかけた。

オーナーたちが「何やってるの!」と良子を制したが、良子は暴れてオーナーたちに水をかけ走って逃げてしまった。



オーナー夫婦は、ずっと自分たちのストーリーしか見ていない。

「ひまだから病気になる。みんなと笑顔ですごせば病気がよくなる」
「自分から積極的に仕事に貢献しないと変われない」
「なんでも話せる関係はよいもの」


オーナー夫婦は、良子自身を見ようとしなかった。

良子の病気のことを知ろうとせず「ひまだから病気になる」と結論づけ、

良子の問題を理解しようとせず「自分から積極的に仕事をしないと変われない」と言い、

「なんでも話して」と言いながら良子のシャワーについての発言への理解を拒絶した。

良子は、オーナー夫婦たちにやさしくしてもらえる期待と、実際にはみんなが自分を理解しないことのギャップからくる不安に混乱していた。



「みんな」は「わたし」をかき消してしまう



臨床心理士の東畑開人著「心はどこへ消えた?」の序文には、こんなことが書いてある。

おおきすぎる物語はわたしたちを「みんな」へと束ねあげる。そのとき、個人は群れの一員としてあつかわれ、こころをひとつにするよう求められる。

おおきすぎる物語は、個々人がそれぞれかかえるちいさな物語への想像をむずかしくする。

みんなのこころをひとつにしようとするならば、ひとつひとつのこころはかき消される。


個人を集団の一員としてあつかい、こころをひとつにすることを目指し、「みんな」について語るストーリーが「おおきすぎる物語」だ。

「おおきすぎる物語」は、個人について想像する邪魔になることがある。

「みんな」のほうを見ると、「わたし」はかき消される。


さきのダンスサークルの例でいうと、「みんな信頼しあってなかよく」というポリシーで「素をだせる関係」を大事にしようとした結果、わたし個人にたいする想像力が欠けた。


さきの映画の例でも、あのカフェという集団の家族的な信念によって良子個人の内面が見えなくなっていた。


どちらの例でも、個々人によって事情が異なることを、その事情をかんがえようとせず、自分がもつ一般論にあてはめて相手と接していた。



「あなたを救うもの」はわたしによりそわない



子どものころ、近所のお寺に通っていた。

そこは寺子屋をやっていて、勉強したあとにおやつを食べさせてもらえた。

わたしはその寺子屋に中学生まで通いつづけた。

その寺子屋を運営していた住職さんはやさしくて懐のふかいおじいちゃんで、みんなから慕われていた。


中学生のとき、わたしは人間関係で悩んでいた。

母親に相談しても、

「わたしが子どものころは親に相談なんてしなかったわよ」

と返される。

恨み言ばかり言って気が塞いでいるわたしを見かねた母は、

「住職さんに相談したら」と提案し、住職さんとの相談の約束を取りつけた。


座布団に座って住職さんと向かいあったわたしは、自分の悩みを話した。

すると住職さんはわたしのはなしに合わせて説法を聞かせてくれた。

最初はその説法をうんうんとありがたく聞いていた。

しかし相談を重ねるうちにだんだんイラついて、虚しくなってきた。

なにを言っても仏教のはなしで返されるから、微妙に共感してもらえている感じがしない。

説法を聞いても、あまり解決につながるようにも思えない。

母に「住職さんに話しても説法ばっかでぜんぜん解決しない」と話すと、

「あなたのために話してくれてるのにそんなこと言わないの」と怒られた。


当時中学生だったわたしには説法が自分に入ってこなかった。

しかし、わたしがもやもやしたのはそれだけではない。

わたしはわたしのはなしを聞いてほしかった。

わたしのはなしに普通に返事をしてほしかった。

わたしの悩みを解決するために素朴にあたまをつかってかんがえてほしかったのだ。



いちど、宗教から離れてかんがえてみよう。

ここにアルコール依存症のひとがいるとする。

アルコール依存症には、おなじ病気の仲間が集まって自分たちのはなしをわかちあう自助グループが有効であることがわかっている。

わたしにはその知識がある。

このアルコール依存症のひとがアルコールの問題でわたしに相談しにきたとしたら、わたしはなんと言うだろうか。

「自助グループがいいらしいですよ」

こう言うんじゃないだろうか。


もういちどさきほどのはなしに戻る。

住職さんはこころの悩みには説法がよいとわかっている。

わたしが悩んでいたらなんと答えるか。

説法を教えるだろう。


おわかりいただけただろうか。

わたしがアルコール依存症のひとによくなってほしいと思って自助グループを勧めたのとおなじように、住職さんは100%善意で説法を話したのだ。


わたしたちはなにかに救われる体験をする。

あるいは、なにかがひとを救うという知識を得る。

医療しかり、自助グループしかり、カウンセリングしかり、心理学しかり、宗教しかり、片づけ術しかり、占いしかり、筋トレしかり、自己啓発書しかり。

わたしたちは自分を救ってくれたものやひとを救うものを、それが役にたつと思われる誰かに教えたくなる。


しかしそれでいいんだろうか。

わたしたちは踏みとどまる必要があるのではないか。


さきほど挙げた「わたしたちを救うもの」は、すべて「みんなに役だつ」ものだ。

「みんなに役だつ」ストーリーがあって、それを個人に当てはめる。

「みんなに役だつ」ストーリーは、集団の一員としての「わたしたち」の知恵からできたものであり、個々人の物語は映しだされない。

こまっているひと個人の声に耳を傾けず、安直に「わたしたちを救うもの」を教えるのは、そのひと個人のこころを無視して置き去りにしているのではないか?



「みんな」のストーリーをよけて個人を見る



ふたたび東畑開人著「心はどこへ消えた?」の序文の内容を見てみよう。

こころとはごくごく個人的で、内面的で、プライベートなものだ。
それはほかのあらゆるものを否定したあとにそれでも残されるものだ。

物事をシンプルに割りきろうとするおおきな物語を否定したところにこころがあらわれる。

わたしたちは複雑なはなしを複雑なままに聴きつづけ理解したときに、こころを理解できる。


相手個人を理解するためには、相手個人そのものを見ようとする必要がある。

「みんな」のためのストーリーや、「みんな」を救うストーリーというレンズをつかって相手を見るのではなく、それらを差し引いて等身大の相手そのものと対面し、相手をそのままにわかろうとする必要がある。



「わたし○○だから」は自分を見失う



自分自身を「みんな」のストーリーをとおしてしか見れなくなることもある。

最近流行りのMBTIという性格診断がそうだ。

「わたしはINFJだからこう」というふうに自分を見ることで、その枠組みにとらわれ、ありのままの自分の理解を怠ってしまう。


これはなにもMBTIにかぎったはなしではない。

わたしは自分がADHDだから片づけができないと思っていた。

しかし、こんまりメソッドという片づけ術で汚部屋を脱出したことにより、ADHDは原因ではなかったことに気づいた。

「みんな」を指し示すあらゆるストーリーは自己理解をはばむ可能性がある。



「わたし」を理解するための技術が「わたし」を見えなくする



かなしいことがあった。

精神疾患のあるわたしは、相談支援事業所の相談員さんに相談にのってもらうことにした。

担当の相談員さんは温和でやさしそうな中年女性だった。


あるとき、わたしは死にたいきもちに襲われていた。

しんどかったわたしは、相談員さんと面談の約束を取りつけた。

自宅でわたしたちは床に座って顔をあわせていた。

「もう死にたい、死んだほうがいいって思うんです」

「そっか。死んでしまいたいって思うんだね」

「死んだら大切なひとがかなしむってわかっているのに、それでももうらくになりたいと思う自分がきらいで……いなくなりたい」

「大事なひとがかなしむのに、らくになりたいとかんがえてしまう自分を責めてしまって、いなくなりたいと思ってしまうんだね。それはくるしいね」

そうして、相談員さんは黙った。

相談員さんはわたしがつぎに話すのを待っているようすだった。

わたしはつぎのことばをつむぐことができない。

なんだろう。相談員さんはよくはなしを聴いてくれているのに、手ごたえがない。

自分のほんとうのこころのうちがわに語りかけられていないような違和感。

このひとは「はなしを聴いていますよ」という構えだけ見せていて、じつのところわたしのはなしに興味がないんじゃないか、という疑念。


――この相談員さんは“傾聴”している。

「傾聴」や「支持的アプローチ」といった“技術”を、わたしに“つかって”いる。


「傾聴」は相手のはなしに耳を傾けるための手法であり、

「支持的アプローチ」は支援者がアドバイスしたりせず、本人の問題解決をサポートするかかわりかたである。


このひとはそういった技術をとおしてわたしとかかわっている。

もっと素朴な、ひととひととのかかわりあいがここにはない。

それはつめたい感じがした。


その日は自分のきもちを話して終わった。

それ以来もういちどその相談員さんと話すのがおそろしくて、面談の予約を先のばしにした。

それ以降その相談員さんに相談することはなかった。


傾聴や支持的アプローチは、本来そのひとそのものを理解するための技術である。

しかし、「傾聴」や「支持的アプローチ」という「みんなに有効な」ストーリーにのみこまれると、相手そのものが見えなくなり、かえって相手そのものに直接向きあえなくなる。

「傾聴」や「支持的アプローチ」といった、はなしを聴く技術をうまくつかうことだけをかんがえると、皮肉にも相手のこころにことばが届かなくなる。



「みんな」のストーリーをどけると見えるもの



大学生のとき、心理学の授業でこんなはなしがあった。

「ロールシャッハテスト」という心理検査がある。

カードに描かれたインクの染みがなにに見えるか相手にたずね、その答えからそのひとのこころの状態を見る検査だ。


このテストには解釈の方法がある。

代表的なものは、相手の反応をいくつかの観点から分類して採点するものだ。


ところが、その授業の先生は「それではわからないものがある」と言う。


先生はひとりの男子中学生のロールシャッハの回答を見せた。

スクリーンに彼の回答が映しだされる。

一枚目から彼の答えを見ていく。

染みの描かれたカードをひとつひとつ見ていくとさまざまな答えがあらわれる。

そして最後のカードへと向かっていく。

カードをひととおり見るなかで、わたしはおどろかされた。

彼のこころのうちが見えた気がしたのだ。

もちろん、この時点でわたしたちはテストの解釈のやりかたを教わっていない。

彼の抑圧や怒りの感情の爆発、そして彼のこころの世界の豊かさが、彼の答えにあらわれる。

それはカード一枚一枚だけを見てわかるものではなく、カードのはじめからおわりまでの一連の流れを見てはじめてわかるものだった。


彼の答えを採点だけしたならば、彼のこころをより解像度をあげて理解することはできなかっただろう。

「採点」という共通のものの測りかたでは、彼のこころをていねいにとらえられなかったのだ。


先生はこういった個人のありようにせまるものの見かたを「ナラティブ・ベイスド・アプローチ」と呼ぶと教えてくれた。

「ナラティブ」とは「物語」という意味である。

「みんな」をあらわすストーリーではなく、「わたし」のもつ物語をつぶさに見つめる。

そうすることで、わたしたちは個人の理解にちかづける。



相手自身をそのまま見つめる



複雑なものを複雑なまま理解する。

相手やわたしそのものを理解するには、「みんな」を指すストーリーから離れる必要がある。


わたしたちはいろんなストーリーをとおして相手を見ている。

それが相手を理解するのに役だつこともある。

「みんな」をあらわすストーリーなしには、わたしたちは混沌から相手の輪郭をとらえなければならなくなる。


だけど、「みんな」のストーリーにはまると危ない。

「みんな」のストーリーは個人のこころを覆い隠す。


相手のことをわかりたいなら、「みんな」のストーリーをわきにおいて、雑音のないきもちで相手に向きあってみてはいかがだろうか。




(第三者のプライバシー保護のため、架空の事例を用いた箇所があります。)



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この記事を書いたのはこんなひと


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