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「狐の嫁入り」



「狐の嫁入り」


 その年の夏は厳しい暑さで、早朝から油蝉が競う様に喧(かまびす)しい鳴き声を響かせていた。
家の裏外にある井戸のポンプ前には既に母がいて、
「─まあだ、井戸水が。だめだよ、冷でげど腹壊す」そう言いながら、紐に備え付けのアルマイトのコップに伸ばした指を手で制し、
「麦湯、作ってあっぺ」眉を顰(ひそ)めそう付け加えた。
「─いやだよ。まだぬりいんだもの」唇を尖らせ勝人(かつと)が反発しもう一度コップに指を伸ばすと、今度は強く手の甲を叩かれた。
「─てッ─!」小さく声を上げ思わず手を引くと同時に、
「病気んなるだぞ!まちゃくんみたいに─!」母は俄(にわ)かに目を吊り上げ、きつい口調でそう叱責した。

「まちゃくん」は勝人の住む公務員宿舎より駅側にある旧家の立ち並ぶひと区画向こう側に住んでいて、中学生だった。
幼い頃から病弱で度々入院しては学校にも思うように通学出来ず勝人も幼稚園の時、寝巻き姿で二階の大きな窓から外を眺めているのを度々見かけた。
ひょろっと背が高く痩せていて、骨張った面長の浅黒い顔にある大きな奥目が怖く見える。
穏やかで優しく話し掛けてくれるのだが、終始浮かべている笑みが端正で彫りの深い顔立ちを余計日本人離れした印象にし、どこか近寄り難い雰囲気を造り出していた。
いつも小脇に本を抱えていて物知りで、いつだったか晴天にいきなり雨が降り出し、ぼんやり青空を見上げていると、
「狐の嫁入りだよ。」と教えてくれた。
「─きつね、のよめいり─?」意味不明を訊き返すと、
「うん。狐のお嫁さんが、綺麗な着物を着て嫁いで行く姿が恥ずかしくてね。雨を降らせて隠すんだ」そう言い笑っていた。

「─ まちゃくんは、いどみずのんだがらびょうぎなんが」半ば怪訝(けげん)にそう訊くと、
「─ そうじゃねえよ。だげど病気になんてなりだぐねえべ。救急車乗ったりよ─」母はポンプを押し上げし、出て来た水で忙し気に洗濯物を叩きながら背を向けたままそう応えた。
 この所、週末の度に深夜救急車のサイレンが近隣で聞こえる。
夜の静寂を破る不安定な響きに思わず目を開け耳を澄ませていると鳴り止む場所はいつも同じで、
「─ まだ、斉藤さんとごが─」寝間で父が天井を見上げ吐息をつきそう呟いていた。

「─ あ。そう言えばおめ、誕生日のプレゼント何がいいんだっけ。高え物は買えねえよ」目に飛んだ跳ね返りの泡を手の甲で拭いながら母が笑みを向け、そう問うて来た。

 夏休みが明けても収まる様子のない暑さにうんざりしていた。
朝作る麦湯は氷を入れても直ぐには冷えず、砂糖を加え乱暴にかき混ぜるとやっと少し冷たくなった。
「何だ、まだ味噌汁のごしてんぞ─」開襟シャツのボタンを嵌(は)めながら窘(たしな)める父の言葉に椀から汁を啜り上げ、甘い麦湯を一気に流し込むと鼻から香ばしい匂いがふん、と抜き出た。
「今晩は、巻き寿司だがんな」仏頂面(ぶっちょうづら)を崩さず言う父の言葉に大きく頷くと、慌ただしくランドセルを背負い玄関を出た。
「─おせえなあ、にいちゃん」年子で妹の明恵が待ちくたびれた様子で言った。
「いいべ。今日、兄ちゃんたんじょうびぞ」そう言いおかっぱ頭を撫でつけると、
「─しっとるわ」明恵はそう言いながら捻(よ)れた水玉模様の生地のスカートのポケットから何やら取り出して差し出し、
「はい。あげる」と言い味噌歯を見せた。
「─お!やきゅうキャラメル─!」当時流行っていた野球選手のカードの入ったキャラメルだった。
二十円するから明恵の二日分のお小遣いだ。
たった二日だが、毎日楽しみにしていた駄菓子の買い食いを辛抱し、花模様の小さなガマ口に十円玉を仕舞う様子を想像すると不意に愛おしい気持ちが押し寄せ、
「─よし、おめのだんじょうびには、リカちゃんかっでやる!」そう嘯(うそぶ)くと妹は今度は嘶(いなな)く馬みたいに歯茎を徐(おもむろ)に剥き出しにして笑った。

 新品のバットは艶出しのニスが幾層にも塗られていて、いつか触らせて貰った近所に住む大学生のお兄ちゃんの物に引けを取らぬ逸品に思えた。
「─ おめは、グローブより先にバットがいいんだ。」好物の玉子の細巻きやバタークリームのケーキをそっちのけに、頬ずりする様に手元から離さぬバットと息子を交互に見ながら父が笑った。
何より欲しかった物だ。
原っぱで大きな子たちが軟式の球で野球をしているのを見た時、小気味の良い音を上げ球を跳ね返すバットが憧れだった。
軟式の球なら痛みに耐えれば何とか素手でも受けることが出来る。
グローブよりやはりバットが優先した。
「─どら、構えてみれ。勝人選手」機嫌良さげに父が言った。
テレビや野球カードの選手たちの姿を思い出しながら勝人が頬を紅潮させバットを構えると、
「─あやあ、そいじゃ逆だぞ。右左の手がごんがらがっとる。」そう言い父が声を立て笑い、妹も母も大きな声を上げ笑った。

日曜の翌日、勝人は誰よりも早く起き出した。
興奮して眠れなかったのだ。
遠くからバイクのエンジン音が聞こえ、カチャカチャと牛乳瓶同士の擦れ合う音がするとそっと布団を抜け出し玄関の鍵を回し足を忍ばせ外に出た。
空にはもう入道雲が張り出していて、バットを陽が照らし始めている。
担ぐ形でバットを肩に乗せると一端(いっぱし)の大人を真似たみたいで気持ちが高揚する様だった。

原っぱにはまだ誰も居らず、まだ心地の良い風が伸び切った夏草を揺らしていた。
夏も移ろうのだろう、数を増やし始めた赤蜻蛉(あかとんぼ)を見遣りながら立ち上がりバットを構え振って見た。
「─あれ。─まだぎゃくがな─」しっくり来ない感じに幾度か重ねて素振りをしていた時、
「─頭を付けるんだよ。」真後ろで唐突にそう声が聞こえた。

「─ほら。こうして頭をつけて、それからバットを振り出すんだ。やってご覧─」手を支えられそのまま振り出すと、バットは確かに真っ直ぐに伸びた。
「ボールから目を離さずに、バットを出してご覧─」まちゃくんはそう言うと正面に立ち何故持っていたのか、軟式のボールを出しそっと胸元に投げてくれた。

 その晩遅い時間に、また救急車のサイレンが聞こえた。
「─どないした」目を覚まし布団から飛び起きた勝人を見て父が怪訝に問うて来た。
「─まちゃくん─?」そう訊き返すと、
「─そう、だべな。また同じ場所だ─」緩慢に身動ぎし父がそう応えた。
「─どないした」もう一度そう問われたが、勝人は応えなかった。
まだ残る球を打ち返した感触を自分の掌と腕に確かめ、応えずにいた。
自分の腕を支えてくれたまちゃくんの腕は逞しく、父の腕と変わらなく思えた。
何度もバットに当たる球の感触を覚えながら、初めてまちゃくんと笑顔を言葉を交わした気がした。
今朝の出来事は、二人だけの秘密にして置きたかった。
「─まちゃくんな。─ まちゃぐんの病気な。─治んねえんだ。血の病気でな。戦争の時、広島にいで原子爆弾でやられた、お爺ちゃん、お婆ちゃん─まだお胎にいだまちゃぐんの、お母さんもな─まちゃぐんもな─同じ病気んなっちまっだんだど─」半身を起こし、ぼんやり目線を俯けている勝人に、父がそう言った。

その晩以降、まちゃくんを見かけることが無くなった。
大きな屋敷の前で二階を見上げても、乱反射した歪んだ空が映るだけで寝巻き姿のまちゃくんは見えなかった。

それから暫くして草野球をしていると急に雨が降り出して来た。
「─んだあ。晴れでるのによお─」蒼天を見上げる友達に向かい、
「─キツネのよめ入りだよ」勝人がそう言うと、
『良く、覚えてたね─』何処か遠くから、そう言うまちゃくんの訛りの無い穏やかで優しい声が聞こえた気がした─。


     ─了─

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