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着脱可能な一人称とその選択

この前の投稿のために文章を考えていた時、ふと戸惑いを覚えた。一人称の選択についてだ。
いや、正直な話、文章を書き出す時はにいつでも軽い戸惑いを覚える。
僕?私?俺?どれを使ったらいいんだ?
という具合に。

英語圏ならこんな問題は抱えまい。堂々たる物腰で屹立せる「I」をそのまま据えてやればいい。
だが幸か不幸かこの国には、何通りもの一人称が存在する。
僕、私、俺、我、わし、自分、あたし、あたい、ぼき、はたまた自分の名前を一人称で使う場合もある「花子は...」のように。

だからどんな日本人でも必ず一度は、一人称の選択の問題にぶち当たったことがあるはずなのだ。
少なくも僕?俺?私?はそうだった。

この機に今一度、一人称について考えてみようと思う。
私たちが何気なく発している当の「私」に少しでも近づけたら幸いだ。

まず最初に考える糸口になるのは、
それぞれの一人称にはそれぞれ異なる印象が付加されているという点だ。
そこで自分なりに持っている印象を以下に挙げていこうと思う。

※もちろんそれらの印象に異を唱える者もあると思うが、あくまでも個人の見解だ。もしこれを読んでいる人がいれば、ただあなたにはあなたなりの印象を思い浮かべて欲しい。そしてあなたが何故、そのような印象を持ち、今あなたが使用しているその一人称を選び取ることになったのか考えてみて欲しい。
大切なことは普段、立ち止まって考えることのないような物事に注意を向け直してみるということなんだから。

ざっくりとだけどこんな観点で洗い出してみた。
①直感、感覚
②世代
③ジェンダー
④+アルファ

<僕>
①柔らかい、優しい、繊細、無垢
②子供
③男性的(柔)
④小説の語り手(現代)

<私>
①硬い、フォーマル、クラシカル、丁寧
②成人
③中性的
④小説の語り手(近代)、

<俺>
①荒い、粗い、強い、無礼
②青年
③男性的(強)
④えらそう、反抗的

<自分>
①硬い(バリカタ)
②成人
③男性的(軍人、部活)
④不器用、組織への忠誠

他にもあるけど一旦、こんなところだろう。
考えてみて思ったのだが、印象を決めているのは、主に小説、漫画、映画、ドラマなどの登場人物や(自分-不器用の連想は完全にTさんだし、この連想を逃れられる日本人はなかなかいないんじゃないか?)、または自分の生きてきた経験から来ているようだ。

後者の経験について少し個人的な話をしてみる。小学校高学年頃からだろうかー単に私の意識がそれまでまともに働いていなかっただけなのかもしれないがー周りの男子たちの多くが「俺」という一人称を使い始めていることに気がついた。その頃の私は未だに「僕」だった。よくよく見回してみると「僕」はもはや少数派で、「僕」であることがなんだか恥ずかしくなってきたものだ。彼らは男らしさを証立てるチャンピオンベルトのような「俺」を実に悠々と身につけていた。彼らが「俺」と口にするたび、そこには何か絶対的な力の響きが感じられた。もしジャイアンの一人称が「僕」だったら、決して「お前のものは僕の物」になりはしなかっただろう。「俺」だからこそ成り立つ原理がジャイアニズムというものだ。

「僕」もクラスの中心的な男子たちのように「俺」らの一員になりたくて、権力とマジョリティの側に立ちたくて、「僕」は自分から少しづつ「僕」を剥がしていき、代わりに「俺」の皮を貼り付けていった。
始めは相手の顔色を伺いながら、出来る限りさりげなく「俺」を混ぜ込んでいく。
「俺はいいと思うよ」「俺のじゃないよ」「俺は大丈夫」
不自然にならないように素早く一瞬だけ「俺」を繰り出すヒットアンドアウェイ。そんなことを繰り返すうちにだんだんと「俺」は「俺」に違和感を覚えなくなっていった。気がつけば「俺」は「俺」になり変わっていた。
私の一人称の選び取りはこんな風になされた。

振り返ってみると、「少数派になりたくない!彼らの仲間になりたい!男っぽい!かっけえ!」みたいな実にしょうもない動機であったことがわかる。
「僕」が多数派の学校ももちろんあるだろうが、残念ながら私の通っていた小学校は、なんて言うか、その、ワイルドだったのだ。。。

一人称が複数ある日本では、それが複数あり、それぞれ異なる印象や意味を持つという都合上、集団の中である記号の役割を果たしてしまう。
私と僕と俺の与える印象が明確に異なるという点からも、信号の赤と青のように区別による記号性を獲得していることがわかる。

日本語のヴァリエーション豊かな一人称は記号なりの意味とメッセージ性を持っていて、その中から何か一つを選び取るという行為は、自覚的か無自覚かを問わずー選び取っているのだから多少なりとも自覚はあると思うがー他者への目配せ、集団の中でのポジショニング、アイデンティティの確立等々の、至極、社会的な難問に答えていることになるのだ。
しょうもないと思えた私の一人称の選択、その解答としての「俺」は、社会と自我との間に産まれた、れっきとした子供だったわけだ。

さらによく見てみると、一人称は一度身につけたからといって決して脱げなくなるような代物じゃない。普段友人の間では「俺」である人も、会社では「私」になったりする。
口語では「僕」だけど文語では「私」だったり、その逆の人もいるだろう。

このように一人称は状況に応じて付け替え可能なペルソナみたいな役割も担っているから面白い。
そうなると一人称がますます社会的なものに思えてくる。だけど考えてみれば、それも当然の事なのだ。
自分を指し示す必要に迫られるのは他者が存在する場所だけだ。
もしも、世界にただ1人自分だけしか存在しなかったら「私」は消え去るだろう。他者と区別するための記号が必要なくなるのだから。

まだまだ気になることは尽きないが、それはまた別の機会に譲るとして、一旦しめに入ろう。

▼無理矢理まとめてみるとこうなる。
一人称は他者との区別のために必要である。その一人称がこの国には複数あり、それぞれに社会的な意味やメッセージがくっついている。各種の一人称が与える効果をある程度、理解して私達日本人は状況に応じ、それらを使い分けている。
つまり一人称は私有物ではないということ。思入れや印象は各人で若干、異なれど、そいつは紛れもなく社会に対して開かれた、決して独り占めできない公共資産であると。

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