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『シャボン玉』

 面倒くさがる娘を風呂へと誘うためだった。 とはいえ、嘘をつく訳にもいかないから、とりあえず風呂場にあった手桶と吹き棒を手に取ってみる。

 予定では頭を洗い、体を洗い、そして湯船に浸かったその後で、ほんの少し遊んであげればよいと考えていた。

 だが、それはやはり大人の都合というもので、子どもにとっては体を綺麗にすることよりもシャボン玉の方が一大事なのである。
 まあ、私が子どもでも同じことを思うだろうから、怒ることなどしない。私はせがむ娘の言いなりになる他なかった。

 プラスチック製の手桶に液体石鹸を二回分押し入れ、そこに少しのぬるま湯を注ぐ。これでシャボン玉を作るのに丁度よい石鹸水が出来上がったはずである。

 手桶に吹き棒を入れ、くるくると数回混ぜた後、私はふうと息を吹き込んだ。

 強く吹けば小さな泡がまるで魔法のように幾つも現れたし、弱く吹けば大きな泡が棒の先で膨らんだ。娘は湯船から身を乗りだし瞳を輝かせている。

「もっと、もっとやってよ」

 娘に言われるまま、私は浸けては吹いてを繰り返した。
 始めこそ浴槽に石鹸が入らないよう気を付けていたのだが、そのうち娘の喜ぶ顔が見たいばかりに私は浴槽の真上に向かって吹いた。

 シャボン玉は案の定、湯で温められた空気に沿って水滴の付いた天井へと昇って行き、やがて途中でゆっくりと落ちてきた。
 全て落ちてしまわない内にもう一度吹く。そうして小さな虹色の泡は風呂場一杯に広がった。洗い場のシャボン玉はすぐに床へと落ちて来たけれど、それでも充分に幻想的な光景が出来上がった。

 随分と安上がりにも関わらず、その様子に興奮したのは娘だけではなかった。

「わあ、ピンク」

 娘は浮かび、そして緩やかに落ちるシャボン玉に大好きなピンク色を見ては楽しんでいた。

 吹き棒を吹くのに些か疲れた私は、吹くことを止めた。途端に風呂場はいつもの生活空間の一部と化した。

「もっと、もっと」と繰り返す娘に、私は再び石鹸水を吹いた。

 娘はとても喜んだ。そうして暫く遊んでいると、ふと切なさが胸に込み上げてきた。

 いつまでこうした時間を娘と過ごすことが出来るのだろうか。同時に美しくも儚く消え行くシャボン玉と、目の前の幼子おさなごを比喩であっても同一視したくない、してはならないと強く感じた。

 先に床に落ちて消えるのは私でなくてはならないのだ。それまではもう暫く娘とこうして漂っていたい。私は湯で顔を強く洗った。



〈了〉

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