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ダイエット&ボディビルBL「愛と筋」34

「……ろ、尚太郎、起きろ」

揺すられて、尚太郎はうっすら目を開けた。

(あれ、ここ……僕の部屋じゃない……って、あっ!)

昨夜の記憶が一気に蘇り、がばっと飛び起きる。

「ふ、藤さん、おはようございます!」

「はよ。そろそろ家に帰って荷物取ってこねぇと支度する時間がなくなっちまうぞ」

「あ、はい」

うなずいてベッドから降りると、脱衣所に置いていた昨日の服を手渡された。
スウェットを着た藤は、浄水器の水を飲んでいる。どうやら水抜きタイムは終了したらしい。

(なんか、いつも通りの雰囲気だな……お、おはようのキスとか、したかったけど……)

未練を感じながら着替えを済ませ、「じゃあ、また来ます」と玄関に向かう。
そこで藤に呼び止められた。

「尚太郎、キスしろ」

「えっ、えっ……」

「早く」

尚太郎はぎゅっと目をつぶり、ゆーっくり藤の唇に近づいて、触れるだけのキスをした。それだけで心臓がバクバクする。
真っ赤になった尚太郎を見て、藤はにやりと笑った。

「なに照れてんだよ。昨夜はもっとすごいことしたのに」

「いや、あの、その……」

「くくくっ、ヘアセットするから早めに戻ってこいよ」

「はい、行ってきます」

「いってらっしゃい」

尚太郎はふわふわした気分で駅に向かい、電車に乗った。

(いってらっしゃい、だって……なんだか、新婚さんみたいだ)

裸エプロンの藤がしゃもじと包丁を持って「行ってらっしゃい、あ・な・た(ハート)」とウィンクするところを想像し、思わず隣に座るおじさんを担いでスクワットしたくなったが、捕まって大会に出られなくなっては困るので自重した。

自宅に帰り、新しい服に着替えて、用意していた荷物を持ち、すぐに出る。
父に黙って外泊したのは初めてだったけれど、何も言われなかった。やけにピンク色の空気をまとっていた父を少し怪訝に思ったが、おそらく自分の視界がピンク色だからだろうと納得して藤の家に戻った。

「髪をタイトにすると頭部が小さく見えて、スタイル良く見えるんだ」

すでに自分の準備を済ませた藤は、尚太郎のクセの強い黒髪に強力な整髪ジェルを塗りたくり、オールバックに整えた。
たったそれだけで驚くほど印象が変わった。タイトなヘアスタイルによって鋭い印象が強まった輪郭に、柔和な目元が甘さを加え、絶妙な男の色気が漂っている。
藤は思わず見入って、ぼそっとつぶやいた。

「……おまえ、いい男だな」

「え、なにか言いました?」

「いや、なんでもない。そろそろ行くか」

尚太郎と藤は、赤い電車で数駅揺られ、KBCの会場である『KS筋肉文化会館』に到着した。

Kフィットネスが建設したこの施設は、洗練されたモダンな外観や、エントランスに飾られたマッチョの銅像が、アートミュージアムのような雰囲気をかもしている。

「地下2階は駐車場、地上3階はすべて多目的ホールで、KBCのほか、筋肉交流会や全国統一筋肉テストなど様々なイベントに利用されている。そのため筋肉の聖地として崇められ、29(にく)日の金(筋)曜日には筋肉崇拝者たちが礼拝に訪れるんだ」

「へぇ」

藤の説明に相槌を打って、黄金の自動ドアを抜けた尚太郎は「うわ、」と声をあげた。
広々としたロビーには、男性ホルモンの塊たちが密集し、むんむんと熱気を放っている。

「す、すごい人ですね……。参加人数少ないんじゃなかったんですか?」

「参加者は、ボディビル部門が67人、フィジークが90人だが、そのサポーターもいれば観覧者もいる。KBCは会長のおかげで注目度が高く、それに比例して質も高いから、トレーニーたちがこぞって見にくるんだ。あと、あれも人が集まる理由の一つだな」

藤が指差した先にはKフィットネスの物販ブースがあり、自社ブランドのサプリメント、アパレル、フィットネスグッズなどを販売している。
いずれも高品質で、トレーニーの根強い人気を得ているため、かなり繁盛しているようだ。……いや、あの繁盛ぶりは、売り子の人気も大いに影響しているにちがいない。

「うっほぉぉぉーーー! 来宮くぅん! かっこいいーーーい!」

耳をつんざくような野太い声に、

「あはは……」

苦笑しているのは、ボクサーの来宮選手だ。
驚異的なパワーと超人的なスピード、そして天才的なボクシングIQによって美しい容貌を保ったまま世界ミドル級4大タイトルを獲ったあと、WBA5階級制覇を成し遂げたうえ、ボクシングの天下一武闘会とも称されるWBSSでヘビー級王者となった、まさに世界最強、28歳にして『生きる伝説』と呼ばれるボクシング界のスーパーヒーローである。
そんな彼が、海外ビルダー顔負けの筋骨たくましすぎる身体にKフィットネスブランドのシャツと短パンをまとって、マネキンよろしく立っている。

「あいつはKフィットネスの契約アスリートだから、宣伝のために呼ばれたんだろうな。もっとも一生遊んで暮らせる額のファイトマネーを稼いでるあいつにとって、あれは仕事じゃなく父親のためのボランティアなんだろう」

藤はそう言って、マッチョたちが殺到するレジを見やった。

「俺、このシャツ3枚買います!」
「僕は5枚!」
「パーカーとタンクトップくださいっ!」
「リストバンドとキャップも!」
「来宮くんが今はいてる短パン、脱ぎたてで!」
「あ、ずるいぞ! じゃあ俺は来宮くんのパンツ、脱ぎたてで!」

「お、お客様、落ち着いて、列を作ってお並びください! あと来宮選手のパンツは非売品です!」

「……すいません、俺、筋肉酔いしたので、ちょっと休憩します」

「いやぁぁ、来宮くぅぅぅん、行かないデェェ!」

げんなりした表情でこちらへ駆けてくる来宮選手の前に、「来宮選手ぅぅぅ!」新たな肉の壁が立ちはだかった。

「俺の大胸筋にジャブを入れてください!」
「来宮選手! このまえの試合、EMSベルト巻いて観に行きましたっ! めっちゃシビれましたっ!」
「おれっ、大ファンなんです! 来宮選手に憧れてボディビル始めました!」

いや、そこはボクシングだろ。尚太郎が内心でつっこんだとき、厚みのある声がした。

「すみません、こいつ今から休憩なんです。あとでまたブースに立つんで、お話はそのときにしてもらえませんか」

にこやかに歩み寄ってくる太めのおじさんを見たマッチョたちは、血相を変えた。

「うわっ! 吉田会長だ!」
「おい、さがれ! このお方に指一本でも触れれば来宮選手に瞬殺されるぞ!」

波が引くように離れていったマッチョたちに、「人を危険物みたいに……」とつぶやいて、吉田会長は来宮選手の手をとった。

「ほら智典、スタッフルームいくぞ」

「はぁい」

でれっと相好をくずした来宮選手に、藤が声をかける。

「よぉ、相変わらずだな」

「あっ、藤くん。久しぶり」

「大盛況だな。おまえのおかげで凄まじい売り上げになりそうだ」

「それはいいけど、正直疲れるよ。せっかくのオフなのに……」

「親孝行と思って頑張りな。それにしても一段とデカくなったなぁ。105kg、体脂肪率8%ってとこか」

「うん、当たり。ヘビー級だとバルク制限しなくていいから、つい増やしすぎちゃって……でも110kg超えたら急激にスピードダウンするから、これ以上増えないように頑張んないと」

「ははは、相変わらずナチュラルに嫌味なやつだな。ボディビルの大会にも出やがれこの野郎」

「俺はボクサーだから、ボクシング以外の勝敗の場には上がらないよ」

(藤さん、来宮選手と知り合いだったんだ。すごく仲良さそう……)

来宮選手は既婚者だとわかっていても、つい焦りを感じてしまう。微妙な顔をしている尚太郎を、来宮選手がちらっと見た。

「そっちの彼は?」

「俺の愛弟子。尚太郎っての」

「え、弟子って……パーソナルのお客さんじゃなくて?」

「客じゃない。プライベートで面倒見てるんだ。いろいろと」

「えっ、藤くんが!? その子そんなに見込みがあるの?」

「見込みがなきゃ、自分の時間を削って掘らせてまで世話しねぇよ」

「へぇ~」

「んじゃ俺ら行くわ。売り子頑張れよ、ケルベロスブラック」

「うん、そっちも頑張って、ヤマタノオロチパープル」

二人はニヤリと笑い、同時にしゅばっと構えた。
来宮選手は肉食獣のガオーポーズで、

「聖なる牙で眠らせてやる、ヘルファングショット!」

対する藤は、両手を頭上で絡めて腰をひねったポーズで、

「正義の鞭の裁きを受けよ、ギルティスネークウィップ!」

一瞬にして凍りついた空間に、温かみのある声が響いた。

「頑張ってくださいね、応援してます」

吉田会長が、尚太郎に向けてにこやかに手を振った。その春風のような雰囲気に、固まっていた周囲の人々の表情がゆるゆると和んでいく。尚太郎も我に返ってぺこっと頭を下げた。

「は、はい、頑張ります!」

「ほら、智典、いくぞ」

「我が麗しのマーメイドピンクよ、実は、君にプレゼントがあるんだ」

「え……何?」

来宮選手はポケットから艶やかなピンクの紐を取り出した。
吉田会長の顔が引きつる。

「え……何?」

「フランスから取り寄せたオーロラピンクのシルク糸を、リリアン編み機でせっせと夜なべして編みました」

「……で、何?」

「紐だけビキニです」

来宮選手はまばゆい王子様スマイルで、シンデレラにガラスの靴を差し出すように恭しく、吉田会長へ紐だけビキニを差し出した。

「自信作です。これまで着てもらったどの紐だけビキニよりも、あなたの豊満ボディを美しく飾り立てるでしょう。夜まで待てないのでスタッフルームで着け……いたたた!」

言い終わる前に、吉田会長が来宮選手の耳を引っ張った。

「ほら、とっとと歩け。……あと、忘れてるようだけど、今夜は一晩中アメリカ行きの飛行機の中だからな。変なことするなよ」

「わかってますよ。だから今すぐ紐……」

「粛清の右フックで黙らせてやろうか」

「ごめんなさい……」

通路の奥に歩いていく二人をぽかんと見送る尚太郎の手を、藤が引いた。

「尚太郎、俺たちも受付いくぞ」

「はい。……藤さん、来宮選手と友達なんですね」

「ああ。会長のマンションに居座ってたときに、帰省したあいつと会って、ビーストイレブンの話で仲良くなった」

「へぇ」

「あ、そうだ。巨大スクリーンでビーストイレブンシリーズ全3650話を20倍速で観るファンイベントが来月あるんだが、おまえも行くか?」

「遠慮します」

そんな会話をしているうちに受付に着いた。

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