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夜行列車 僕のドイツオランダベルギー周遊記 ドイツ編

これは、沢木耕太郎の『深夜特急』に憧れて書いた、僕の旅行記です。

陽気な音楽で目が覚めた。ドイツの空港と聞くと、村上春樹の『ノルウェイの森』の冒頭が浮かぶ。主人公は、ボーイング747の機内で流れるビートルズの「ノルウェイの森」を聴き、過去を思い出し、憂鬱になり、頭をおさえる。その様子を心配したCAに対し「Thank you. I only felt lonely.(ちょっと哀しくなっただけ)」と言って微笑む。

まだ寒さが強い2月初旬。ドイツアムステルダム空港は、小説の書き出しのように、事件を匂わせたり、主人公の苦悩を語ったりはしない。しかししっかりと、カタール航空の陽気な音楽に送り出され僕の初めての海外一人旅が始まった。

イミグレーションを通過し、ドイツに足を踏み入れた。といっても、まだツルツルとした床に覆われた空港内なので、本当にここがドイツなのか実感がない。標識の文字に、アルファベットのoの上にちょんちょんの点が付くウムラウトが散見されるのが、ドイツに来たという実感を僅かばかり与えてくれる。まずは空港からフランクフルト中央駅に向かう。そこから日本の新幹線にあたる特急電車に乗れば今日中にベルリンに着く。フランクフルト中央駅からベルリンまでの特急電車は日本で予約した。

エスカレーターに乗り地下の駅に下りた。案内板を見るとフランクフルト中央駅への電車は1番線から出ているそうだ。1番線へつながるエスカレーターに乗り、降りると、そこはホームだった。銀座線のホームに似てるな、という感想を持つや否や、銀座線との大きな違いに気づいた。改札がないのだ。僕は切符を買わずにホームに立っていた。そうか、上の階にあった機械は券売機で、そこで切符を買わなきゃいけなかったのか。切符を買いに行こうと上の階に戻ろうとしたら、ドイツ語のアナウンスと共にホームに灰色の電車が滑り込んできた。ドアが勢いよく開いた。大きなリュックやスーツケースを抱えたカラフルな人々がいそいそと電車に乗り込んでいった。発車ベルが鳴る。僕も電車に乗り込んだ。僕は無賃乗車をした。

電車に揺られながらスマホを見る。ドイツの鉄道に関する記事を読むと、検察係が定期的に乗りチケットを確認する、と書いてある。きっと空港からの路線では検査されないだろう、となんの根拠もない高をくくり、線路の外壁に描かれた落書きが流れていくのを見ていた。もし検察係が来て違約金を払わされたとしても良い思い出になる。電車が途中駅で停車する。乗り込んでくる人に目をやり、緊張しつつも、そのまま無事にフランクフルト中央駅についた。

お昼を少し過ぎたフランクフルト中央駅の駅舎は、ガラス張りの天井から日光が差し込んでいた。僕は普段東京に住んでいる。東京の駅では、皆目的の電車や改札口に向かって、脇目を振らず歩いている。スタートからゴールまで最短距離で進むプログラミングが組まれた弾丸のようである。一方、ドイツの駅には改札がないため、ホーム内に、ショッピングやランチ目的の人や、ただ目的もなくぷらぷらと歩く人がたくさんいる。食べこぼしたパンを目当てに鳩も沢山飛んでくる。日本では味わえない牧歌的な雰囲気に、駅というよりも公園にいるような感覚さえ湧いてくる。フランクフルト中央駅はヨーロッパ最大級のターミナル駅であり、端から端まで100mほどの距離を10以上の線路が並んでいる。ハリーポッターの映画に出てきそうなスケール感だ。ここが始発点となりドイツ全国、ヨーロッパ各地に散っていくのだ。Gmailを開き事前に予約していた電車の時刻と発車ホームを確認した。17時10分、10番ホーム。ベルリンに向かう電車までの2時間を駅やその周りの街並みを散策して過ごした。

出発の20分前になり10番ホームに向かう。10番ホームで行先案内を確認すると、ベルリン行きの電車の記載がなかった。ドイツ語表記のため読めてないだけだろうと思い、もう一度しっかりと確認した。Bから始まる単語を見つけようとしたが、やはり、ない。スマホでベルリンのドイツ語表記を調べ、もう一度上から追ってみた。ない。10番ホームからベルリン行きの電車は出ていない。

一度正面入口へと向かい、大きな行先案内版で駅全体の電車の行く先と出発するホームを確認した。ベルリン行きの電車はあるものの、出発時間が17:10ではない。Gmailを開きもう一度予約を確認してみる。10番ホーム、17:10発。確かに間違えていなかった。予約メールを上からしっかりと読んでみた。すると出発駅がFrankfurt süd stationと書いてある。僕が今いるのがFrankfurt Main station。駅を間違えていたのだ。時計を見たら17:07。Frankfurt süd stationまではここから徒歩で10分の距離だ。遅延という、いちるの望みをかけ駅まで走った。しかし電車は定刻通りに出発していた。電車を逃した。しっかりと無賃乗車のツケが回ってきた。

僕は急いでカウンターに行き、飛行機の到着が遅れたと嘘をつきイタリア人並みのジェスチャーを交え、なんとか先ほど逃した電車の返金を求めた。しかし結果はノー。ここに払い戻しは出来ないと書いてある、との一点張りで押し返されてしまった。スマホに表示されたQRコードのチケットには払い戻しは出来ないと書かれている。確かに飛行機が遅れようが、もう出発した電車を払い戻ししてくれるはずはない。それに飛行機はしっかりと定刻だった。だが、口髭を生やす鉄道員の、ゆっくりと首を横に振りながら言うねっとりとした「NOOOO」に腹が立った。その鉄道員は、「次は夜の24時発朝6時着のFLIXバスだ。」と言った。

僕が乗ろうとしていた電車はFLIXTRAINというドイツで一番の格安電車だ。もともとFLIXBUSという格安バス会社が、次は電車だと2018年に新規参入し作った子会社であった。ここからベルリンに向かうには3通りの方法がある。飛行機か電車かバスか。電車にはFLIXTRINとICUの2通りがある。FLIXTRAINは今日中に出るのはもうない。ICUは夕方に出るものがあるが100ユーロもする。ゆえに僕の中にICUの選択肢はない。この口髭には少し腹たつがFLIXに運んでもらわないと僕はどこにもいけない。

じゃあ次のバスの予約をしてくれ、としぶしぶ言うと、「かわいそうだから特別に窓側の席にしてやる。」と言い、その口髭の鉄道員は予約の手続きを始めた。

プリントアウトしてくれたチケット代わりのQRコードを持ち、アルミ製の駅のベンチに座った。ここから7時間暇になってしまった。足元にうろつく鳩に、機内で貰ったクッキーのかけらを与えながら、これから何をしようか考えていたら、ふと沢木耕太郎の『深夜特急』を思い出した。『深夜特急』は、沢木耕太郎自身が20代の時にデリーからロンドンまで旅した経験に基づき書かれた紀行小説であり、80年代のバックパッカーのバイブルになっている。確かその小説でも、主人公が駅員とチケットの返金を巡り対決していた。あの主人公ほど口角泡を飛ばした激しい口論はしていないが、僕も憧れていた『深夜特急』と図らずも同じことをしていた。もしかしたら小説の一場面が記憶にあり、無意識に追体験しに行っていたのかもしれない。何を隠そうこの一人旅は、元々『深夜特急』に憧れて決まった旅行だった。そして、今このリュックサックの中にも文庫が入っている。そうだ僕は別に予定通りの旅行を望んではいない。むしろ全ての出来事を受け止めるために、今ここにいる。若い頃の沢木耕太郎を自分に重ね、やれやれ早速トラブルが起こってしまった、と改めて認識し、少しの疲労と充実感を体全体に巡らせた。

電車を逃したことでこの街について新たに知れたこともあった。それは昼間と夜の見事な変わりようである。昼間の駅の周りは、石畳の上にスーパーや土産屋やレストランが並ぶ、主要都市の機能を果たしたごく自然の綺麗なヨーロッパの街並みであった。観光客や家族連れが楽しそうにひと時を過ごしていた。

しかし、日が沈み、月が出ると、昼間活気があったお店はシャッターを閉め寝静まり、その代わりにネオンライトが点灯し、続々とクラブや風俗店が出現していった。そして昼間どこに身を潜めていたのか、お世辞にも綺麗とは言えない、汚くボロボロになった身なりの人々がゆらゆらと姿を見せた。虚空に向かい何かを真剣に訴えている老婆、何か言い争う黒人、震える手でライターに火をつけるやせ細った女性。見渡すと子供の姿はなく、昼間と比べると全体に20歳ほど街が老けこんでいた。この街は昼間と夜とでしっかりと住み分けしているようだ。数人がシャッターを下ろした土産屋の前に集まっている。初めてみる僕でも、そこでお金をやりとりし、何かを吸っていることは分かった。ゴミ捨て場のすぐ横で、高いヒールを履いて濃いアイシャドウをした女性と、首までタトゥーのある男が、もうほとんど裸で、まさぐりあっていた。その真隣で、ホームレスの女性がゴミ袋を破り、めぼしいものが捨てられていないか探っている。そこに500mlペットボトルほどの大きなドブネズミがやってきて、そのホームレスと一緒にゴミに顔を突っ込んだ。歩いていると幾度となく目がギラついた男から声をかけられ、薬物を勧められる。初めて経験するドイツの危ない世界を、恐怖と興味を持ち、歩いた。

だが、少し考えるとそこまで「危ない」訳ではない気がした。日本でも同じだ。例えば新宿は昼間と夜とで構成する人物層は異なるし、夜歩いていれば「飲み放題2000円です」なり「おっぱいどうですか」なり色々と声をかけられる。ホームレスはもちろん、端っこでたむろする何か怪しげな人達もいる。日本でもドイツでも、昼があれば夜がある。

街並みを一通りみたあと、余裕を持って出発の1時間前に停留所に向かった。合格発表の受験生のように電光掲示板とチケットを交互に見て、バスが確かにここから出発することを確認した。出発の10分前にFLIXカラーの緑に塗られた大型バスが到着した。運転手にQRコードを読み取ってもらい、バスに乗り込むと、既に席の半分は埋まっていた。バックを前に抱え、狭い通路をすすみ自分の席を見つけた。座席番号を確認すると、僕の席は見事に通路側だった。あの口髭め、と思ったが、隣の席に既に座っている男は、座高から判断するに2m120kgはあるだろうアラブ系の巨漢であり、狭い座席の間にぎゅうぎゅうに詰め込まれていた。通路側の方が広く使えていいか、と心の中で口髭を許した。

バスは時間通りに出発した。ここから6時間揺られることになる。日本の夜行バスはカーテンを締め切り、消灯し、私語一切禁止の空間だ。誰かのアラームがなったとしたら、一斉に視線が集中するような、余裕のない少しピリついた雰囲気がある。一方ドイツの車内は緩く、お菓子を食べている人もいれば、電話している人も、談笑している人もいた。座席の各所から色んな音が聞こえたが、不思議とすぐに眠ることができた。

バスのエンジンが止まった感覚で目が覚めた。トイレ休憩でサービスエリアのような場所に停まったのだ。隣の乗客が、席を立つ素振りを見せたので、一度通路に立って通した。のっそりと立ち上がった男はやはり目算通り僕よりふた周りほど大きかった。僕は眠かったこともあったので、そのまま座り外にはいかなかった。目を閉じて出発を待っていたら、隣の乗客が戻ってきた。一度立ち奥へ通し座りなおす。すると「これ」と、チョコバーを差し出してきた。トイレのついでに、僕に買ってきてくれたのだ。日本では経験しない優しさに心打たれた。感謝を示しチョコバーを食べながら会話をした。話を聞くと彼はアフガニスタン出身で、10年前にドイツに来た移民だった。今までフランクフルトの建設現場で働いていたが、これからはワルシャワで働くらしい。自分は運良く働き先が見つかったが、仲間には働き先がないやつがいるとも言っていた。他にも何か言ってくれていたが僕の英語力で理解できたのはこれくらいだった。決して豊かな生活はしていないだろうが、まだ会話もしていない、得体の知れないアジア人にチョコバーを買ってきてくれた。ねっとりした甘さと共に、見返りを求めない彼の好意をしっかりと覚えておくことにした。

バスは予定通り朝6時にベルリンのはずれに着いた。アフガニスタンの彼と握手をし、別れを告げバスを降りた。バスはこのまま500km先のポーランドのワルシャワまで行く。緑の大きな車体は白いガスを吐き唸りながら去っていった。バスがいってしまうと、街はまだ真っ暗の夜だった。びゅうっと、ベルリンの冷たい風が、車内の暖房で火照った体を冷ましていく。ヨーロッパの冬の朝は遅い。6時になってもまだ月が明るく出ている。まだ眠っているこの街に、西から運ばれてきた20人ほどの僕らが、もそもそと散り散りに動き、また新たな歩みを始めていた。

ここからホテルまでは6kmほどの距離があるために、電車で向かうことにした。無賃乗車は懲りて今度はしっかりと切符を買う。ネットで調べると、とてもややこしい。まず、切符は1wayと4回つづり、1日乗車券の3種類ある。そして、この後、日本の電車と異なるところが、券売機の隣にある打刻機で電車を乗った時間を記録しないといけない。改札がなく切符を回収することがないため、打刻をしなければ同じ切符で何回も乗車ができてしまうからだ。この打刻がないと、たとえ切符を持っていても検札に罰金を取られてしまう。とりあえず券売機で4回つづりを買うことにした。しかし機械が壊れているのかクレジットカードを何回入れても弾かれてしまう。

「こっちならカード使えるよ」と、バックパックを背負った男性が隣の券売機に案内してくれ何とか購入できた。次に打刻機に切符を通すのだが、どっちを上にして切符を入れていいのか分からない。とりあえず打刻してあれば良いか、と思い適当に入れてみる。チーッガチャ。見事に逆さまに打刻された切符が出てきた。後ろに人も並んでたのでそのままホームへ降りていき電車に乗った。とても面倒くさい。大人しく改札を作れば良いのに。結局検札官はやってこなかった。

最寄駅で降りて5分ほどでドミトリーに着いた。受付のおばちゃんに、フランクフルトで電車を逃してこの時間に街に着いたと説明した。それは気の毒だったね、と言ってもらい、かなりのレイトチェックインをして鍵を受け取った。部屋に入り荷物をおろし、まだ寝ている何人かの旅行者と共に、僕も眠った。

12時前に起床し、顔を洗い、ベルリンの街へと繰り出した。気温は6度、風が冷たい。とりあえず最初に有名なブランデンブルク門に行くことにした。ブランデンブルク門は、18世紀に建設されて以来、ナポレオンの遠征や第二次世界大戦、東西冷戦など、時代の分け目でいつも中心にいた、ドイツのシンボル的な建造物だ。宿から2kmほどあったが、街を見たいので歩くことした。

僕のベルリンの街の印象は「無機質」だ。色味が少なく、ほとんどのものが灰色かクリーム色で構成されている。確かにいわゆるヨーロッパの古い町並みなのだが、どこか冷たさを感じた。フランクフルトでは思わなかった感覚のためドイツ全体ではなく、ベルリン特有のものなのであろう。正直歩いていてワクワク感はなかった。

そんな灰色の街を歩いていると、道に何か赤い丸いものが落ちていた。近づくと、それは誰かが落としていった林檎だった。お手玉くらいの大きさで、日本でよく見る林檎より少し小さい。落ちた衝撃で頭が少し凹んでいるが、まだ綺麗で、何より赤が鮮やかだった。僕はその林檎を拾い、歩きながら手で磨いた。林檎はピカピカにひかり、さらに赤さが増した。そして、僕は食べた。ザリっという音と共に汁が垂れた。数回噛み飲み込むと、食べた感覚がすぐに消えた。日本にいる時も滅多に果物は食べないため、僕の細胞たちが、一目散に林檎に含まれているビタミンを吸収したのだろう。バスの中のチョコバー以来、12時間以上何も食べていなかったので、お腹が減っていた。思えば水分もろくに取っていなかった。その空腹という調味料も重なり、今まで食べてきた林檎の中で一番の美味しさだった。僕はそのまま芯も種もヘタも全部食べた。先ほど地面に落ちていた真っ赤な林檎は、今は完全に僕のお腹の中にいる。ベルリンの一部を体の中に取り込んだような気がした。

20分ほど歩くとブランデンブルク門に着いた。門の前は広場になっており、各国からの旅行者やツアー客、大道芸人、スリ師で賑わっていた。門自体は綺麗な白色で特徴的なのはその高さだ。20mほどあるだろうか、とても高い。その門の上に馬車をひく青緑色の女神のオブジェが凛として立っている。

大道芸人の中に、燕尾服を着てシルクハットを被る男がいた。その男は、スツールの上に木の箱を置き、そこに挿さる歯車を回していた。そこからおそらくドイツの民族音楽が流れていた。陽気だがどこか力強い曲が、この勇ましいブランデンブルク門と、広場にいる笑顔の旅行者をうまく調和していた。

以前イギリス、フランスに旅行した時にも感じたのだが、ヨーロッパの各所にはその場面にぴったりの曲を奏でる人々がいる。教会や駅のホームや広場。それぞれの場所に合う曲をギターや太鼓やバイオリンで奏でている。国や自治体が依頼しているのかと思うくらい、景色と音楽がマッチして、確かにチップをあげたくなる。音楽がなければなんだかただの大きな門だったが、民族音楽の流れる平和な広場にそびえるブランデンブルク門は、ベルリンの観光名所としての役割をしっかりと果たしていた。

ブランデンブルク門を後にし、次にホロコースト記念碑に向かった。虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑、通称ホロコースト記念碑は、先ほどのブランデンブルク門のすぐ隣のブロックにある。その名の通りホロコーストで殺されたユダヤ人犠牲者のための記念碑である。

そこには150m四方の平地に、縦2m横1m高さ50cmほどに均一に切られたコンクリート製の石碑が、均等な間隔で無数に並んでいた。その数は3000くらいにのぼるだろう。外側から見ても圧巻のホロコースト記念碑は、石碑の間を歩くと驚くべき仕掛けがあることに気づく。その地面は平坦ではなく、中心部に行くほど深くえぐれていたのだ。一番深いところは4mほどになるだろうか。そのため一見50cmほどの高さの石碑が並んでいるように見えても、中心部ではその高さは4m以上になる。石碑の間を歩いて行き、深く沈んだ中心部に来ると、自分より背丈の高い石碑に四方を覆われ、音も景色も急に途絶える。ベルリンの観光地のど真ん中にいるとは思えない感覚だ。そのまま石碑の間を歩くと、見通しが悪いため、一つの石碑を横切るたびに、出会い頭に人と衝突しそうになる。それを避けるために自然に足取りが遅くなる。人に会わないようにゆっくりと音を立てずに。自分の息遣いが聞こえてくる。心臓が鳴る。海の底にいるような、深い森にいるような。そのまま数メートル歩くと、地面はなだらかに高くなり、だんだんと光と音が感じられるようになる。そしてやっとひょいっと頭が石碑から覗く。周りをぐるりと見わたすと、観光客が沢山いる平和なベルリンを確認できた。

言い方が難しいが、僕は以前からホロコーストにとても興味があった。小学生の時にアンネ・フランクの伝記を漫画で読んだことがきっかけだ。当時の僕には、ひとつの民族を虐殺するという行為をする心情が分からなかった。誰か一人の勝手な願望ではなく、実際に国をあげて取り組んでいたという事実を何だか信じられなかった。世界には色んな考えを持つ人がいるから、例えばひとり、いや数人が、特定の民族に対し嫌悪感を抱くことがあるのは納得できる。実際に今日本にも、特定の民族を執拗に非難する人たちはいる。僕は全く相容れないが、そんな人が存在するのは分かる。しかし、何万人の人が同調し、巻き込み、結果600万人のユダヤ人を殺したということはちょっと考えられない。戦争下という異常事態の最中のこととはいえ、当時の頭の物凄く良い人たちが、一生懸命に、どうやったら効率的にユダヤ人を殺せるかを考えていたのだ。そしてそれを正義だと思い込んでいた。当時の小学生の僕ではなく、やはり今の僕にも信じられない歴史だ。

今回の旅行では、ドイツの後はオランダに行く。オランダには、「アンネの日記」で有名なアンネ・フランクの隠れ家があり、僕はそこにぜひ行きたかった。しかし、ホームページをみると2ヶ月前に予約が埋まっていた。計画不足だ。今回は中に入ることはできない。まだ旅程は明確には決まっていないが、20代のうちに絶対に行きたい。

このホロコースト記念碑には世界各国から人が訪れていた。その石碑を利用して遊ぶ子どもらを、監視役の大人が笛を吹き、石碑から降りるよう促していた。

次の日、ベルリンの壁に行くために地下鉄に向かった。すると、地下鉄の券売機の前で戸惑っている、日本人のカップルがいた。切符を買ったのは良いものの、打刻機にいつ入れるべきなのか迷っている様子だった。

僕はそのカップルに対し、声をかけることはせず、涼しい顔で昨日買った切符をポケットから出し、当然のように打刻し、ホームへと向かった。

その一連の動作をやり終えた後、ホーム上でひとり赤面した。僕はなんていやらしい人間だ。一言教えてあげれば良いものの、昨日まで同じように、いや彼ら以上に怯えていた自分を過去に葬り、熟練の顔つきでやってみせる。パスポートを首からぶら下げ大きなリュックを背負い、ベルリンの壁行きの電車を待っている、いかにも観光客のくせに、滞在歴3年、ドイツ語堪能ですよと言わんばかりの所作だった。何をカッコつけているのだ。こういう振る舞いに人間の器というものが量られる気がする。僕はまだまだおちょこだ。暫くして同じようにホームに降りてきたカップルの方を、見ることは出来なかった。

地下鉄は間も無く目的地のOstbahnhof駅に着いた。電車を降り外に続く階段を登ると、目の前にベルリンの壁がずらっと並んでいた。高さは3m以上で、霞むくらい先までその壁が続いていた。その壁面に世界各国のアーティストがペイントをして、今は「イーストサイドギャラリー」という名で知られている。一番有名なのが、政治家と思わしき男性二人が熱くキスをする場面を描いたアートだ。ネットで何度か見たことがあったため、僕もそれを目指した。どこにそのアートが描かれているのかは分からないため、とりあえずカラフルに彩られた壁を伝い歩いた。

10分ほど歩くと、ひときわ人が集まっている場所があった。そこがその男性の熱いキス、「独裁者のキス」のアートだった。生で見ると確かにとてもかっこいい。おもわず僕も人に頼み写真を撮ってもらった。僕はこのアートを見て、東側と西側のそれぞれのトップの政治家が、冷戦終結を受け友好を示した、というシンボルとして描かれたものだと理解した。当時のLGBTの感覚からも、普段はしない男性同士のキスを描くことで、新たに結ばれた強い友好関係を強烈に表現しているのだと、力強いこのアートにしばし見とれた。

しかしその場で少し調べてみると、実際はこの二人は旧ソ連のブレジネフ書記長と旧東ドイツのホーネッカー書記長であった。つまり、同じ東側諸国の当時の強い密接な関係を描いたものだった。確かに「『独裁者』のキス」というタイトルになっている。しかもこれは想像上のものではなく、ソ連の伝統の挨拶で、実際に二人が公の場でキスをしていた時の写真を模写しているに過ぎなかった。その事実を知ってしまい、なんだか落胆した。それなら何故皆このアートを良いというのか全く分からなくなった。

興味が急に無くなったので、また壁伝いに歩いて行った。その「独裁者のキス」の100mほど先に、頭のハゲた老人の顔をグレーを基調に描いたアートがあった。目を閉じて口角が下がったその顔は、何か全てを受け入れているような表情だった。調べてみるとアンドレイ・サハロフという「水爆の父」と呼ばれたソ連の物理学者であった。若い頃に核開発、水爆開発の第一人者として活躍したが、のちに自らの良心に基づいて、核実験禁止条約締結への尽力など、反体制派の運動家になった。その活動が評価されてノーベル平和賞も受賞している。描かれている彼の何とも言えない表情に魅了され、歩いている人に頼んで写真を撮ってもらった。これまた詳しく調べてみると、このサハロフの絵を描いた人は、先ほどの「独裁者のキス」を描いたドミトリー・ヴルーベリというロシア人アーティストであった。やはり、先ほどの一番人気のアートを描いているだけあって、絵そのものに何か惹きつけるものがあった。そしてそこに気づけた自分が誇らしく思えた。

有名な観光名所と地元の書店やスーパー、レストランに訪れて僕のベルリンの旅は終わった。次はドイツの西側にあるケルンへ向かう。ケルンにはケルン大聖堂がある。そして次の目的地のオランダにも近づく。ケルンへの電車は明日朝に出発する。今度こそ間違いなく乗車できるように1時間前には駅に着き、出発ホームを確認しておこう。そう心に決めベルリンの黒ビールを飲み干した。

次の日朝5時に起き身支度をし、まだ皆が眠っている中部屋を出た。外はやはりまだ真っ暗だ。オレンジ色の街灯が道をわずかに照らしていた。ベルリン中央駅までは3km。地下鉄で行っても良いのだが、4枚綴りのチケットはちょうど昨日使い切ってしまっていたし、何より最後のベルリンをしっかりと感じたかったので、寒空の下歩いて向かうことにした。

5分ほど歩くと雨が降ってきた。雨といっても霧と雨の中間の、傘をさすほどもない雨だ。顔に触れる雨の雫が風に吹かれとても冷たい。顔をストールにうずめる。暫くすると、独特の匂いがしてきた。雨の匂いだ。日本で雨が降ってきた時にもする匂いと同じだ。この雨の匂いを「地球の匂い」と表現している文章を読んだことがある。この匂いの正体は、湿った土壌の細菌が出す物質の匂い、つまり菌の匂いだそうだ。菌の匂いというか大地の匂い。これを地球の匂いというのが何だかとても良い。ベルリンでも東京でも同じような匂いを感じたので、やはり地球の匂いという表現は的確なのかも知れない。

駅の手前にある、早朝から開いているスーパーに立ち寄った。冷たくなった頰を触りながら、1.5リットルの水と林檎を3個買った。スーパーの隣にいた、毛布に包まれたホームレスの男性に、リュックにあったまだ半分ほど残っているポテトチップスと、林檎を一つあげ駅に向かった。

駅に着き出発するホームを確認し、大きな荷物を抱える人たちと一緒に、マクドナルドで買った暖かいコーヒーを飲みながら電車を待った。

40分後、待ち望んだ電車がホームに入って来た。緑色に塗られた車体。FLIXTRAIN。ホームで待っていた乗客がのそのそと体を動かしその電車の中に入っていく。僕も電車に乗り込んだ。中はかすかにしか暖房が効いていなかったが、それでもこのベルリンの冷えた空気からやっと逃れられたのだと心が緩んだ。

この電車のチケットの価格は1500円だ。ベルリンからケルンの500kmの距離、東京神戸間に相当する距離をたったの1500円で走ってくれるのだ。この価格に抑えるために、FLIXTRAINの車両は、ドイツ鉄道が使い古したものを安く譲り受けそのまま使用しているようで、外見も中身もとても綺麗とは言い難い。しかし、車両間で軋む音と、そのクリーム色の車内はどこか懐かしさを感じさせた。

自由席は3人がけのシートが向かい合わせに設置されており、合計4列のシートが1セットとなり透明の扉で区切られていた。窓側には小さなテーブルが設置されている。車内は空いており一人につき2席ほどの余裕で座れた。僕の目の前の向かい合わせの席には、年季の入った赤いギターのケースを持った20代後半の女性が座った。

電車が動き出すと間も無くして車掌のアナウンスが流れた。ドイツ語なのでもちろん何を言っているのかは分からないが、その車掌は、深く空気を吸い込み一息で長いセリフを鼻から抜ける声でタラタラと発した。明らかに疲れた口調でやる気がないのがバレバレだ。どう聞いても電車で流れるアナウンスとしてはおかしかったので、これがドイツ流なのかと思い少し笑った。すると同時に正面に座るギターの女性もクスッと笑い目が合った。見知らぬドイツ人と笑いが重なったことに嬉しくなり、口に笑いを残しながら窓から流れるベルリンの街に目を移した。するとまた笑い声がした。ちらっと笑い声の方に目をやると、先ほどのギターの女性がまた笑っていた。よく見るとスマホにイヤホンをつけておそらく何かしらの動画を見て歯を出して笑っていた。ついさっきの僕と共有した笑いは、単なる僕だけの一方通行のもので、彼女は動画を見て笑ったタイミングが僕と一緒になっただけだったのだ。私が勝手に抱いた異国での好意は見事に失墜した。

電車がスピードに乗り乗客も落ち着いてきたころに、僕の正面の女性はおもむろにノートとボールペンをリュックから取り出し、ギターをケースから出して脇に抱え、歌いだした。作曲をしているのかノートに何かを書きながら歌っている。周りの乗客を見渡すと、我関せず本を読んだり寝ていたり好きなことをしていた。僕はトイレ行くために扉を開け隣の自由席の空間に行った。そこでは3席分を使い、靴を放り投げ寝ていたり、行儀よく座っていたり、明らかに音漏れしている大音量でスマホゲームをしていたり様々な過ごし方をする乗客がいた。皆思い思いに電車が目的地に着くまでの時を過ごしている。トイレから戻り席に着くと、僕はスーパーで買った林檎2個と1.5リットルの水が入ったペットボトルをリュックから出し腹ごしらいをした。早朝から何も食べていなかったので林檎の冷たい実とベルリンの水が体を潤した。

ギターを弾いたり、寝そべったり、林檎を食べたり。日本の電車で同じことは自分では出来ない。他人がやっていたら嫌な目で見てしまうだろう。しかしここでは全く気にならない。各々の行動は車内のテクスチャーと見事に共存し、むしろそうすることがごく自然の振る舞いだった。これが異国という文化的なものなのか、古い車内が包み込む雰囲気によるものなのかは分からない。優しい声とギターを聞きながら、僕は日本と比べると少し小さい林檎を齧った。

中学生の頃、歴史の授業中に資料集をパラパラとめくっていたら、大きな写真に目が止まった。光が溢れるステンドグラスと、ギザギザした外観の教会。ケルン大聖堂、ゴシック様式。僕はその透き通ったステンドグラスに、「か〜、おしゃれだな〜」と、日本の法隆寺と比較してなんだか日本文化の質素さに苦笑していた。そこから「いつか絶対に生で見たい」という強い思いには特にならず、一つの世界史の暗記単語として捉えていた。あれから10年ほどたった今ドイツに行くことになり、旅行サイトを見ていた時に出てきたケルン大聖堂を見て、あの時の中学の資料集で見た感覚を思い出した。そして僕はケルンに向かっていた。

ベルリンから5時間も揺られたどり着いたケルンは、案外あっけないものだった。昼の12時を過ぎたケルン中央駅の駅舎を出ると、目の前に大きな建物がそびえ立っていた。そこに集まる人の多さに半ば気づきつつも看板を見ると「Kölner Dom」、ケルン大聖堂だった。資料集で記憶していたよりも黒く、より細かに装飾されているケルン大聖堂は確かにカッコ良かった。しかし、思ったほどの感動はなく、日本文化の劣等感なんてものは微塵も感じなかった。まあこんなものかと思い建物をぐるりと一周した。正面入り口から沢山の観光客が中に入っていくが、相場10ユーロほどの教会への入場料と、自分の今のワクワク感と、スマホの充電と、これからの宿への道のりを天秤にかけた結果、僕は中には入らなかった。

宿に到着しドミトリーの部屋に入ると、既にヒゲに坊主の30代くらいの白人男性が一人ベッドに座りおそらくスペイン語で電話をしていた。6畳ほどの部屋には両端に2段ベッドが一つずつ、計4つのベッドがあり、僕はその男性とは反対側のベッドに荷物を下ろした。スマホをコンセントにつなぎ一息ついていると、電話を終えた男性が「君の充電が終わったら充電器貸してくれないか」と声をかけてきた。そこからボソボソと会話が始まった。今日は何をしたのかを聞かれ、ケルン大聖堂を見たけれど入場料がかかるから中には入らなかったと伝えると、「無料で入れるよ」と言われた。改めてスマホで調べてみると、塔の一部はお金がかかるが大部分は無料で鑑賞できるらしい。僕は感謝を伝え明日朝に再び訪れることとした。

結局その日、他に宿泊者は来ず、僕とその男性の二人だけだった。

次の日、男性に別れを告げケルン大聖堂へと向かった。宿から15分ほど歩くと昨日見たケルン大聖堂が、やはり堂々とそこに建っていた。正面入り口には確かにチケットブースは無く、教会に入り心洗われた観光客を狙った物乞いが手を差し出しているだけだった。まだ午前中なので観光客は少なく、ほどなくして僕はアジア系の家族連れの後に続き中に入ることができた。ソロソロと前に続き進むと、冷たく張った空気の先に、かつて資料集で見たステンドグラスが見事に輝いていた。ちょうど朝日が射していたのもあるだろう。そのステンドグラスは間違いなくこのドイツで一番の美しさだった。「私を見にきたのだろう」そんな声が聞こえてくるようだった。ステンドグラスは唯一の神を感覚的に分からせるために作られたものだ。神は光である。僕は信者ではないが、確かにここには神様がいた。カメラを起動し神様も一緒にスマホにおさめ、僕はケルンをあとにした。次の目的地はこの旅のメイン、オランダアムステルダムだ。

《オランダ編へ続く》


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