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心の健康に寄与する仕事(雑考) 31/100

僕の仕事はカウンセラー(公認心理師)だ。

「心のケアの専門家」と言われたりする。「国民の心の健康の保持増進に寄与すること」が僕らの役割なのだと、法律に明記されている。

(目的)
第一条 この法律は、公認心理師の資格を定めて、その業務の適正を図り、もって国民の心の健康の保持増進に寄与することを目的とする。

公認心理師法

いつも違和感を感じている。

目的に文句はない。

ただ「専門家」と称されることに、どこか違和感があるのだ。「心の健康の維持増進」が、カウンセラー(をはじめとするメンタルヘルスに関わる専門職)の専売特許のようにみなされるのは、どうなんだろう?と思うのだ。

ちゃんとそう見なされていないならOKだ。

案外世間の人はちゃんと分かってて、この業界の内側にいる人だけが「我こそは専門家なり」「我らの考えややり方こそ最良なり」と勘違いしてるだけなのかもしれない。

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「心の健康」とはなにか?

心の健康とは、日々の生活や周囲との関わりのなかで、不快が減らされ、快が保たれるように、身体と感情と思考と行動のサイクルがきちんと回りつづけていること。その快適さが体感できている状態のこと

僕はそんな風に定義している。

そして、「この世の中に、心の健康の維持増進に寄与しない仕事なんて、一つもない」

僕はそんな風に思っている。

この世に存在するあらゆる仕事は、なにかしらの意味で、誰かが誰かのニーズを満たす(快を増やし、不快を減らす)ことで「心の健康」を増進させることに役立つからこそ、仕事として成り立っているのだと思う。

だって、その仕事が誰の心にもなんら良い影響を及ぼさないとしたら、なんのためにやるの?なぜ存在するの?

倫理とか道徳とか経済合理性とかを持ち出すと(それらは大切だと思うけど)ややこしい議論になるし、適正なバランスを考えることは大事なことではある。

だけど、ごくシンプルに考えれば、どんな仕事も、どこかの誰かをなんらかのかたちで安心させたり、気分良くしたり、癒したりするからこそ、仕事として存在しえているのだと思う。

コミュニティデザイナーの山崎亮さんが言ってた。

働くとは、傍を楽にすること

そういうことだと思う。

「ナイフみたいに尖っては、触るものみな傷つけ」るような行為は、仕事にはなり得ない。ただ、その心情を言葉に変換し、イカしたメロディに乗せ、イケてる人たちに歌わせれば、多くの人を魅了する「仕事」に変わる。

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腹が減れば、飯を食う。

空腹が満たされれば、快が増す
料理が旨ければ、快が増す
良き食材と調理で、快が増す
良き調度・照明・空調・音楽で、快が増す
良きもてなしと雰囲気で、快が増す
親しき同伴者で、快が増す
良きお喋りで、快が増す
お喋りを彩る推しや娯楽で、快が増す
安心して帰路につけることで、快が増す
肌寒さを感じ羽織ったコートで、快が増す
街角で出会った占い師の良き予言で、快が増す
安心して帰れる家があることで、快が増す
玄関先に飾られた花の香りで、快が増す
シャワーと清潔な衣服で、快が増す
ソファに身を沈め目を閉じれば、快が増す
「このまま眠りついても大丈夫」ーそれくらい安全に感じられる場所があることで、快が増す

そのすべてが、そこに関わるすべての人・モノ・仕事が、なんらかの快を増やし、不快を減らすことで、その人の心を満たすことに寄与している。

つまり、すべての仕事が「心の健康」に寄与している。

あらゆる仕事は、どこかの誰かの心を満たし、健康に導くためにあるのだ。

世界は誰かの仕事でできている

コーヒーブランド「GEORGIA」が2014年から展開しているキャンペーンのキャッチコピーだ。ベストセラー『「言葉にできる」は武器になる。』の著者でコピーライターの梅田悟司さんの作品らしい。

すてきな言葉だ。

世界は、僕らの心の健康を維持増進すべく生み出された、無数の仕事でできている。

身体の健康はもちろん大事だが、それとて心で「快」ときちんと感知されることなしには意味をなさないと思う。

もちろん、ある仕事が誰かの快を増やす一方で、他の誰かに不快を与えてしまうということもある。すべての人を等しく満遍なく快に導く「究極の魔法」「完全無欠のシステム」はない。

しかし、大小無数の仕事がつながり、連動し、影響しあうことによって、僕らの生活はなめらかに回るようになる。無数の人の創意工夫や右往左往が折り重なることで、不快が減らされ、全体として心の健康度が高いレベルで維持されるように調整・最適化するシステムが自然発生的に生み出され、たえまなく更新されつづける。

それが、この世の中だ。

僕らの心の健康は、自分も含めた世の中全体(システム)が、複雑かつ見事に協調することによって保たれ、癒され、高められているのだ。

カウンセラーをはじめとする「心の健康に寄与する専門家」と呼ばれる者たちの仕事は、その巨大なシステムのごくごく小さな部分でしかない。ある意味では、誰もが専門家なのだ。

では正確にいうと、僕らカウンセラーは何の専門家なのか?僕らの仕事は、他と何が違うのか?

僕らは、心がとりうる、ある例外的な事態への対処に対する専門家なのだ。

どんな例外か?

すべての人を支えている、日常的・個別的な「心の健康維持システム」から、不運にもこぼれ落ちてしまった状況だ。いつものやり方、常識的なやり方では「心の健康」が維持しきれなくなった場合、つまり緊急事態に陥った人を救うことに特化した「特殊な対処法」の専門家なのだ。

そうした状況では、常識的な対処法では解決に向かわないことが多い。むしろ、常識的な対処法が問題の悪化をもたらすことさえある。

そんな例外的な状況において、問題を解決し、あたりまえの健康な日常を回復させることに役立つ、ある意味「反常識的」なノウハウを身につけているのが、「心の専門家」と呼ばれる者たちである。

逆に言えば、カウンセラーの用いるノウハウは、あたりまえの日常においては、時に無用だったり、余計なお世話だったり、場合によっては害になったりもする。

腹痛の薬を服用するのは、腹が痛くなったときだけだ。腹痛の薬が腹痛を予防してくれるわけではない。

「今晩、何が食べたい?」と妻に尋ねられて、「ふむふむ、君の今の気懸かりは僕が何を食べたいと思っているかってことなんだね」としたり顔で返答をすれば、妻は不審な目をしてタメ息をつくことだろう。二度と夕飯のリクエストを求めてくれなくなるかもしれない。

勘違いしちゃダメだ。

専門家を名乗る者のノウハウは、異常事態や緊急事態において用いられる「限定的」あるいは「状況特異的」なものなのだ。

専門家の言うことを、あらゆる場面にあてはまる普遍万能のノウハウと勘違いしてはならない。

ほとんどの人の日常においてもっとも大切なのは、これまで長きにわたってその人を支えてきた「あたりまえ」「普段着」のノウハウなのだ。

専門家は、特異な存在であって、特別な存在ではないのだ。

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・・・みたいなことを考える。

あたりまえのことを、わざわざめんどくさく書いてるだけのような気もする。

大切なことを書こうとしてるけど、ぜんぜんピッタリした言葉を当てることができてないような気もする。

いずれ、もっとこなれた言葉になればいい。

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