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医療従事者による医療従事者への差別 「差別発言」から「読書の意義」について考える

コロナ禍において、その最前線で働く医療従事者への偏見・差別の問題がある。

私は現在病院で外来、内視鏡室、ドック健診の3部門を兼務している。なんでも屋みたいな感じである。
発熱外来を設けて、トリアージ診療を行っている病院は多く、自身の勤務する病院でも発熱外来にてコロナウィルスの抗原検査を実施している。
厚労省のマニュアルを基に院内マニュアルを作成し、正しい知識と技術にもとづき実施しているので、自身が感染したらどうしよう、などという不安や恐怖はない。むしろ、自分自身が媒介して感染させてはならないという危機感を持ちながら感染対策を徹底して業務に当たっている。
しかし、同じ医療従事者でありながら、皆が一様に同じ方向性を向いていない現状がある。

勤務先の病院には職員食堂があり、病棟、外来、健診、リハビリ、薬局、事務等多職種が利用している。しかし、ある時から急に食堂を利用する職員が減った。ことに、病棟職員を見かけなくなった。3密回避のため食堂の座席数も削減され、休憩時間をずらすなどの対策が講じられたため、そのためかと思っていた。しかし、その理由が、発熱外来に携わる外来職員と一緒になりたくない、うつされたくない、という理由で、つまり、避けられているということを知り、憤りを感じた。(発言は一部の職員である。)
また、外来は感染リスクが高い場所であるから、外来には行きたくない、関わりたくない、などという耳を疑う発言もあった。同じ医療従事者としてこの格差、温度差は何であろうか、あきれた発言に言葉を失った。
ねぎらいの言葉は求めてはいない。
本音であろうとあまりに無理解、無神経な発言ではないだろうか。
誰しも感染リスクはある。かからない保証などない。

このような発言に至る理由は何であろうか。
何かが欠けている、足りていないのではないか。 
私が思うには教養と想像力ではないかと思う。

改めてその意味を調べてみた。
「教養」とは 学問・知識をしっかり身につけることによって養われる、心の豊かさ。

「想像力」とは 経験に意味を、知識に理解を提供する助けとなり、人間が物事や現象を理解するための基本的な能力の一つである。

自分の頭で考えて自分で判断するためには、判断の根拠となる知識、情報が必要である。
しかし、知識や情報がたくさんあってもそれをもとに考える力がなければ、ただ知識があるだけで、活かすことができない。
活かすことができてこその教養ではないか。
そして、考えて理解する、多角的な視点をもつ手助けとなるのが、想像力ではないか。
つまりは、教養と想像力はセットで考えなければならない。
そして教養と想像力を身につけるのに最適なことは
「読書」であると思う。

齋藤孝さんの著書「読書する人だけがたどり着ける場所」でも、読書は思考力を伸ばし、想像力を豊かにし、苦しい時も前進する力をくれるものである。と述べている。このことはいつの時代も変わらず言われ続けていることではあるが、本離れが進む今こそ改めて読書の意義を再確認、再発見することが必要ではないか。

偏見や差別が生まれる背景には教養と想像力の欠如が背景にある。
そして教養と想像力を身につけて、鍛える手段として「読書」は最適なツールである。


以上、差別発言から「読書」の意義について考えてみた。


自身は教養や想像力を身につけるために読書をしているわけではなく、ただ純粋に「好きだから読んでいる」のだが、「ただ読む」だけではもったいない、読んだことを活かせるような読書をしたいと思う。

「読書」は奥が深い。
だからこそ続けていけるのであろう。

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