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「茜色のひまわり」




「茜色(あかねいろ)の
       ひまわり」



「─ねえ、あかねちゃん、ここんとこ毎日、遊ばないね─」学校帰りに、遊ぶ約束を交わしている同級生の輪の中からそう声を掛けられた。
茜は立ち止まり振り返ると、
「ごめんね。ちょっと用事があるの」そう応え笑った。
もうじき待望の夏休みになる。
蒼空に描かれた下り調子の飛行機雲の先に遥か上空の陽射しを受け白く光る小さな機体の緩やかな動きを目で追いながら、足速に校門を出た。

『─遊びに行くなら、家に一度帰ってからにしなさいよ』頻繁に言われる母の忠言を思い出すのだが、今日も帰宅路とは反対の方向に足を向けた。
どうせ母は仕事で夜まで帰らないのだ。
まだ夕暮れまでには間はあるが走らずにはいられない。
少しでも長い時間父を待ちたいのだ。
『─そうだなあ。夏には帰れるかも知れないかなあ─』そう言っていた。
その約束はまだ小学校に入学して間も無くのことだが確かに記憶している。
最後に見送った朝、頭をぽんぽん、と優しく撫でつけてくれた。心地の良い大きな掌の感触を憶えている。

 すっかり咲き切った向日葵の林立した畑を小高い場所から見渡し立ち尽くしていると、
『─この向日葵たちと向き合えるくらい茜の背が伸びた頃には、きっと帰るよ。そうだ。ここで待ち合わせしよう─ほら。遠くから電車が通るよって音がしてるだろ。あの電車に乗ってね─』そう言っていた穏やかな声が耳に蘇る。
何年経つのだろう─。去年もその前の年も毎年、この場所で待っているのに─。
茜は辺りを見回すとスカートのポケットから玩具のスマホを取り出した。
「─もしもし、パパ?─あのね、今日ね。先生にほめられたよ。調理実習でね、ご飯たいて、おみそ汁作ったの。─いつも、ママのお手伝いしてるんだよ─今度、パパにも作ってあげるね─」俄かに声を顰(ひそ)めた戯(たわむ)れに、はにかむ様に頬を染めた時カンカン、カンカン、と遠い音が聞こえて来た。

列車の通過を報せる微かな警告音を幾度やり過ごし待ち侘び、時折行き交う人を確かめても今日も父の姿はどこにも認められない。
熱気を孕(はら)む風を汗ばんだ額に感じながらまた遮断機の音が聞こえて来ると淋しさが押し寄せ、不意に泣きたくなって来た。
茜は俯(うつむ)いてぎゅっ、と目を瞑(つぶ)ると「ゆかいな牧場」を唄い出した。
右に父、左に母の掌を繋ぎ良く唄った歌だ。
「─♫あら チッチッチッ ほら チッチッチッ─♫─」リズミカルに
繋いだ四つの掌を揺らし、腕が大きく揺れる度に三人で笑った。

「─ねえママ─どうしてパパ、帰ってこないの─?どうして、ずっとずっと、電話もないの─?」耐え兼ねいつかそう訊くと母は目を上げ何か言いかけたが、ついと顔を俯け暫くの間の後、
「─ごめんね─」と小さく応え、そのまま身動(みじろ)ぎせずにいた。
何かに耐えているように見えた。
母も自分以上に淋しいのだと思った。
それ以来、父からの音信(おとずれ)について訊くことはしなかった。

 向日葵たちが枯れれば秋には秋桜が一面に揺れる。
「─ねえ、まだ、だめだよ?まだまだ、枯れないでね─」茜はまだ頭ひとつ分高い橙色(だいだいいろ)の大輪の華を見上げると両の掌を組みそう言い、赤いランドセルを背負い直すと喧(かまびす)しい蝉の鳴き声に包まれた夕暮れをまた唄いながら帰路に就いた。

アパートに着きランドセルのポケットから器用に後ろ手で鍵を取り出しドアに差し込みノブを回すと、既に鍵が開いていた。
「─え?─ママ─?いるの─?」覗き込むようにしながら左側にある寝間に声を掛けると、
「─あゝ。遅かったのね─ごめんね。ママ、ちょっと体調が良くないの─お腹空いてたら、お惣菜買ってあるからね─」そう抑揚の無い声が返って来た。
父が不在になってから母は介護の仕事に携わるようになり朝は茜を学校に送り出した後出勤し帰宅はいつも夜七時くらいになる。
最近、体調が良くない時が多く心配だった。
「─ママ、だいじょうぶ?病院は?」そう言うと母は徐(おもむろ)に半身を起こし、
「─だいじょうぶ。ちょっと熱っぽいだけだから」と言い、薄く笑った。

夕食が済み、母が早めに寝息を立て始めると茜は足を忍ばせ隣部屋にある桐箪笥(きりだんす)に向かった。
二段目の三つ口の小抽斗(こひきだし)の真ん中を開けると白いハンカチを出しそっと鼻を近づけた。
仕事に出掛ける時、スーツを着ていていつもポケットに入れていたハンカチだ。父の匂いの残る大切な物だった。
嗜(たしな)んでいた煙草の匂いに混じり温もりを思い出す。
まだ幼稚園の頃、母が胆石の手術で入院し淋しくて悲しくて毎晩泣きながら縋(すが)った腕の中。
父は優しく包(くる)み込むみたいに抱きしめて寝かしつけてくれた。

 翌日は朝から雨降りだった。
給食は無くなり短縮授業になった。
先生に促され持ち帰る物の整理しながら落ち着かずにいた。
普段よりも早く向日葵畑に行くことが出来る。
いつもより長い時間父を待つことが出来る─。
終業のチャイムが鳴り挨拶が済むと同時に走り出し校門を駆け抜けた。
差している傘が邪魔だった。
『─ちょっと微熱があるから、今日はお仕事休むからね─』そう言っていた母が気がかりだったが、畑に行くことを優先することにした。

畑の手前で立ち止まった。
平日はいつも閑散としている場所にトラックや工事車輌が停められていて畑を柵が囲んでいる。
作業の人に何をしているのかを尋ねようとしたが忙しそうな様子に躊躇(ちゅうちょ)した。
傘の庇(ひさし)に落ちる雨音に混じる蝉の鳴きを聞きながら悄然(しょうぜん)と暫く作業を見ていたが、遣る方なく踵(きびす)を返した。

帰宅するとテーブルにお昼の用意がされていた。
具合が良くない筈の母が居ないことが気がかりだった。

「─病院に行ってきたの─」そう言い帰宅して来たのは既に夕刻だった。
いつもの笑みがなく沈んだ表情をしている。
「─え。だいじょうぶなの─?」そう訊くと俄かに目線を落とし、少しの間の後、
「─まだ。─また検査してみないと─分からないけど─」とだけ応えた。

「─そうだ。この前ねえ、また、先生にほめられたよ─」少ない洗い物を手伝いながら、元気のない母を取りなそうと茜が笑った。
「─お米のとぎかたも、おみそ汁の
だしのとり方も、とてもじょうずだって─」そう言って振り向くと、玄関口を見て動かずにいる母がいた。

「─あ、あな、た─」途切れ途切れのその言葉の後、その眼に潤むものが見えた途端、大粒の涙になって頬を伝いこぼれた。間を置かずに、
「ただ今─」どこかで憶えのある低いトーンの穏やかな声が狭い間口に響いた。

 向日葵は大方が刈られ始めていた。
「─どうしよう。パパ─ひまわりが─なくなる─」大粒の涙を一杯に溜めた目線を見上げ訴えるように茜が言うと父は、
「─大丈夫だよ。泣かなくていい。向日葵たちはね。これからも、お前の心の中に毎日咲く─あの日、約束した向日葵畑は、いつまでもなくならないんだ」そう言い優しく笑うと娘の髪をそっと撫でつけた。

その晩はご馳走だった。
大好物の鳥の唐揚げが山に盛られ、ポテトフライに父の好きなイカのお刺身、お味噌汁は茜が拵(こしら)えた。
「─おとうふと、あぶらあげ、ワカメのおみそ汁だよ」憶えていた父の好物を得意げに言い並べると父が笑い、母も笑った。
目を細め声を立て笑う母を久しぶりに見た。

 膳の箸を休め不意に父が母を向き合い暫くの間を空け、
「─ありがとう。坂本の─姓のままで─いてくれたんだね─」と言った。
母は見る間に目を潤ませると箸を置き、小さく肩を震わせ、
「─判なんて─そんな、の─つける訳─ないじゃない─負けた訳じゃ─ないもの─あなた─何よ。─あんな紙切れ─」訥々(とつとつ)と詰まりながらやっとそう応え、こぼれ落ちた涙を左の手の甲でぎゅっと拭った後、無理矢理笑って見せた─。



 「茜色の向日葵」

     ─了─



雨降り
だよ

俯(うつ)むいて
いいんだ
直向(ひたむ)きは
また

晴れの日に
しよう

仕舞いに
笑みを
咲かせたら

幸せの
勝ちだね

好いこと
嬉しいこと
だけ

残すために
きっと
心は
あるから

澄み切るまで
じっと

泣いて
いよう

頒(わか)つ
契(ちぎ)りを
はじめから
してたんだね

ごらん

雲たちが
繋ぎを
解(ほど)く

射してきた
光を合図に

ほら
僕らも

もう一度

指切り
げんまん

陽を
真似て

陽を
真似て

君の
笑顔が
一番

好きだよ─












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