見出し画像

「辞める」を邪魔するもの

僕が退職を決意したのは2020年2月末。今から1年と8ヶ月前だ。なんだか随分昔のことのように思える。

「辞めようかな」と考えたことは何度もあった。4年に一度、いやもっとかもしれない。オリンピックやサッカーW杯の開催頻度よりは多かった気がする。

けど結局、辞めなかった。

居心地が良かったのは確かだ。ある意味、楽だった。けど、それだけじゃない。

「ここの方がやりたいことできるんじゃない?」
「ここでだってまだまだやれることあるよね?」「他所の待遇だってそんなに良いワケじゃないの知ってるよね?」
「今ほど自由に動けなくなるかもよ」
「副業だって許可されるか分かんないよ」

「辞めようかな」と考えるたびに、そんな声が頭の中にこだました。辞めたい気持ちが強まってる時ほど、その語気は荒くなった。

「今だって蓄えないじゃん。子どもら養えるだけのお給料、確実に稼げるの?」
「そもそもオマエ、他所で通用するの?」
「辞めてなにすんの?なにができんの?」
「てかまだ治せてない患者さんいっぱいいるよね。途中で投げ出すつもり?無責任じゃね?」

その時は、それぞれの言葉がそれなりに筋が通ってるように思えた。

「確かにな」「それもそうかな」「無責任かもな」

いつしか考えることもなくなり、以前と変わらぬ平常運転を淡々と繰り返す毎日へと戻っていく。

その繰り返しだった。

辞めてしまってから思い返すと「なんてムダな一人問答を繰り返していたのだろう」と呆れる。

2020年3月半ば。僕は退職願を提出した。

退職をめぐるあれこれの中で最も貴重な体験となったのは「退職願を出した翌日以降、先に挙げたような脳内問答が一切起こらなくなった」ということだ。「えっ⁉︎ ウソ⁉︎」って思うくらいものの見事に消え去った。

そしてモードがカチッと切り替わった。

「さて、何しよう?」
「せっかくだから楽しい方がいいな」
「いくら稼ぐ?どうやって稼ぐ?」
「何を知る必要がある?誰に相談したらいい?」
「通用するか?そんなもんやってみなきゃ分からんわ。考えてもムダじゃん」
「何とかすればいいんでしょ?何とでもなるでしょ?」
「途中で辞めるの無責任?じゃあ一生辞めれんじゃん。明日オレが死んだら、それもまた無責任?てか誰が辞めたって結局回ってるじゃん。この17年で職員何十人辞めたよ?」

昨日と今日で別人かと思うくらいの変わりようだ。考えてることのベクトルも真逆に思える。

けど実は、どちらも同じ心の働きによって生じていたということが、今なら分かる。

退職願を提出前の"声"は、僕を現状に留めさせようとする心の働きが言語化されたものだ。

提出後の"声"は、現状に留まるという選択肢がなくなったなかで、何とかサバイブさせなきゃという心の働きが言語化されたものだ。

どちらも根源は同じだ。僕らの脳や身体は、僕らを何とか生き延びさせようとする。安全圏に留めおこうとする。生き延びるうえで、現状において最適の行動を考えさせ、選択させようとする。あくまでら"奴ら"のロジックに従ってのことではあるが。

僕の脳は、退職届提出前の時点では「現状維持」を選ばせようとありとあらゆる手段を尽くした。それが一番安全だと判断してたからだ。しかし、出してしまった後は、現状を維持しようがない。なので、その後のとりうる最適な「新しい手段を探索させる」方向に切り替わった。そうしないと死んじゃうからだ。

僕らの脳は、僕らを守るためには手段を選ばない。理屈も根拠もオールスルーで、確率的に、奴らのロジックに照らして最適と判断される方向になんとか誘導しようとする。

こうした心の働きを「不安」と呼ぶ。身を守るという意味で個体に最適な行動をとらせようとする心の働きだ。これが過剰反応すると不調につながる。身動きが取れなくなる。けど適度な不安は、より望ましい行動を駆動するエンジンともなる。

もう一つ。「現状維持」を選択させようとする時、僕らの脳は「好奇心」にブロックをかける。あれこれ興味を持たれては、何をされるか分かったもんじゃないからだ。でも「新たな環境」でサバイブさせようとする際には、逆に「好奇心」を全開放する。とにかくあらゆる可能性を探索させる方が生き延びる確率を上げれるからだ。

僕らの脳は、本当に節操がない。目的遂行のためには手段を選ばないという意味では、まさに「プロフェッショナル」だ。

退職の前後で、僕はそのことを強く実感した。

人間というのは、最悪に思える状況であってもギリギリまで現状維持を志向する生き物だということを覚えておいてください

ある講演で聞いたとても印象的な言葉だ。どこで、誰の話に出てきたのかは思い出せない。時期は仕事を始めて1〜2年目の頃だったと思う。

当時の僕は、仕事の現場で出会う患者さんたちの不可解な行動に混乱させられることがよくあった。まったく意味が分からないと訝しむことも多々あった。

例えば、夫からひどい暴力を受け続け、助けを求めた先のスタッフからシェルターに逃げることを何度も勧められ、その都度「分かりました」と返事するにもかかわらず、毎回キャンセルして夫の元に戻ってしまう女性。

なぜ逃げないのか?なぜ殴られると分かってるのに自宅に戻るのか?なぜ、結局逃げないのに何度も助けを求めるのか?

僕にはさっぱり分からなかった。

酒がやめれない人。
スロットがやめれない人。
苦痛が限界に達しているのに頑なに病院を受診しようとしない人。
ケンカになると分かっているのに周囲に因縁をつけ続ける人。

彼らは皆「不安」によってコントロールされているたのだ。正確に言えば「いつもと違う新しいことをするー現状が脅かされるーことの不安」だ。僕らの脳は「不確実な未来」を何より警戒する。

新しい行動は、結果が予測できない。いつも通りの行動は、良かれ悪しかれ結果が予測できる。

家に帰ったら夫にしばかれるにしても、どの程度しばかれるか、死ぬほどじゃないことなどは予測できる。けどシェルターに逃げたら?一体何が起こるのか予測がつかない。不安は高まる。あれこれ悪い想像が巻き起こる。夫が激情するのではないか?刃物でも持って暴れるのではないか?今後の生活はどうなるのか?今までよりヒドイことになるんじゃないか?結果、自宅に戻る。すると不安は軽減していく。めちゃくちゃしばかれるにしても。それは想定の範囲内なのだ。

こうして現状維持は続いていく。

昔見たウイスキーのCMのキャッチコピーが思い出される。「なにも足さない なにも引かない ピュアモルトウイスキー山崎」・・・

何らかの理由で現状のパターンが破られた時、それは大きな変化のきっかけとなる。カウンセラーの仕事は、できるだけクライアントにとって負担の少ないかたちで、このパターン変更を起こすことだとも言える。脳はこれを必死で邪魔してくる。

僕らの仕事は、脳の働きとのせめぎ合いだ。

このあたりの仕組みの話は、1990年代にコスミデスらが立ち上げた「進化心理学」に詳しい。彼らは、ヒトの心のメカニズムを進化上の生物学的適応の視点から解明している。また、2002年にノーベル経済学賞を受賞したカーネマン&トヴェルスキーの「行動経済学」も参考になる。彼らは、心の一見不合理な判断が生態学的には合理的であったとの前提からヒトの経済的行動を解明している。彼らの知見が現実的にどの程度の妥当性を持つのかは分からないけれど、少なくとも読み物としてはめっぽう面白いのでオススメだ。

もう一つ。僕ら日本人はDNAレベルで、諸外国の人々よりも不安が強い(リスク回避的・現状維持志向が強い)という研究結果もあるらしい。

第17番染色体にセロトニントランスポーター遺伝子というのがある。セロトニンとは「幸せホルモン」などとも呼ばれ、感情・気分・精神状態の浮き沈みを司どる脳内神経伝達物質だ。その部分の構造のタイプによって、不安の生じやすさが大きく異なるらしい。

セロトニントランスポーター遺伝子のタイプはLL型、SS型、LS型の三つに区分される。LL型は不安を感じにくく、ゆえに新しいことに積極的に接近していく。好奇心を全開にしてチャレンジを繰り返すことに満足を感じる。逆にSS型は不安が強い、いわゆるビビりだ。リスクに敏感で、悲観的で、緊張が強い。新しいことを避け、現状維持を志向する。新しいものを得るより、手持ちのリソースを減らさないことで安心を得ようとする。LS型はその中間だ。

日本人はSS型が際立って多いらしい。アメリカ人ではLL型が全人口の32%、SS型は18%だという。これに対して、日本人はLL型が3%、SS型が65%を占めるという。つまり、怖いもの知らずは1/10しかいなくて、ビビりが3.6倍いるってことだ。勝てるわけがない。ちなみに、その研究で最も怖いもの知らずが多かったのは南アフリカの方々だったらしい。

だからどうなんだという単なる雑学だが、知っておくだけでも武器になる。強い不安を感じた時に「それは遺伝子に、脳に、脳に組み込まれたご先祖さま由来のプログラムによってそう思わされてるだけであって、ホントのところ根拠レスなんだよ。とりあえすパターンを小さく変えるだけでも、状況を大きく改善させることができるんだよ」って、自分を勇気づけることがでる。

話が横道に逸れすぎた。

閑話休題

そんな感じで、僕は10年以上かかってようやく、ご先祖様から引き継いだ「不安=現状維持回路」のコントロールを逃れることに成功した。

めでたし。

<003>


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?