見出し画像

「だんだん。」


「だんだん。」


 やはり美味い蜜柑だ。口に入れ房から溢れ出す芳醇な甘みに満ちた果汁を味わうと両の頬の奥がきゅん、と刺激される。
「─どうじゃ。ほっぺが落ちるじゃろ」思わず目を閉じ掌を両頬に当てた日奈子の様子を見ながら、細い目を更に細めそう言い祖母が笑った。
「─どうじゃ。中学はおもっしょいか?」相好(そうごう)を崩さず向けられたその問いかけには応えずにいた。
「─ばあ、畑。今日は行かんの?」代わりに帰省すると自然に戻る地元独特のイントネーションでそう返すと、
「うん。ちいと、身体がしんどうてな─」褪せた淡い紫の生地の寝間着の腰紐に、日焼けし節くれだった左の中指を触れながら枯れた声でそう応えた。

寝間を囲う細い網目の向こうに、襖の隙間からぼんやり蛍光色の灯りが漏れている。
季節外れの蚊帳(かや)は、納戸の奥からわざわざ引きずり出してくれた。
夏に訪う度、楽しみにしている空間だ。
去年、今年と祖母が病気で入院を繰り返してしまったため見舞いはしたが帰省出来ず、長くつまらない夏休みになった。
縁台で食べる冷えた西瓜。甘いとうきび。小さく爆ぜる線香花火の採光と火薬の匂いの灰色の煙。
断片的な愉しさを夏の記憶から切り取りながらふと眠りに引き込まれそうになった時、
「─ほうか。リストラ、のう─」くぐもった祖母の声が聞こえて来た。
「─うん。落ち込みがひどうてな─心療内科に通うようにもなってしもうた─」母の美沙の不安気な声がそう応じると、不意に脳裏に突如立ち上がり母に向かい怒鳴り声を上げた父を思い出し、日奈子は布団を被ると身を硬くし塞ぐ様に毛布を両耳に巻きつけ、ぎゅっと目を閉じた。

 蜜柑色とはこの風景なのだろう。
山全体が染まり、見渡す限り美しい橙(だいだい)の一面になる。
「─棚田が一番ええんじゃ。ほれ、あの海や空やら、石垣からもたっぷりのお陽様の栄養をもろうてな。日本一のみかんが出来上がる。」腰に手を当てさすりながら祖母が笑った。
「─なあ、ばあ─いつまでおってええ?うちな─帰りとうない─」眼差しを俯けて小さくそう言うと祖母はついと爪先立ちをし手を伸ばすとくしゃくしゃ、と背の高い日奈子の頭を撫で回した後、
「好きだけ、いたらええ」と応えまた満面の笑みを向けた。

収穫籠一杯の蜜柑を背負ってみた。
途端にふらつく足許を笑いながら、痩せて細い身体のどこにそんな力があるのか祖母はひょい、と籠を日奈子の背から下ろすとそのまま背負い直した。

「─ あら、ひなちゃんか。まあ、がいに大きゅうなってぇ」帰り道、近隣に住む人と出会うとそう声を掛けられた。自分と同年くらいの女の子を伴っている。
小柄で黒目勝ちの可愛らしい子だった。こちらを見て軽く会釈をした。
日奈子は思わず後ずさると籠の後ろに隠れるようにその目線を避けた。

「─嫌じゃのう。嘆かわしいのう─」テレビの画面を観ながら祖母が眉を顰(ひそ)めた。
どこかの会社で汚職事件で役員の一人の自死を報じていた。
「─こん人はきっと、善人じゃったんじゃ─善人は馬鹿を見る─」そう言ってテレビのリモコンのスイッチを切り、ちらと日奈子を見ると、
「─お父ちゃんも、善人じゃからのう─どこぞで、割を食うたんじゃ─」立ち上がり様呟くようにそう言い台所に向かった。

会社に行かなくなり鬱屈と狭い部屋に引き篭もるようになった父を置いて、母の美沙と帰省をした。
突然の連絡と訪いを祖母は別段何も問わず、ただいつもの笑顔で迎えてくれたのだった。

「─なあ、やっぱり女の子は、小さい方が、かいらしいなあ─」早生の艶やかな皮を剥きながら日奈子がぽつりと言った。
先刻の女の子の風采を思い返していた。
小学校の高学年になってから急激に身長が伸び、どの子よりも頭一つ以上目立つ背を意識する様になると、歩く時もいつしか猫背の姿勢が癖になっていた。
「─あんたにはあんたの良さがあるじゃろ。高い背を羨む人もおるんじゃけん」帰宅したばかりで忙しなく見慣れないスーツを脱ぎ丁寧にハンガーに掛けながら母が半ば窘めるように言った。
 日奈子は不登校になっていた。
二年生に進級し間もなく、クラスメイトに高身長を指摘された事がきっかけだった。
入学し、直ぐにバレー部からスカウトされたが鈍い運動能力が災いし、程なく退部していた。
『─もったいないわなあ。ほんまなら、その身長を生かしたアスリートになれるのに。ただ背が高い
だけやなんて』決して悪意のない会話に過ぎないのだろうが、日奈子にとっては校内でも一際目立つ身長と、内心燻(くすぶ)っていた中途退部のコンプレックスを強く逆撫でされる様だった。
翌日、仮病を装い学校を休むと気持ちが鬱蒼と沈み込んでしまい、そのままずるずると登校しなくなっていた。

出荷されることのない蜜柑たちは、それでもやはり濃厚な甘さだ。
「不恰好が、美味いんじゃ」不揃いを茶卓に並べ、そう言って祖母がまた笑った。何が可笑しいのか良く笑う。しかし少し掠れた上り調子の笑い声を聞くと引かれたように自分も笑みを浮かべてしまう。
「ばあは、しんから良う笑うなあ─」そう言うと、
「─笑うたん勝ちじゃけんな。笑う分だけ、幸せんなれる─」口元に房を持って行きながら穏やかな口調でそう応えた。
「─なあ、お母ちゃん。いつもどこに出かけてるの?」祖母なら知ってるかと思い問うてみた。
帰省した翌日から忙しなく出掛けては帰宅の遅い母が気になっていた。帰省途中の車中、
『─別れな─いけん、かも知れんね─』ハンドルを握り真っ直ぐ前を向きながら呟いた一言が気掛かりだった。
「─聞いとらんなあ─お母ちゃんな、死んだ爺ちゃんに良う似とるん。何でも思う通りに突っ走りよるとことかな。きっと、何か考えとるんぞな。ま。その内わかるわい」祖母はそう応えると戯けるように赤い舌を出した。その仕草が可笑しくて日奈子も笑った。
「─なあ。─やっぱり学校には行かな─いけんわいなぁ─」吐息混じりにそう言うと、祖母はまじまじと合わせて来た目線を見据え少しの間の後、
「─そうじゃのぉ─」と応え、
「─わしは、中学もろくに通えなんだで─」と加えた。
「─え。何で?」思わずそう問うと今度は声を立てて笑い、
「家業を手伝え。勉強なんぞするな。─そんな時代ぞな」そう応え日奈子にぱん、と張った一房を手渡した。

 その日の晩は満月だった。
「─見てみぃ。お月さんのウサギ。ああして毎晩、餅さ拵えて食うとる。さぞかし幸せじゃのぉ─」縁台に腰を掛けぶらぶら足を遊ばせながら夜空を仰ぎ祖母が愉しげにそう言った時、板敷きの上で携帯が音を立てて震えた。母からのラインだった。
「─今から帰るって」そう伝えると、
「─うん。そしたら今晩は、縁側でご飯にしよか。気持ちのええ夜じゃ─」祖母がそう言い、二人で膳を支度した。

「─ええなあ。ひなは、ばあより高い背の分だけ、お月さんにも近い─」茶を一口啜り、空を見上げて祖母がぼんやり言った。
秋の虫のすだきが近くに聞こえていた。
「─コンプレックスや。─うちは、背なんか─いらん─」思わず吐き捨てるようにそう返すと、
「─そうか。いらんことはいらんでええ。嫌なことはいやでな─。ええのぅ。─これからじゃけんのぉ─お前には、これから─数え切れんくらい、ええことがある─ばあにええことは、もう打ち止めだ─」そう言って、また声を立てて笑った。
「─ ないよっ!ええことなんて、あるわけない!ばあに、うちの気持ちなんて分かるわけない!」突如逆立てた感情を抑えられなかった。
祖母は一瞬真顔になりきょとん、と日奈子を見つめたが、直ぐに笑みを戻して、
「─なあ。ひな。─うん。ばあには、ひなの気持ちは分からん。わしあ、ひなじゃないけんな。けんどな、良う知っとらい。お前のことは良う知っとらい。─笑うと、かいらしい笑窪ができること。赤児ん時から見よる泣き顔も。─花が好きで、西瓜が好きで─花火が好きで─みかんが好きで─。優しゅうて、─しんは、負けず嫌いなとこもな─」穏やかにそう言うと、両の手でそっと頬を撫でつけて来た。
ざらざらしたその掌を感じた途端、不安定な気持ちがふわっと温かで甘酸っぱい匂いに包み込まれた気がし、突かれた様に不意に心が潤み思わず涙が溢れ頬を伝った。
「─休んだらええ。─心もな、疲れる。たまには、休ませてあげりゃあええ」きっと待ち侘びた言葉だった。
水遣りに潤う花弁の様に心が震え、日奈子は幼児の様に声を上げて泣いた。
一頻(ひとしき)り泣くと、鬱屈していた気持ちが晴れるようだった。

「─我慢はいらん。泣いたり、笑うたりな。─どうせ、幸せは持ち回りじゃからのう─」まだ潤む目元にハンカチを当ててくれながら祖母が言った。
日奈子が目を向けると、祖母は笑みを浮かべゆっくり頷き、
「─そうぞな。持ち回りじゃ。ほれ、欠けたお月さんがまた満ちるみたいにの。みなに等しゅうやってくる─わしの幸せは、お前じゃ。ただ一人切りの、大事な大事な孫じゃ─なあ、ひな。こんな、ばあを好いてくれてだんだん。ばあはな。いつだって、ひなの味方ぞな─」そう言うと、今度はその皺深い目尻に光るものが揺らいだ。
『だんだん』─ありがとう、と云うお国訛りだ。
「─ばあ。─うちこそ、だんだん─」声を詰まらせながら日奈子がそう返した時、
「─ただ今」と玄関口から元気な声が聞こえて来た。間も無く無遠慮な足音が近づくと、
「─ やっと仕事決めてきた!ひな、越そわい!ばあと一緒に住むんじゃ。お父ちゃんも一緒にや!」そう言う母の見せた久々の笑顔は、正に祖母に瓜二つだった。



       ─了─

この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?