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『TRIGGER 2 -調伏-』(下)

──そろそろ起きてくれないか?

その声で私は目を覚ましたが、今一つ自分が何処に居るのか判らない。体は宙に浮いているようだし、皮膚の感覚もほとんど無い。

そもそも肉体の存在自体がかなりあやふやだ。

怖くなって少し手を動かしてみるとヌルリとしたものが纏わりついて来る。それは温かくも冷たくもない、体温と同じ温度の液体のようだ。

漸くそこで自分の肉体が存在しているのを確認できたが、ここがアイソレーションタンクの内部だとわかるまでには少しの時間を要した。変性意識下にいるというよりはただ単に頭がぼうっとしている。

モニター越しに、痩せこけた男の顔が薄ら笑いを浮かべている。

──この男を私は知っている。

「君のお陰で南インドのシステム開発も順調に進んでいるようだ。礼を言う。私に出来る事があれば何でも言ってくれたまえ」

一体こんな状況の人間に何をしてくれるというのだろうか。

私は週に一度ここに来てはこうしているのだと云う。日付や曜日の感覚は既に持ち合わせていない。私はこの場所で得体の知れないシステムの一部分と化し、見たこともない男や女の顔を見せられ、それらを「呪え!呪い殺せ!」と命じられた。

記憶は朧気だ。この密閉された空間と「滝根」と名乗る男。そして負の感情の連鎖によって生み出されるこのシステム。それが今の私が認知する事の出来る世界の全てだ。

しかしこの世界でさえ、やがて「それ」が始まれば怒りと憎しみ、そして怨みの闇に呑み込まれ、意識と共に失われてしまう。そして一週間後には、またこの液体のなかで目を覚ますことになるのだ。

──嗚呼、いつまで続くのだろう。

ここでこうしている以外、私は何処で、誰と、何を、しているのだろう。もはや生きる価値も無いであろうこの自分という存在は、それでもこうして生きながらえていた。希望などという眩しく都合のよい言葉を口にすることは、もはや許されないほどに私は穢れてしまっていた。

──この現実に"もう一人の私"が気がついてしまった時、それでも"私"は生きていられるのだろうか。

男は私を「紋峰忍」と呼んだ。
それが私の名であるようだ──。

ここは重装建機株式会社本社ビル、存在してはならない地下三階、「呪詛鬼行社」である。



真崎征也と高戸光佑は本社ビルから少し離れた路肩にミニバンを停め、相賀小鉄が来るのを待っていた。緑地帯の上から僅かに覗くその近代的なビルはこちらを静かに威圧しているように見える。程無くして黒のセダンが白いミニバンの後ろに停車し、中からスーツ姿の青年が降りてきた。

「おお、小鉄、待ってたよ。それにしてもそのセダンといい、スーツといい、いかにも過ぎやしないか?」

「仕様がないだろ、署にはこれしか車の空きが無かったんだ。それにスーツは俺の普段着だしこれしか着ない」

「相変わらず堅物だなあ、小鉄は」

「あのなあ征也、外でコテツ、コテツと呼ぶなと前から言っているだろう」

「まだそんなこと気にしてるのか?誰もお前の名前が小さな鉄だなんて思わんよ。その顔を見ればいずれ"虎"がからんだ名前だと思うに決まっているさ」

相賀はその容姿とは裏腹な自分の名前に些かコンプレックスを抱いているようだった。

「まあ、そんなことはどうでもいいんだが、俺は今からあのビルに行ってくる。お前たちはここで暫く待っていてくれ」

そう真崎が云うと残りの二人はすぐさま異論をとなえた。

「ちょっと待て、お前だけで行くつもりか?じゃあ何で俺を呼んだんだ」

「そうですよ、先輩!」

二人をなだめるように真崎は言った。

「まあまあ、今回は相手の罠に飛び込む形になるかもしれん。一人の方が相手も油断するだろうし、手も出しやすいだろ?だからとりあえずは俺だけで行くよ。何も無ければ小一時間で戻ってくる。もし三時間以上して戻らなければ、、」

「戻らなければ、どうするんですか?先輩」

光佑がたまらず聞いた。

「戻らなければ、応援を呼んで入ってこい。令状は取ってあるんだろ?小鉄」

「そんな簡単に令状なんか取れる訳がないだろう。第一、証拠も何も無いんだ。仮にそのアヤミネという女性が居たとして罪状は何だ。監禁罪か、強要罪か、脅迫罪か?彼女自身の証言が無いんじゃ何も始まらんよ」

小鉄は自信無さげにそう言った。

「じゃあ何でお前はこうして来てくれたんだ?」

「そりゃあ、征也が心配だからに決まっているだろう。まあ、何かあれば俺たちが全てを捨ててでも行ってやるよ。そういう覚悟でここに来たんだ。友人一人守れずに何が警官だってんだ!なあ光佑くん?」

「え、ええ。もちろんっすよ!安心して行って来てください──」

光佑の言葉はフェイドアウトしていた。

「すまない二人とも、今度ばかりは迷惑かける。きっとチャンスはこの一回限りだ。相手がこちらを甘く見ている今しかない。油断している今なら隙がどこかに生まれるはずだ。この期を逃せば次はいつになるか分からない。十年後か二十年後か」

「じゃあ行ってくる」と言い、真崎は一人重装建機本社ビルへと向かった。時刻は午後四時だった。

友人二人の存在は心強かったが、同時に危険な目には遇わせたくなかった。少なくとも今の自分の目的を果たすために、既に二人を充分なほど巻き込んでいるのだ。

真崎征也は覚悟を決めた。
──今こそ『魔障を打ち破り、成道に至る』のだ。



俺は重装建機の受付へと平静を装って訪れた。

「すみません、ジャーナリストと真崎と申します。現在、働き方改革についての取材を新聞社から依頼されておりまして、突然で大変恐縮なのですが、御社の素晴らしい社員待遇とまたその人材はどのような採用基準によって選ばれているかなど、少しお話をお伺いしたいのですが、可能でしょうか?」

そう言って取材許可証をちらりと提示した。
今の時代、許可証などパソコンとそれなりのプリンターがあれば簡単に偽造する事は可能だ。それもあってか最近では顔写真の横にホログラムシートが貼られているものが多い。

提示したそれはとりあえず本物ではあったが、当然新聞社などとは何の関係もなく、どこかの見本市で使用したものだった。斬新なデザインが幸いして、一見して氏名と顔写真以外はほとんど判読出来ないだろう。

受付の女性は許可証を確認するまでもなく「少々お待ちください」と、どこかに連絡を取っていたが、しばらくすると「人事部の者が担当させていただきますので、こちらでお待ちください。今お迎えに上がります」と言った。

ロビーの奥からコツコツと足音を立てながら、スモーキーピンクのパンツスーツにグレーのカットソー姿の女性が現れた。視線はまっすぐに俺をとらえている。射られているような威圧感がある。

「ジャーナリストの真崎様ですね?わたくし人事部の姫野と申します。部長がお相手させていただきますので、こちらへどうぞ」と、フロア横のエレベーターへと自ら先頭だって歩き始めた。姿勢が良く、動きに全く無駄がない。

──こんな人間が事務職をしているのだろうか?
ふと俺はそう思った。



俺は5階にある一室に通された。
部屋の中央には四角い木製テーブル、そしてそれを挟むように黒いソファーが置いてある。そのどれもが上等そうに見えた。部屋は全面壁で正面、両サイドにはいかにもといった観葉植物が緑色の大きな葉を付けている。

そして現代アート風の大きな絵が一枚、額に入れられていた。その絵の美術的価値がどれほどの物なのか、俺には分からなかったがおそらく高価な代物なのだろう。ようは単純に応接室に案内されたと云うわけだ。

部屋を見回していると「部長が参ります。しばらく掛けてお待ちください」と姫野と名乗った女性はどこからともなく湯気の立ったコーヒーカップとソーサーをテーブルに置き、真崎一人を残して部屋を出ていった。

いかにも高級そうなカップだった。有田だか何だか知らないが見たこともない複雑な青みがかった色をしていた。そのコーヒーに口をつけようとして、違和感を覚えた。

──あの女、姿勢がいいのはわかるがあの動き、それに視線にまで全く無駄がない。一体何者だ。それにこの熱いコーヒー。突然訪れた割に随分と準備がいいようにも思える。まあ、俺の考えすぎかもしれないが、この部屋に窓が無いのも気にはなる。このビルの立地と応接室の配置から想像するならば、ここは広くとられた窓から望むオーシャンビューなのではないか?そうでなくてもどこかに窓ぐらいあっても良さそうなものだ。そして、決定的なのがこのコーヒーの香りだ。

真崎は自宅でロースターを使って豆を焙煎するほどにコーヒー好きだった。食事には気を使わないがコーヒーだけは別だ。ありとあらゆる豆を試し、自分好みのブレンドを作るのが唯一の楽しみだった。

しかし、このコーヒーからは僅かではあるが真崎がこれまでに嗅いだことのない匂いがした。一瞬興味をそそられはしたが、これは飲んではいけない物だ、そう直感が告げていた。

万が一どこかに隠しカメラがあることを想定して死角をつくり、そっと持っていたバッグの中にコーヒーを流し入れた。バッグの中身どうなるか容易に想像がついたが気にはしない。

そして真崎はコーヒーをゆっくり飲み干す動作を演じ、カップを戻すと深々とソファーに腰掛け、徐に目を閉じた。




相手からすれば今の真崎はまさに飛んで火に入る夏の虫のはずだった。

しかし誰も来なかった。30分は経っただろうか。

背後の自動ドアが開く気配がした。
部屋の空気とは別の温度を持った風が流れ込んでくる。入ってきた足音は先ほどの姫野とは別のものだった。足音は真崎の座っているソファーをぐるりと回り込み、左側に近寄って来た。

鼻先に僅かな温度の変化を感じ、目を開いた。

スキンヘッドの大男が立っていた!

男は真崎が目を開けたのを見て一瞬たじろいだが、その手は動きを止めなかった。それどころか動きは勢いを増し、真崎の喉元に手をかけようとした。

──慌てるな。

激しく脈打つ心臓と反比例するように、呼吸に意識を集中する。

鼻からゆっくりと空気を吸い込む。
細く、長く、そして──。
大男の指先が喉に掛かる瞬間だった。

今だ!

真崎は男の右手の甲を上から渾身の力でつかむと、そのまま相手の親指を下にして、一気に外側にひねりこむ。

一瞬の出来事だった。男が堪らず声を挙げた。

「ぐあぁぁぁ!がが、な、なにを!!」

男はテーブルの上に倒れこみ、コーヒーカップが弾け飛んだ。

真崎は立ち上がると空かさず、男の腕を背後から捻りあげる。

「ぐうぅぅぅ、」

大男は動けない。真崎の下で情けない声を出し激痛に顔を歪めていた。

「人体の構造上、この方向に手首を捻られると痛みで立っていられないんだ」

大男は痛みに堪えながら、あらぬ方向へとあちこち視線を飛ばしている。

「ほう、そこらに何かあるのかい?例えばカメラとか?よほど自分の滑稽な姿がどんな風に映っているか気になるようだな」

「貴様!よくもこんな真似を、ただですむと思うなよ!」

「おい、おっさん、それは負け台詞だぜ。ちなみにこれは逮捕術と云ってな相手を制圧するための技術だ。今の技は"二ヵ条"と云うそうだ。友だちの刑事に教わったんだがな、こんなに綺麗に決まったのは始めてだよ」

大男は全身に力を込め抵抗を試みた。

「やめておけ!それ以上抵抗すると、このまま関節が外れちまうぞ!」

「ゴクッ!!!」、鈍い音がした。

「ああぁぁぁ、痛い!痛い!やめてくれ!」

「ほうら、言わんこっちゃない。肩の関節がいっちまったぞ」

大男の游いでいた視線が一ヶ所に定まった。

男の視線の先に目をやると、そこには先ほどの姫野が立っていた。

「真崎様、大変失礼いたしました。どうかそのあたりで。私がご案内いたします」

姫野は大男には目もくれず、真崎に向かって平然とそう言った。

「ああ、姫野さん。最初に来たのがこの大男でよかったよ。正直、あんたにこの技が通用したとは思えない」

「それは、それは。この場で試して頂いても私は一向に構いませんが?」

「いや、やめておくよ。それより案内してもらおうか?そこに"部長さん"はいるんだろ?」

「では、こちらへどうぞ」

大男をそのまま床に放り出し、真崎は姫野と共に部屋の外へ出た。人払いがしてあるのか、外に人影は無かった。大男は応接室で右腕を押さえうずくまっていた。




エレベーターは地下三階で止まった。
薄暗い廊下を歩き、姫野はあるドアの前で足を止めた。入り口には認証システムらしきものがあったが、それを使用するまでもなくドアは独りでに開いた。

中は廊下よりも更に暗い。

──「香」か何かか?

むせ返るような甘い香りが部屋に充満している。近代的なオフィスビルには明らかに異質な空間だ。社寺建築の様でもあったが、神社とも寺院のそれとも違うようだ。

──何だ、ここは?

「よく来たね。真崎征也君。君がそうして自力で歩いてこの部屋に来られたと云うことは、コーヒーはお口に合わなかったようだね。砂糖をたっぷりと入れたのが良くなかったかな?」

そこには痩せこけた、いかにも薄幸そうな男が立っていた。男の両の眼だけがぎらついている。

「滝根様、申し訳ありません」姫野が言った。

「姫野君、社内では部長で通したまえ。人事部長が"様"ではおかしいだろう。ぽろっと出てしまうよ。初めから君をやるべきだったね。真崎君を少々甘く見ていたようだ。もう下がっていい」

「はっ…」そう言うと姫野は奥へと退いた。

「申し遅れた。私が人事部長の滝根だ。いやこの期に及んでそれはないか」

──何?

「この呪詛鬼行社を取り仕切っている、滝根仁紀だ。よく来てくれたね、真崎君。まあこれも縁だ。ゆっくりしていくといい。それにしても、君に"呪詛"は効かなかったようだね。やはりAI任せの呪術は弱い。ご友人には、ほどほどの効果が有ったようだが」

──何を言っていやがる。

「ああ、それにお姉さんの、確か万優子さんだったか?」

「姉を知っているのか?」

「勿論だとも。随分と世話になった。彼女が亡くなってもう六年になるか。このシステム開発にも尽力していただいたよ。その節はどうもありがとう……」

滝根は深々と頭を下げた。
しかし、顔を上げた滝根の表情は狂気に満ちていた。

「この呪い、呪詛の初期システムを完成させるのに彼女は大変役に立った。代わりに彼女は廃人と化し、結果、死に追いやってしまったがね。これでも大変申し訳なく思っているのだよ、私は」

──こ、こいつ!

「まだ中学生だった君を養うためにも、そうせざるを得なかったのだろう。彼女は悲しみと怒りに満ち満ちていたよ」

「言うな!お前のその薄汚れた口で、これ以上姉を語ることは許さん!」

真崎の頭は真っ白になり、この男に対して怒りがふつふつと湧いてきた。

「これは失敬。だが、君の聞きたい事はせいぜいこんなところだろう?そのためにジャーナリストになり、こそこそと嗅ぎ回っていたのではないのかね?先日の松永頼子の件は失策だったが、それ以外の者達は所在どころか生死の確認すら、警察ごときには出来ないはず」

そして滝根は真っ黒な円筒型の物体をとんとん、と拳で叩きながらこう言い放った。

「そしてこのアイソレーションタンクの中にいる、紋峰忍を以て究極の呪詛システムは既に完成している!

どうだ?君の怒りと悲しみも我々、呪詛鬼行社のために捧げてみないかね?

君達、姉弟を残して突然事故死したご両親を、そして自分だけを置き去りに、この世を去った姉の万優子を君は恨んでいないのか?」

──こいつ、この俺を勧誘するつもりか!?
真崎はわなわなと震えながら言った。

「ま、まさか、親父とお袋の死もお前らの仕業なのか?」

「ご想像にお任せするよ。ただ当初、両親不在の人材を確保するのが困難だったのは認める。大事なプロジェクトだったので、念には念を入れて計画的に事を進めたかったのだ」

「この、外道が!!!
こんなことが許されると思うのか!」

滝根の目が不気味な光を放っている。

「ははは、これは単なる呪詛のシステムだ。聞けば君は大学時代に東北の呪術師の元を訪れているそうじゃないか?」

──何故それを?

「驚いているね。あれは私の腹違いの兄だ。
単なる偶然だよ。いや、偶然と云うものは恐ろしい。私も先日知ったのだ。兄から私の行為を咎められた際に、昔、面白い若者が来たと云っていたよ。

あやつは一子相伝の呪術の家を継ぎ、分家である我が家系は古くから呪詛のみに特化した呪詛鬼行社を営み、明治から昭和の高度経済成長期にこの重装建機を隠れ蓑にして、生き延びて来たのだ。

君も兄から聞いたとは思うが、我々が使う呪術も基本システムは兄の用いるそれと同じだ。古くに確立された呪法だよ。それを呪詛鬼行社はさらにブラッシュアップしているだけだ。ソーシャルネットワーキングサービスは開発当初の想定を遥かに超えた使われ方をしている。加えてウェアラブルデバイスは人間の感情までもビックデータに吸い上げている始末だ。これは、ますます我々に有利な状況だと云える」

──こいつは一体何を考えている。

「呪詛の需要は後を絶たない、人々は他者を呪う行為を止めようともしない。それに、呪いを信じる者もそれによって呪われる者も無意識や主観的そして直感的な思考の仕方が優位を占めている。そやつらは、思考に偏りがあり、機能的にもエラーを起こしやすいのだ」

「加えて云えば、超自然の力の成せる技だ、などというただの推定を支える、一応筋は通っているが論理的には一貫性のない話を生み出すのが好きなのだよ、人間という奴はつくづくそう云う生き物だ」

真崎は滝根を見据えて言った。

「あんたの話はよくわからない。俺には何が善で何が悪であるか何てどうでもいい!だが、あんたのしていることは限り無く"悪"である気がするよ。

お前の言う理屈がSNSを使った呪詛システムを容認することにはならないし、そんな筋合いこそ通らない!そもそもどうしてこんな事をするんだ!」

滝根の痩せこけた顔は嬉しそうにしている。

──何がそんなに楽しいのだ。

「はは、ははは!そうだなあ真崎君。
それはねえ、好きだからだよ!人間が人間を呪う浅ましい行為を見るのが、おぞましい人本来の姿を間近で見ることがな!私は人間が好きなのだよ!

既にシステムが完成しているとはいえ、『相手の死』という究極の呪詛を行うには人間の命を懸ける必要があるのだよ。そもそも人が人を呪い殺すためのもの、それこそが『呪詛』なのだ!

「銃」がこの世に存在しているとして、それを知らなければ何も怖くはない。その「銃口」が自分を狙っているのを知り、人は初めて恐れおののくのだよ。

そして最後に『引き金』を引くのは常に人間だ!

どうだい、素敵じゃあないか。私はここに人間と云うものの神秘と浪漫すら感じるよ!」



「撃っていいのは、撃たれる覚悟のある奴だけだ!」

そこには右手にH&Kの9mmを構え、警察手帳を手にした相賀が立っていた!光佑もいる。

「小鉄!ちょ、ちょっと待て!」

「話は後だ。アヤミネさんは?」

「多分、あのタンクの中だ、がしかし──」

相賀はタンクをちらと見てから、滝根に向き直った。その銃口は静かに滝根を捉え続けている。

滝根はその場に微動すらせず立っている。

「一体警察が何の用だね?呪いの現行犯逮捕でもするつもりかね?ご存知かとは思うが、現代日本の法体系は超常現象を前提としていない。呪詛、それ自体は"不能犯"だ。それくらい知っているだろう」

「相賀さん、不能犯って?」光佑が聞いた。

「ああ、行為者が犯罪の実現を意図して実行に着手したとしても、その行為からは結果の発現は到底不可能と思われる犯罪のことだ」

「は、はあ、例えば呪いとかですか?」

「そうだ。だが行為者が、例えば藁人形を呪っている対象に見せて、お前を呪っているぞ、と云うと、それは脅迫罪だ」

「そうだよなあ?タキネさん」

「さすがは刑事さん。まさにその通りだ。よく勉強してらっしゃる」

「馬鹿にするな!お前たちの罪状は拉致監禁罪、強要罪、その他もろもろだ、なあ真崎!」

「ああ、そうとも!」

そう言うと真崎は小鉄に向かって銀色の物体を投げた。それはボイスレコードだった。

「ちっ!」滝根が少し顔を歪めた。

「あんたは饒舌すぎるんだよ、滝根さん」真崎が言った。

「滝根様!こちらへ!」姫野が促した。

「どこへ行く!待て!滝根!!!」

滝根と姫野は奥のドアから何処かへ逃げる気配を見せた。

相賀は二人の後を追う。

振り向きざま滝根が吐き捨てた。

「おっと、タンクの中の紋峰忍を忘れていやしないか?タンク内の酸素供給は先ほど切ってある。持ってあと一分だ。それを越えれば彼女を待つのは死!かろうじて命が助かったとしても、脳障害は免れんだろうな。見殺しにするのかね?」

「滝根!貴様ー!」

──滝根の言葉の信憑性はともかく紋峰忍をとにかくここから出さなくては。

「ちくしょー!!」そう叫ぶと真崎はタンクに駆け寄った。

開閉スイッチが見当たらない!

「小鉄ー!」

滝根達を追いかけようとしていた小鉄を呼び止める。

「すまん、開かない!どうすれば!!」

「どけー!征也ー!」

──ドカッ!!!

走ってきた小鉄がそのまま激しい蹴りをタンクに喰らわせた。
タンクに漸く手のかかりそうな窪みが出来る。
三人がかりでタンクの蓋を持ち上げる──。

「シュー、、、」

タンクが空気を吸い込み蓋が開いた。

「紋峰さん!紋峰忍さーん!」

真崎が黒々とした液体にまみれた紋峰忍を抱き上げ声を掛ける。

「はあっっ、あっ、あう、あう、」

紋峰忍は確かに呼吸をしていた──。



あれから数ヶ月がたった。

小鉄は「呪詛鬼行社事件」の捜査で大忙しだった。あれだけの事がありながら、関係者の口は一応に固かった。重要参考人のなかには政治家や有名人も含まれ、捜査は慎重に行われているようだったが、滝根と姫野の行方は以前として知れず、行方不明者の捜索も難航していた。

小鉄にどうやってあの部屋までたどり着いたのか、と聞けば、「社内にジャーナリストを名乗る変質者が侵入したらしい」と言って強引に乗り込んだのだと云う。そしてエレベーターの脇で腕を押さえたスキンヘッドの男を発見し、事情を聞き出し、あそこまで無理矢理案内させたと云うのだ。

──無茶苦茶だ。一歩間違えばどうなっていたか。

高戸光佑はというと、今回の事件を元ネタに自身の編集する雑誌に特集記事を書き、好評を博していた。



俺は紋峰忍の病室を訪れていた。

「どうだい?忍さん」

「真崎さん、いつもすみません。わたしなんかのためにわざわざ」

「気にしないでください。どうせ暇ですから。薬物の後遺症は時間の経過とともに良くなる筈だ、と先生も仰ってましたよ。気長に行きましょう」

「ありがとう、真崎さん」

「なにか頼みごととかありますか?」

「いいえ、特には。ただね──」

「ただ、なんです?」

「あの男の言っていたことが忘れられないんです。お前には怒り以上に呪いの才能があるのだと──」

「俺が思うに、それこそがあの男の呪いだと思うんです。怒りとはそもそも〈二次感情〉だと聞いたことがあります。感情というものは、出来事や刺激に対する自然な反応で、プラスの感情もマイナスの感情もない、ということらしいですよ」

「そうなの?」

「ええ。怒りの本性とはもともと〈一次感情〉で、それは寂しさであったり、不安であったりするそうです。だからこの〈一次感情〉を誰かに伝えること、伝えられる相手がいることが大切なのだといいます。

あの男は人間の寂しさや不安、その他多くの感情に呪いをかけて、忍さんや彼女たちを縛りつけ使役していたのでしょう。俺で良ければ話してください。言ってもそれくらいのことしか出来ませんが」

「真崎さんは、やさしいのですね。
実は私の母はもともと重い病気を患っていて、その母の看病を苦に父が母を殺め、その父も自ら命を断ってしまったんです。今になって思えば両親とも心身を病んでいたのだと思います。当時の私には何も分かりませんでした。小学一年の冬でした。それからは施設や親戚の家を転々とし、精神的にはずうっと一人で生きてきました──」

紋峰忍の目は涙で滲んでいた。
これまで誰にも話したことは無かったのだと云う。忍の話が終わると、「俺はね、」と今度は真崎自身の話をして聞かせた。話す必要も別段無かったのだろうが、何故か話しておこうと思った。誰にもしてこなかった話を──。



俺は病室を後にし外へ出た。病院から出て見上げた空は、快晴でもなく、雲に覆われているわけでも、まして雨が降っている訳でもなかった。いつもの、ごく普通の空だった。

いかに普通に見えようと、今見る空の景色と同じものは二度とは存在しえない。

すべては常に変化し続けている。

偉大なるものは全て呪われているのか?
SNS上の人間関係はニセモノなのか?

そんなことは俺には分からない。

今、この世界に、ネットワークやSNSの世界に、例え「呪い」が溢れているとしても、それは同時に「祈り」も溢れている、と俺は思いたかった。

俺が他の誰かを呪わずにいられたのは、"偶然にも"姉の万優子が、そして友人達が側に居てくれたからだ。俺は運が良かっただけなのだ。

──人は無意識に他人を「呪い」また「祈る」。ならばせめて、俺はこの世界を言祝いで生きていたい。

──でも、どうすればいいんだ?

「そうだ、推しを上手に推す高戸光佑先生にとりあえずお伺いしよう!」

俺は光佑のいる出版社へと向かうことにした。


ポケットの中でスマホがメールの着信を告げた。真崎は気がつかない。


アリガトウ 



その一文だけが彼のもとに届けられていた。



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