『赤子』
舞は泣いていた。
「ウェディングドレス、綺麗だったね」
「さっきも聞いたわ」
「あの子、本当に幸せそうだったね」
「それも何回も聞いたわ」
舞と伊織は結婚式場から二次会に出席するため、一旦家へと帰るタクシーのなかにいた。
今日は舞の幼馴染みの結婚式だった。
舞とその幼馴染みはとても仲のよい姉妹のように育った。姉妹というよりも、むしろ双子と言った方が合っているかもしれない。
小学校、中学校、高校とずっと一緒だった。大学、そして社会人となってからはいつも一緒とまではいかなかったが、よく二人で遊びに行ったり、互いに悩みを相談し会う間柄だった。
二人は「大」のつく親友だった。
名を「葵」といった。
葵は三年程前に大病を患って死生の間をさまよった経験を持っていた。その時、舞はひどく心配し、毎日のように病院に見舞いに行っていた。姉の伊織が逆に迷惑になるのでは、と心配するほどだった。
その葵が晴れて結婚式を挙げたのだった。
舞は式が始まる前から涙ぐんでいた。そして今もまだこうして泣いている。嬉しいのだ。「心から」という言葉は舞にとって、まさにこの日のためのものだった。
*
葵の結婚式から半年が経とうとしていた。
最近、舞は何処となく淋しそうに見えた。
その日、見かねた伊織が声をかけた。
「舞、大丈夫?葵ちゃんロスなんじゃないの?あんたも早く結婚しなさいよ」
いつもなら「うるさいなぁ」とか「お姉こそ早く結婚しなよ」などと噛みついてくるのだが、それもない。やはり様子が変だった。いつもの舞ではなかった。
「ちょっと、舞。本当に大丈夫?」
「うん、大丈夫。ほんと、そういうんじゃないんだ…心配ないから」
毎日、淋しそうにしているわけでは無いのだが、朝起きて来た舞を見て、伊織はそう感じる時が多くなった。
*
それから数日たったある晩、伊織は赤ん坊の泣く声で目を覚ました。
「おぎゃー、おぎぁー」
──どこかで赤ちゃんが泣いてるわ。このアパートに赤ちゃんなんていたかしら?
伊織は少し怪訝に思った。
赤ちゃんが産まれたなんて話は聞いていなかったし、大体この長屋に子どもが産まれるような夫婦は住んではいないはずだ。
──誰か子連れで遊びに来ているに違いないわ。
伊織はそう思うことにした。
その赤ん坊の泣き声は「ギャー、ギャー」と声を荒げるというより、何処か淋しげで「ぐずぐずと泣いてる」ようにも聞こえた。
そんなことを考えている内に伊織は再び眠ってしまっていた。
*
伊織は夢を見た。
遥か先まで続く一本の白い道。
目の前には同じく白いワンピースを着た少女が立っている。その幼い手のひらには色付いた落ち葉が数枚、そっと載せられてる。
そして、少女はその落ち葉をひらひらと地面に落とすと、その幼い指で上の方をすうっと指差した。
少女の顔はよく見えなかった。
しかし、少女は淋しそうな雰囲気を漂わせていた。
少女はゆっくりと背を向けると、その白い道を奥へと一人で歩きはじめた。
いつしか少女の姿は見えなくなっていた…。
*
伊織は、はっと目を覚ました。
──何?夢?
あまりのリアルさに、夢と現実の区別が一瞬つかなくなっていた。
──淋しそうな女の子だったな。どうしてこんな夢、見たのかしら?赤ちゃんの泣き声を聞いたから?
その日一日、伊織は昨夜見た夢の情景が頭から離れなかった。白いワンピースの少女が強く脳裏に焼き付いている。「きっとただの夢じゃないんだわ」そう確信めいたもの感じた伊織は、その日の昼休み、友人の荒川和三にこの夢の話を電話でした。
「そうか、なるほどなぁ」
和三から切羽詰まった雰囲気は感じられなかったが、何がなるほどなのか、伊織にはさっぱり分からなかった。
「今夜にでも行くよ」
急を要してはいないようだったが、この和三の対応は早い方の部類だ。
──やっぱり何かあるんだわ。
伊織はそう思うと、とりあえず今晩、和三が来てくれるを待つことにした。
*
「こんばんはー」
夜になって和三がやって来た。舞には和三が来ることを話してはいなかった。
「おう、久しぶり。舞ちゃん元気してたー」
乗りが軽い。いつもの和三らしくない、伊織はそう思った。舞は舞で和三が急に家に来たことについて、何も言わなかった。どこか和三が来てくれるのを待っていたようだった。
「うん、まあ、元気だよ」
「そっか、それは良かった。良かったけれど、舞ちゃん、やっぱり元気ないね」
──やっぱり?、舞に関係があるんだわ。
そう伊織は思った。それにしても、この和三という男は世間話というものを知らないのか。いつもすぐさま本題に入ってくる。無駄がないというか、なんというか。そんな和三を伊織は嫌いではなかった。
*
「ちょっと、こっち来て、話そうか?」
和三はそう言って、二人をテーブルに着かせた。
「ねえ、舞ちゃん。今、舞ちゃんの周りに小さい子どもの知り合い居る?赤ちゃんでもいいんだけど」
舞は少し驚いた。
「いないよ」
「いないよ、でも…」
舞は何かを隠していた。
伊織も知らないなにかを。
舞は、ゆっくりと話し始めた。
*
それは、三年前、ちょうど葵が入院した時くらいからだったという。
葵の病気とそれに伴う入院のショックで、その晩もなかなか寝付けずにいた。ベッドの上で寝返りを繰り返す。幾度目かの寝返りを打った拍子にぶらんと右手がベッドからこぼれ落ちた。
その時だった。
舞の手を誰かが、そうっと握ってきた。
「はっ、、」声も出なかった。
小さな、幼い、子どもの手だった。
不思議と恐怖は感じなかった。
感じないどころか、その小さな手に舞は深い安堵を覚えた。
舞はそのまま、そうっと手を握り返してみた。
小さな手も「きゅっ」と握り返してくる。
舞は涙を流しながら、その晩、そのまま眠りについたという。
それからというもの、その小さな手はいつもそこにあった。不安と心配で眠れない夜。仕事で失敗をして落ち込んだ日。
そうでなくても、ベッドの上から手を下ろすと、いつもそれは舞の手をそっと握ってくれた。いつも、そして必ず、だった。舞は「その小さな手」が愛おしくて仕方なくなっていた。
それが葵が結婚してから、半年ほどたったある日を境に「その小さな手」はいなくなってしまったのだという。舞は悲しみにくれた。淋しくて、淋しくて、どうしようもなかった。
「あなたまで、わたしの前からいなくなっちゃうの?」
それが、舞の時折見せる淋しそうな姿の原因だった。
*
「どうして黙ってたの?舞」
「なんか、お姉に話すことでもないかなって。わたしの単なる思い込みかもしれないし、ちょっと疲れてるのかなって思ってた…」
「あんたって子は」
舞は話せたことによって、少しほっとしているようだった。
目を閉じたまま黙って聞いていた和三は、一度小さく頷いてから、舞にこう言った。
「舞ちゃん、舞ちゃんの部屋の机の上にメモ紙の束みたいなのが有るだろ?それちょっと持ってきてくれないか?」
「どうして、そんなことを和三さんが知ってるの?わたしがいない間にこっそり部屋に入ったんでしょう。いやらしい」
「そんなことしないよ。まあいいから、持ってきて」
「わかったよ」
舞は狐に摘ままれたような顔しながら、渋々言われた通り二階からメモ紙の束を持ってきた。
「はい、持ってきたよ」
正方形の紙が片端だけ糊付けされたメモ張だった。薄紅色の可愛らしい花柄が印刷されている。
「何も別に書いてないよ」
「三枚目をめくってごらん」
舞は言われるままにメモ張の三枚目をめくった。
「ほらね。なんにも…」と言いかけて舞は言葉を詰まらせた。
「み、見て」
差し出されたメモを伊織と和三が覗き込む。
「……歯形だ」
和三が言った。
そこには、小さな、小さな、歯形がついていた。
「お別れの手紙だそうだ…」
「、、、」
舞はメモを額に押しあて、わんわんと泣き出した。
それを見ていた伊織もしばらく一緒に泣いていた。
*
その数日後、今では電話やメールでしかやり取りしていなかった葵から電話がかかってきた。
「あっ、舞ー、ちょっと話したいことあるんだー。明日うちに遊びに来ない?」
葵はなんだか楽しそうだ
「もちろん!いいよー。なんか食べたい物とかあるー?」
「ううん、なんにも、あっ、じゃあ、炭酸水買ってきてー」
「炭酸水?葵、炭酸飲めたっけ?炭酸水がいいんだね。わかった、なんか適当に買ってくよ」
「うん、ありがと。じゃ明日ね」
「うん、あしたね」
*
久しぶりの葵の家だった。
ずいぶん小綺麗にしてある。
「ちゃんとお嫁さんやってるみたいじゃん」
「まあねー、いまのところは」
二人でしばらく笑いあった。
やっぱり葵といるときが、一番楽しかった。
「葵、話ってなあに?」
「うん、実はね。赤ちゃんできたの」
「えっ!ほんと!?おめでとー!」
見ると葵のお腹はすでにふっくらとしていた。
「え、何ヵ月?」
「五ヶ月」
「五ヶ月?どうして今までだまってたのー」
「うーん、わたし前に病気したじゃない。それでなんだか心配でさ。安定期に入るまで誰にも言わないでおこうって。でも安定期に入ったし、病院の先生もいまのところ順調だし、大丈夫だろうって。もちろん、家族以外に話すのは舞が最初よ」
「そうなんだー、良かったね、葵。わたしホント嬉しい!」
「そう言ってくれると思った。それでお願いがあるんだけど、この子の名付け親になってくれない?」
「は?」
「べ、別にいいけど、夫さんや家族は何て?」
「今のおまえがいるのは、舞ちゃんのおかげだから、おまえがそうしたいんなら是非そうしてもらえって」
舞はしばらく考えてから言った。
「いいよ、嬉しい。いい名前考えとくね」
そうして二人で葵のふっくらとしたお腹を優しくさすりながら、肩を寄せあった。
「本当に良かった」と舞は思った。
*
数ヵ月後、葵は元気な女の子を出産した。
名前は「美咲」と命名した。
葵のように、つよく、美しく咲いて欲しいと思ったからだ。
美咲はすくすくと元気に成長した。
舞はわが子のように美咲を可愛がった。
葵も元気だった。みんな幸せだった。
*
美咲も保育園に通う年になっていた。
舞はいつものように葵の家に遊びに来ていた。
「美咲ー、そんなん着たら汚れちゃうでしょー」
キッチンから葵の声がする。
「いいのー」
た、た、た、た、た。
美咲が走ってきた。真っ白な下ろし立てのワンピースを着ている。
「まいおねえちゃん、みさき、かわいい?」
「うん、とってもかわいいよ。よく似合ってる」
「まいおねえちゃん、ちょっとこっちきてー」
「なあに?みさきちゃん?」
「おねえちゃんに、おはなしあるの」
美咲は舞を隣の部屋へと手を引いて連れていった。
「あのね、みさき、ほんとは、まいおねえちゃんの赤ちゃんになりたかったの……」
「、、、」
「知ってたよ……」
舞はそう小さな声で言いながら、美咲のきれいな髪をそっと撫でた。
「しってたの?」
「え、どうして?」
美咲は少し不思議そうに、舞の顔をじっと見つめていた。
「美咲ちゃんが産まれて、初めて美咲ちゃんの手を握った時におねえちゃん、思ったの。ああ、ベッドでずっと手を握ってくれたのは、美咲ちゃんだったんだなって」
「まいおねえちゃん、おぼえててくれたんだ」
「そっかあ、、、よかったー」
「あっでも、おねえちゃん、ママには内緒ねっ」
「うん、ふたりだけのナイショ、ね」
二人はぎゅっと、抱きあった。
舞の目には涙が浮かんでいた。
「知ってたよ…知ってたよ。今までずうっとありがとね。これからもよろしくね。葵のことも…」
心のなかでそう何度も繰り返した。
「まいおねえちゃん、どおしてないてるの?」
「ううん、なんでもないよ。美咲ちゃん、今日は何してあそぼっか?」
「ううんとねぇ、かくれんぼー!」
「わかった。じゃ、かくれんぼね」
「でも、ベッドの下はだめだよ」
「ええー、どーしてー?」
「だって、美咲ちゃん、いっつもベッドのしたに隠れてるから、おねえちゃんすぐに見つけちゃって、かくれんぼにならないんだもん」
「はーい!」
二人は手をつなぎ、リビングに向かって駆けだした。
〈了〉
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ここまで読んでいただいた方、誠にありがとうございます。
こちらの作品は『四軒長屋シリーズ』の第三章となっております。各話完結になっておりますので、もちろん単体でもお読みいただけます。前二章をお読みいただくと、各登場人物の背景が多少紹介されておりますので、より楽しんでいただけるかと思います。
お暇な時に読んでいただけたら幸いです。
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『四軒長屋シリーズ』
第一章 「割れたグラス」
第二章 「その先に見えるもの」
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