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「枕の見た夢」


「枕の見た夢」

 陽が落ちた後も喧しく油蝉が鳴いている。
止まっている銀杏の樹の近くを通り過ぎようとするとぴたりと聲を止め、短い鳴き声を残し街灯の明かりに向け飛び立って行った。
闇の中、一直線に羽ばたき電球に体当たりするとばちばち、と爆ぜた音と同時に地面に落ち、今度は鈍い気味のよくない羽音をざらざらアスファルトに擦り合わせた。
まだ三歳になったばかりの二女がベビーカーから羽音のする方を指示し、
「─あ、」と高い声を上げた。
「─ なんやおまん、目ぇええなあ─」妻のさやが笑いながらそう言うと、
「わえにもみえるよ」長女の一葉(かずは)がベビーカーの前に立ちはだかる様にし懸命に背を伸ばした。
 遠くから祭囃子が聞こえている。
足取りが重いのは向かう夏祭りに遣える金が無いことだ。
年季が入り所々剥げ落ちた皮の長財布には千円札が二枚と小銭入れに数枚の硬貨。一週間先の月末の給料日まで家族四人がそれで凌がなくてはならない。
家賃、食費、車の保険料、ガソリン代に加え数社あるカードローン─工場勤務の薄給は毎月右から左に消えて行く。貯蓄にはとても及ばず、一葉の園費でさえもう三月分滞納してしまっている。
昨日、園から連絡がありひと月分だけでも今月中に納めなくてはならなかった。
「─ええよ。なんも買わんでも。お祭り、見るだけでも連れて行っちゃろうよ─」さやにそう言われ渋々出掛けることした。
「─あんな、お祭り、─見るだけやで─」嬉しげにはしゃいでいるそう言うと一葉は並びの小さな歯を見せ満面の笑みで大きく何度も頷いた。
金のことは言えなかった。
 縁日の屋台は商店街の端から端までかなりの長さ軒を連ねていて歩を進めるごと甘い匂い、香ばしい匂いが混在しながら焼き音や起こし金が鉄板に擦れ合う音を伴い空きっ腹を刺激して来る。
手を繋ぎながら一葉が、ベビーカーの中で日向子(ひなこ)が目を輝かせあちこちを見回している。
時折立ち止まりながら、金魚掬いやヨーヨー釣りの様子を見ているが一葉ばかりか日向子も何かをねだることはしなかった。
ただ愉しげに周りを見回しているだけだった。
さやとしばしばぶつかる時、それは決まって金のことだった。
一葉はそんな時本棚代わりにしているプラスチックの衣装ケースに行き何度も読み返しているお気に入りの絵本を取り出し開き見ていた。
本に目線を落としながら言い争う夫婦を時折、悲しげに窺い見る様にしていた。
今朝も祭りの話題から、また金がないことを不機嫌に話していたのを見、少しのおねだりも躊躇していたに違いなかった。
綿菓子の露店の前に来た時、一葉がふいに足を止めた。
甘い匂いの漂う、アセチレンの橙色に照らされた明かりの中で器用に飴を絡める店主の手元をじっと見つめていた。
ブワッと音を立て空気を取り入れ、大好きなアンパンマンの袋に入れられた形の良い綿飴が浴衣を着た女の子の手に渡された時、繋いでいた手をぎゅ、と握り直した一葉の顔が一瞬だけ歪んだ。
「─かず、─」思わずそう声を掛けた時同時に、
「あかんのやんな─」一葉が言った。円らな瞳いっぱいに涙が揺れていた。
「むしばになるさけ、─あまいもんは、あかんのやんな─」もう一度そう言うと、不意に日向子が泣き出した。
「だんないで、ひな。またこんど、かおうなぁ─」一葉は咄嗟に慌てた様にそう言い、繋いでいない右の掌で両目に当て擦ると戻した満面の笑みをあやす様に日向子に向けた。
帰り道、言葉がなかった。
一葉はわざとはしゃぐ振りをして幾度も綿菓子の露店を振り返っていた。
ベビーカーを押しながら、さやが泣いているのが分かった。
壮一の眼からも涙が零れ落ちていた。
「─わだと来てん、子どもにさえ何も─何も、買うちゃれん─そんな─情けなさなさが分からな、─先に進めやんさけ─」潤ませた声でそう言った。
「─うん─もっと、─もっとさ─しっかりしやんとな─。親なんやさけ─」壮一はそう応え左の拳でぎゅ、と目元を拭い繋いだ手を離し小さな背に回すと高く抱き上げ、
「─約束するで。今度ぁ、歯の全部が虫歯んなるくらい綿菓子買うちゃる」そう言うと、一葉は両足をばたつかせながらケタケタ声を夜空に響かせた。
 明くる月曜、仕事終わりに工場長に残業を直談判した。
アルバイトの兼任も考えたが、もう十年余こなして来た研磨の仕事に自負があった。
「─知ってるやろ。この不景気で仕事量、めっきり減っとんのやで」工場長はそう言い腕組みしていたが率直に苦しい内情を話すと、
「─ほんまにうちは安給料やさけなあ。まあ、おまんは腕もええしな─」と苦笑し、下請けに卸す分の仕事を考慮してくれた。
 さ来月初めに一葉が六歳の誕生日を迎える。
その翌月はまた日向子の誕生日だ。
綿菓子機までは覚束ずとも、きちんと祝ってあげたかった。
「─何がええんやろ、プレゼント─」寝間にしている六畳間の汚れた襖の鶴の絵を見つめながら言うと、不意に襖戸が開いた。
「─おしっこ」ぼんやり虚ろな目をし右脇に古び黄ばんだまくらを抱えている。
トイレに連れて行ってやりながら、以前ショッピングモールでアンパンマンの枕を手に取り嬉しそうに裏返してみたりしていたことを思い出した。
祭りの件りではないが一葉は何処に出掛けても、殆ど物を強請ることがない。
泣く時も部屋の隅でひっそりしゃくり上げている。
「─プレゼント、アンパンマンの枕にしよか」寝かしつけた後壮一がそう言うと、
「ええわね。きっと喜ぶわ」さやがそう応え、目を細め笑った。
毎日残業で遅くなるが、子どもたちを寝かしつけた後さやは食事を摂らず待っていてくれている。
まだひと月分だが月末に一葉の園費を納めた時、
「ご苦労さんやったね」そう労ってくれた。
ベクトルを先に見据えしっかり腰を落とした構えが良い方に向かおうとしてくれる予感が嬉しく、その予感だけでほんの少しだが気持ちにゆとりを持てるようだった。
夫婦二人とも早くに両親を亡くし、寄る辺のない境涯が共通していてだからこそ家族一人一人の存在がまさに掛け替えのないものだった。
 「─ほれ、開けてみな─」鶏の唐揚げにオムライス、茶碗蒸し、腕に拠りを掛けたさやの料理を食べチョコレートケーキを頬張った後、赤いリボンの包みを差し出した。
「わあ─!おおきに─」満面の笑みでそう言い、小さな指先でいそいそリボンを解いた。
「─はい。あげるよ」ちょこちょこ歩み寄る日向子に外したリボンを手渡し、包みを開けた一葉の顔がぱっと輝いた。
「─おおきに、おとはん、─おおきに、おかん─」そう言い枕の生地に頬ずる仕草が堪らなく愛おしかった。
「かず、もう汚い枕、ほかそうや」壮一が笑いながらそう言うと一葉は不意に真顔を真っ直ぐに父親に向け、
「─あかんやっしょ!あのまくらには、かずちゃんのゆめがようさんつまってんやで─」唇を尖らせてそう応えた。
「─え」思わずそう訊き返すと、
「そやさけね、まくら、あたらしゅうしたら、かずちゃんのゆめは、つづきやのうて、はじめからやりなおしになるんやさけ」円らな目を何度も瞬かせてそう応えた。
さやが笑い出し、
「─そうか。かずちゃんの枕は、かずちゃんと一緒に夢を見とるんや」そう言うと、
「せや。あのまくらはな、ゆめをみるんやで。かずちゃんといっしょに、ずうっと」更に唇を尖らせそう応えた。
「ほな、その枕はなっとーするん?アンパンマンの枕。欲しかってんろ」もう一度壮一がそう問うと、
「これはね、ええの。だいてねるんやさけ」今度は俄かに満面の笑みを戻しそう応え枕を高々上げると、黒く虫歯になり掛けた前歯を見せケタケタ声を立て笑った。



       ─了─

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