「見る」ではなく、「観る」でありたい
「見る」と「観る」の違いについて
以前、blogにて「写真」と「画像」の違いについてを私なりの視点で書きました。
まだ見てない方はこちらから。
https://takanorikajiwara.com/blog/waht_photograph
前回にも繋がる内容になりますが、今回は、「見る」と「観る」の違いについて書いてみようと思います。
私は、普段から「観る」に拘り、「見る」にならないようにモノ・コト・ヒトを捉えようと心がけています。
情報を取る場合、人間は五感(視覚、嗅覚、触覚、味覚、聴覚)で捉えますが、その中でも視覚が8割以上を占めているそうです。
これは、私見ですが、視覚で捉える情報は、「見る」と「観る」では情報の範囲は同じでも、深度が違うと考えてます。
今回は、情報の深さって何?ってお話になります。
Instagramで投稿したことがある内容です。☞ "87.001%の写真が撮りたい"
物事を捉える深度の違いとは?
私たちが写真を通じて何を伝えるか、またどう伝えるかに、「見る」と「観る」の違いは大きく影響します。
「見る」とは、物事を目で認識し、その存在を確認する行為です。一方、「観る」はもっと深いレベルで接続する行為です。それは、対象の表面を超え、その奥に潜む本質や意味を探求し、理解することを指します。
さて、これがアート、特に写真にどのように関係するのでしょうか?
簡潔に「見る」で捉える人と、「観る」で捉える人の違いを述べます。
「見る」で捉える人は、被写体の単純な視覚的な表現を捉えます。その一方で、「観る」で捉える人は、撮るモノ・コト・ヒトにあるストーリー性や感情やメッセージ性を見つけ出し、それを伝えることを試みます。
たとえば、風景写真を考えてみてください。「見る」で捉える人は美しい山の風景を見て、その壮大さを捉えようとします。一方、「観る」で捉える人は、同じ風景を通して何を感じ、何を考えるのかを問い掛けます。風の動き、時間の流れ、季節の変化、そしてそれらが引き起こす感情や思考。これら全てが「観る」を形成する要素です。
そして、私たちが「観る」ことで、写真は単なるビジュアルな記録から、「観る」者に感情を喚起するアートピースへと進化します。それは観る者が自身の体験や感情を通じて作品を解釈し、その結果、それぞれの作品が独特の意味を持つからです。
「みた」モノ・コト・ヒトの撮影者も、写真を「みる」人も、その「みる」が「見る」なのか「観る」なのかでその解釈への深さは変わってきます。
これは写真だけではなく、アートや映画、小説などでも一緒です。
深度を高めることで、より深くその作品が持つメッセージを探求することができます。
深度を深めるには?
先ずは常に問う癖を付けることでしょうか?
なぜ、この瞬間を写真に残そうとしたんだろう?
この瞬間どのような気持ちだったんだろう?
何をここから伝えたかったんだろう?
作品のビジュアルが持つ美しさや力強さ、悲しさや儚さ。
そのように、自身の心が揺れ動いた時は、ご自身に問いを促してみてください。
何故、自分はそう感じたんだろうと。
そうすることで、作者の目線や、被写体の目線に自らを落とし込んで、別の解釈が発見できたりして、新しい感動を発見できるかもしれません。
そうした意識が、深度を確実に高めてくれます。
後は、多くの作品や作家に触れること。写真集なんかは気軽でオススメです。
写真以外でも美術館や料理などもそうです。旅に出たりもいいでしょう。
兎に角、ご自身の感性を揺さぶらせ、刺激を与え続けことが肝要です。
「見る」から「観る」へ
さて、色々と述べましたが、まとめます。
私にとって、「観る」ことの重要性を理解することは極めて重要です。それは、私が伝えたいストーリー性や感情を深め、より私自身の心や撮った写真たちが豊かになるための必要不可欠なスキルだからです。
「見る」から「観る」へと視点を変えることで、あなたの感性は新たな深みと意味を持つことでしょう。それは、視覚的な美しさを超えた、より深い感情的な共鳴を呼び起こすことができる作品へと進化します。
新たな視点から世界を「観る」ことに挑戦してみてください。あなたの視線が、まだ見ぬ物語と感情を引き出し、あなたの写真をより鮮やかに彩ることでしょう。
今回は「見る」と「観る」の違いについての私見でした。
何かしらのお役に立てたら幸いです。