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文語における一人称、書くことのエクスタシー

前回に引き続き、一人称の問題について考えていく。
今回は特に文語における一人称の選び取りの問題についてだ。

私は普段身近な人と話す時は「俺」を、会社では「私」を使っている。(口語での一人称の選択については前回書いた)
友人や家族とリラックスして喋る時は、ほとんど「俺」だ。
なので文章にもそのまま「俺」という一人称を持ち込もうとしてみるが、喋る時に発する「俺」と、書く時に記される「俺」は同じようでいて何処違う。ここに違和感があることに気付いてしまった。

喋る時はほぼ無意識に「俺」という一人称を使っているのだが、書く時にはそうはいかない。当たり前のことだが、無意識では文章は書けない。

会話では「俺」が「俺」であることを特別意識しないが、文章を書くとなると否が応でも「俺」が「俺」であることに気づかざるを得ない。
「俺」と俺とのゼロ距離の間に、ある空隙が生まれてしまう。その細い隙間に意識が割り込んでしまう。

「「俺」などという一人称を使って書こうとしている「俺」は本当に「俺」のような奴なのか?」
それでも無理矢理、「俺」らしく書こうとすると、それはそれで「俺」が「俺」自身を真似ているような薄ら寒い感覚に襲われたりもする。それこそ一人称を選び取り、必死に「俺」になり変わろうともがいていた短パン小僧の小学生に、逆戻りしてしまったかのような微かに恥ずかしい思いに苛まれたりもする。

この前、「俺」という一人称を使って文章を書いていた時、自分が「俺」という一人称に引っ張られるような奇妙な感覚を味わった。
自分が考えていること、感じることを書いているつもりが、「俺」が考え、感じそうなことを想像しながら書いているような。。。私から独立した「俺」が「俺」と結びついた独自の言葉を吐き散らしながら、ぐんぐん先へと私を引っ張ていくような、ヘンテコな脱力感とでも言えばいいのか、何だかそんな感じを味わったのだ。

確かにそれは不思議と心地よくもあったのだが、自分が書きたいことからどんどん逸れていってしまうような気にもなった。
あれは演者が感じる没我の境に近い何かじゃなかったろうか?
ある種のエクスタシーだ。エクスタシー本来の意味で自分が自分の外に抜け出していたのだ。
でも私はさらにもう一歩先に進んだエクスタシーの状態に自分を置きたい。
ソクラテスが死に際して魂で物事を見ろと弟子たちに語ったように、自分から遊離し俯瞰的に自分自身と物事を眺めること。何もスピリチュアルなことを言っているわけじゃない。
書くこととは自分自身や自分を取り巻く物事たちから一旦、遊離し距離を置いてそれらに意識を向け直してみる行為なんじゃないかと思うわけだ。

その点、書くに当たっては「俺」という一人称は引力が強すぎるし、「僕」は使い馴染みがなさすぎる。
そこで「私」を使ってみたのだが、こいつはなかなか、自分と自分との間に適度な距離を作ってくれる、たっぷり意識が入り込めるだけのスペースを確保してくれる気がする。

私は「私」という一人称に対して中性、中立なイメージを抱いているから、ニュートラルな意識を保つようにと私自身を促してくれる。
「俺」という一人称が酩酊を与えるなら、「私」は私を素面でいさせてくれる。
私は書く時くらい素面な意識でいたいのだろう。
きっと、素面のエクスタシーから物事を眺めていたいのだ。

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