『空羽織』
空羽の生地を手に見上げた空は青くなく、少し白を混ぜた薄い水色をしていた。五階建てのマンションをかすめて眺める空に「意識的に見たのはいつだったか」と私は思いを馳せる。一週間、一ヶ月、一年、或いはもっと前かもしれない。
その時、白い羽根が一片、ふわふわと空から舞い降りてきた。
「なんてロマンチックなの」と遥か昔なら感傷に浸ることもできたのかもしれないけれど、歳を無駄に重ねてしまった今の私にはもう叶わない。
それは風切羽ではなく、体羽と呼ばれる小さな羽根だった。それでも左へ右へ、上へ下へと空気をはらんでゆっくりと舞う様は暫し私を魅了した。しかし、それも束の間、もう一人の私が口を挟んでくる。
「あれは地面に落ちた羽根が風で巻き上げられただけかもしれないよ」
「だいたい、夏は鳥たちの羽根が生えかわる時期だからね。たくさん落ちてて当たり前さ」
「死んだ鳥のものだったら、ウイルスがついてるかもしれないから、さわらない方がいいよ」
つまらない──。
天使の羽根でも、何かの吉兆でも、勝手に想像すればよいのだろうに、それが出来ない。
私は今、取引先の小さな事務所前でこの暑い最中、先客のために外で待たされているだけなのだ。この予想外に与えられた手持ちぶさたな時間に、空を見上げることしか出来なかったにすぎない。
つまらないのは、私──。
ただ美しく愛らしいと思っていた天使たちは、苦悩する者のために戦う存在でもあると聞かされ、かの魔王とて堕落する前は真に天使だったという。
幼いころ、私にあった白い翼の片方は、すでにもぎ取られていることだろう。もしかしたら両方かもしれない。背には血でも滲んでいるのか、時折痛みを感じることさえある。
本当に"青い空"が見たければ、日本から出なくてはならないと友人のカメラマンが以前言っていたけれど、そこまでして青い空が見たい訳でもないのが私という人間だ。
もう一度見上げた空は、さっきよりもその青みを増してはいたが、やはり青くはなかった。それでも私には充分だった。綺麗な青い空だった。
太陽が照らす雲の縁の耀きが、風にちぎれるその白が、遠くにたなびく飛行機雲が、私の青い空を彩っている。
ドアノブが回る音がした。
この間、わずか十五分。先客にとくに感謝を述べるつもりもないし、言ったところで意味が通じない。しいて言うならここは天使に対してだろうか。私は外気で温められた空羽を手に、流れくる冷えた空気と入れ替わるように事務所へと入った。
〈了〉
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