彼の犬  #6

 タロウさんの里親さんは見つかりましたか、とドッグトレーナーの梅木からメールがきた。まだ見つからないと返信したら、紹介する人を連れて行くと言う。
 紹介だからまだわからない。それでも、私には希望である。タロウを殺さなくていいかもしれないのだ。
 梅木にはときどきタロウの散歩を頼んでいる。彼女はベンツできて30分散歩させて帰るのだが、キッチンのカウンターにリンゴやフルーツゼリーを置いていることがある。外出から帰るとそれを食べてわたしは疲れを取る。癒やされた。
 タロウの散歩をメールで問合せてまだ一度も、断られたことがない。こちらは日時指定だから無理して引受けたかもしれない。事情はわからず、梅木のOKに従うだけである。
 当日、玄関に料金入り封筒を置いて出かける。梅木は封筒から現金を抜き、封筒を戻す。毎回、封筒を使うのはもったいないとメールにあり、以来、エコ封筒と呼んだ。散歩料金は30分2000円である。
 梅木が連れてきた夫婦の妻は、赤ちゃんを抱いていた。ぶくぷくの四肢の膨らみが不安になる。タロウは一度も人に噛みついたことはない。だが用心しない子供が手を出し、それを攻撃と勘違いしたタロウが咄嗟に噛むということだってある。
 タロウが赤ちゃんの手を舐めた。あっと思ったが噛んではいない。
「噛んだことはないですが赤ちゃんだから万一」
私は注意を促す。
梅木と夫婦は気にしない。むしろタロウを気に入る様子だ。
 体の大きい夫は目の大きな童顔で色白な妻はカワイイ系美人だから赤ちゃんも瞳が黒く、可愛いい、つまり美しい家族なのだ。しかも振る舞いが穏やかでやさしいのだった。
 家族と梅木は外へ出る。散歩の練習をするという。私はタロウを洗い、首輪とロープも洗濯機に入れ、清潔にしていた。もし気に入られなければ、タロウの遺伝子と育て方が合わなかっただけだ。タロウの責任ではないと考えていた。
 タロウを生んだ母犬はまだ近所にいる。最初はその親元に引き取ってもらうつもりでいた。まさか断られるとは思っていなかった。庭に大きな倉庫があり、2世帯家族で人手もある。なにより自分の家で生まれた犬だからである。
 返事はのらりくらりだった。

 ドッグトレーナーの梅木は、家族がタロウを気に入るようにタロウを褒める。彼女の責任ではなく、厚意で紹介してくれている。私を助けようとしているだけなのだ。
 そのおかげでタロウは知らない老犬施設に行かなくて済む。冬寒く、夏暑い、エアコンのない、もしかしたら地べたかコンクリートに直に、寝るのかもしれない、汚れた犬舎に鎖で繋がれるという環境がどうしても想像される。
 若い夫婦に貰われたいが、押し付けても先で失敗する。貰わなければよかった。そう後悔するようになれば夫婦にも悪い。タロウが可哀想だ。紹介者の梅木も苦しむだろう。私自身、拒否されて傷つく。
 わたしは自然な態度を装い、もし夫婦に「飼えない」と言われても落胆すまいと必死で言い聞かせていた。
 梅木の厚意はなんだろう。梅木はなんとか夫婦を、タロウの飼い主にしようとしている。わたしをタロウから解放してくれようとしている。
 その日決まったわけではなく、曖昧な感じで赤ちゃん家族と梅木は帰った。数日後、タロウを引き取ると梅木から返事がきた。
 安堵ながら悔いと後ろめたさか湧く。
 シャンプー後のタロウはいい香りがする。
「タロウ、つきみちゃんに可愛がってもらいなさいね」
 渡す前に狂犬病他の予防接種を済ませたい。すぐに動物病院に予約する。役所にも行き、所有者変更を届けた。本人届けが原則だがと言いつつ受け付けてくれた。
 少しでも煩わしいことを片付けてタロウを渡したい。面倒に思われたくない。タロウを貰ってよかったと思ってほしいのだ。
 随分勝手な言い分である。自分は捨てるくせに。
 引き渡し日は一粒万倍日にしてほしいと梅木がその日を何日か知らせてきた。そこまで重いことなのだ。梅木は一身に今回の責任を負っている。
 天気のよい日を選び、動物病院へ向かう。林を抜ける小道を10分ほど、左右の手にロープを2本握って歩く。犬の力は強く、いきなりひっぱられると引き倒される。
 暗くなって双子座流星群を見ようと玄関から外へ出た。タロウが自分も出るのが当然といった目を向ける。ロープを取るとき一瞬、迷い、ちょっとだからと短いロープを選んだ。
 道路を跨いだ林へタロウが入り、下草にマーキングする。私は空を見上げ、星を探した。タロウが道路に飛び戻り、短いロープにひっばられた私は後ろ向きに倒れた。尻もちをつき、背中が路面につき、頭の後ろをコンと打つ。ロープの選択ミスだった。なぜ長いロープをとらなかったのか。
 掌を当ててみたが傷はないようだ。後頭部だから昼間なら病院へ行く。タクシーを呼べば大学付属病院が10分ほどの所にある。
 行ったのは翌朝だった。異常はなかったが医師の「骨折もしてません」にぎょっとした。あたまが骨折したかもしれなかったのだ。タロウが留まらなかったら頭の骨が割れ、血液が流れて死ぬ化膿性もあった。
 日常的な些末な行為の中に命が潜んでいる命とは大層なものだが、一瞬で失う儚さである。

 ベランダに置く犬舎をネットで調べ、店に見に行くとデッキ付きの木製だった。暑さにも寒さにも対応していると說明がある。タロウはデッキに寝そべることができる。屋根は緑、壁は黄色で大きい。
 犬舎が届く日とタロウを届ける日が重なり、友人の一人が軽トラックで迎えにきてくれた。
 タロウは助手席に飛び乗る。もうここに帰ることはない。
 ホームセンターでは三、四人のスタッフが、軽トラックの荷台に犬舎を乗せてロープで固定する。
「大きな犬舎だけど犬種はなんですか」
 スタッフの一人が訊く。
「柴の雑種です」
 広ければ、タロウが遊べる。自由に歩き回っていたタロウは閉じ込められてはいられない。
 前庭のある住宅には軒の広い大きなデッキがある。すでに庭にはロープを繋ぐアンカーが設置されている。タロウはここで走り回れれるのだ。
 タロウはつきみちゃん家族に喜び、はしゃいで庭を駆けまわる。梅木のタロウと呼ぶ声が混じる。私は軽トラックへと歩く。
 ふとタロウの視線を感じた。不思議そうにタロウが動きを止めて私を見ている。なぜ軽トラックに乗るのと問うようにまだ見る。私は視線を外す。
「クルマ出して」と友人を促す。動きを止めたタロウの、初めて見る表情が追う。
 家の片付けは手早かった。ヤマト運輸にネットで段ボールを注文し、分別したゴミを毎日、集積所へ出す。集積所の鍵をアクセサリーのようにくびにぶら下げたまま過ごす。
 大量の紙書類をシュレッダーにかけ、紙袋に入れて十文字に紐で結わえる。タオル、衣類は半透明袋に、鍋類はブルーの指定袋へ、燃やすゴミはピンク指定袋へと分別表を見ながら間違いないようにである。社会参加はゴミ分別が第一歩だ。これができなければ社会で生きられない。引きこもりの子供がいたら私なら、ここから教え、命令する。
 なぜか彼はゴミ分別ができなかった。
「それでよくボランティアと言える」
 2階に住むようになった彼を叱る。光熱費は折半、家賃は近隣相場と決めた。賃貸アパートマンションの物音に敏感な彼は2階がとか隣の男がとか不満を言う。
「集合住宅とは少しずつ我慢するものなの、それが嫌なら100坪ぐらいの家を建てる。この辺なら最低200坪だけど」
 そのうち中古を買うから2階を貸してと彼は言う。管理人するならいいよと私は言った。庭の草刈り、段ボールのゴミ出し、堆肥センターからの堆肥運び等だった。彼は仕事から帰ると2階の小さなキッチンで自炊し、料理を2、3皿持ってくる。
「わたしは自分で好きにするから気にしないで」
 肉を買ってきたと言ってデッキの火鉢に炭火を熾して焼肉になることもある。
 私の作れない料理もあって意外だった。ポテトの冷たいスープ、飴糸散らしのアイス、パテやディップ。スープが好きだと言うと本格的なコンソメスープがきた。
「あなたプロでしょ」
「わかる?」
「ばかにしないで、むかしはレストランに行ったんだから」
 ワイン好きの男を思い出す。ワインもフレンチも知識の蓄積にはなっていないが、舌には自信がある。
「シェフより上だからね」
 父が旬を逃さない人だった。神社に供える海のもの山のものとか言って季節と土地のものが食卓に出る。私も食べ慣れた。舌は五歳までに決まると聞く。コックになるなら離乳食から始めなければいけない。五歳まではファストフードを食べささないのがよい。
「五歳まであなたはなに食べてた」
 彼に訊いてみる。
「お袋の手料理」
「じゃあ、大丈夫」  
「生みの母のことだけど。二番目は料理が下手で中学からオレ自分で作って食べてた、弁当も」 
「私の母は料理が上手だったけど体力が続かなくて伯母に頼ってたわね。伯母はすぐ離婚して実家に居付いてたから。私を育てたようなものなの」
 ゴミ分別のできない彼は分譲地のゴミ集積所にゴミを出すのを止め、職場に持って行くようになった。事業ゴミは民間業者が持って行き、分別する。
 シェアハウスのようになって三年、彼は異動で県外へ行くことになった。
「タロウはどうするの」
「連れていけない」
「あなたが世話するというから預かったのよ」
 会社の寮にいた彼が仔犬を連れてきた。
「殺処分になったら可哀想と言うから置いたのに」
「ごめんなさい」
 ときどき彼から宅配便が届く。ドッグフードや犬のおやつに私への干物や菓子、緑茶が入っている。私はおやつに喜ぶタロウの動画をLINEで送る。送ってきた玩具を咥えて振り回す動画もある。
 一人で毎日、雪の日もタロウと散歩する。林の四季の移りは早い。新芽が出始める黄緑からヤマザクラ、ヤマツツジ、濃緑色に変わる樹木、落葉の赤い季節、裸木の林へ一斉に変化する。人の生命を見ているようだ。自然は循環だが人は一度切りだ。
 落葉に足を埋めながら林の中を歩く。枯れた植物の堆積が鳴る。野鳥が飛び立ち、奇声を上げる。
 フクロウかミミズクかと見つめあったことがある。今もどちらだったのかわからない。
 
 彼から電話があり、また2階に住まわせてほしいと言う。異動でこちらに戻る。
「空き家だからいいわよ」
「どっか行くの?」
「都会へ帰るの、いつまでも遊んでいられないからね」
「そうなんだ」
「そう。だから管理人してちょうだい」
 私は彼に仕返しした気分になる。タロウを置いて去った2年間への仕返しのようだ。
「でもすぐ帰ってくるんでしょ」
「なに言ってるの、もう帰らない」
 私は野心を持って働く。避暑ぐらいにはくるわとLINE電話の彼に言う。そのとき彼がいるかどうかわからない。いてもいなくてもわたしには無関係だ。彼にも誰にも私は振り舞わされない。


 

 


  
  

  



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