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『いつもと違う』

 朝起きられないだとか、そもそも起きたくないと云う人の話をよく聞くが、私は朝起きるのが苦にならない。

 携帯のバイブを目覚まし時計の代わりにしているのだが、その振動が開始されるより早く、数分前にはいつも目が覚めるのである。それでもアラームをセットするのは「その時間までは寝ていてもよい」と云う自己暗示をかけるためである。そうでもしなければ私は不必要に早起きをしてしまうに違いない。

 アラームを解除してベッドに入った翌日、私は案の定、日曜で仕事も休みだと云うのにいつもより一時間半も早く目が覚めた。時刻は午前五時。だが二度寝はしない。時間は有効に使うべきだろう。

 いつもと違う自分になりたい──ふと、そう思った。

 起き抜けの思考と云うものは、冴えているのかそうではないのか、暫く時間を置かないと判断がつかないものだが、その日の朝は何故かそう強く感じたのを憶えている。

 それは6月初旬、その年初めてエアコンと云う言葉がはっきりと脳裏に浮かんだ朝のことだった。

 いつもと違う自分、と云ったところで内面をどうこうしようとすれば、それはなかなかに骨の折れる作業になる。私はまず外堀を埋めることにした。要は行動を普段とは違ったものにしてみよう、そう思い至ったのである。

 身支度を整えると朝食を取らず家を出た。これはいつもと同じ。私は独り暮らしであるし、簡単なものであれ自炊して朝食を作るようなことはしない。そのような人々を私は尊敬する。

 とりあえず、いつもとは反対の方向に向かって歩き始めた。左右を逆転させるだけだからこれは造作もない。

 予想通り、日曜の早朝と云えど誰も居ない訳ではなかった。犬の散歩やジョギングのように目的がはっきりしている者や一見しただけでは判断がつかない者たちが見受けられた。

 コンビニをひとつふたつ通りすぎる。

 出掛ける時には毎朝コンビニでコーヒーを買うのが常なのだが、いつもと違うことを試みた。が、モーニングルーチンであるコーヒーを飲まない訳にはやはりいかない。私は地下鉄の入り口付近まで来たところで贔屓のコンビニ系列店を見つけると店内に入り、そのままレジに赴いてカウンターコーヒーを注文した。

「ホットのLを」

 よし、ここはいつもと違う。私はいつも飲むSではなくLを買った。

 いつもと違うサイズのカップとそれに付随する蓋の色は量以上に私を新鮮な気分にさせてくれた。溢れるのを防ぐため、まだ熱すぎるコーヒーを一口すすり、地下鉄のホームを目指し階段を降りた。

 いつも利用する東西に伸びる線ではなく、普段は利用しない南北に伸びる地下鉄である。私は北の終点までの切符を買った。終点と云っても中央駅から見て南北に七つずつしか駅は無い。その途中から乗るのだから終点まで僅か三駅である。

 程無くして終着駅に到着すると、改札を抜け適当な出口から地上に出た。雨が降っていた。予報は「晴れ」であった筈だが──そう思いつつも私はバッグに軽量の折り畳み傘を入れたままにしていたことを思い出し、リップストップナイロン製のそれを押し広げた。

 パリパリと音をさせながら傘は問題なく開いた。辺りに人は誰もいない。近くには公園や池があり確か大きな会議施設などもある。観光シーズンには最寄りの観光地へ向かうため、それなりに人で賑わうらしいが時季がずれている為かそういった様子も一切無かった。

 日曜日だからこそ、人が居てもよさそうだと少し訝しみつつ私は周辺を散策することにした。いつもと違うどころか、私を取り巻く非日常感に当初の目的は完全に達せられたように感じた。充分に満足であった。

 しかし、もう一押しである。
 私は池をぐるりと囲むように整備された遊歩道へと足を向けた。雨の降るなかの散歩と云うのもなかなかに風情があってよい。

 それなりの時間を費やし、散歩にも飽きてきた私はいつもは乗らないバスにでも乗って帰ろうと遠目に辺りを見回すとそれはあった。

 近くまで歩いて行くと少し錆が浮き、古びてはいるが紛れもないバス停である。時刻表もある。次のバスまで約三十分。私は雨のなか暫く待つことにした。

 目の前には湖と呼ぶには少しばかり大きさの足りない、やはり池があった。その水面には雨粒によって作られた無数の波紋がひしめいている。岸辺には睡蓮であろう、白い花弁とその中心にある黄色い雄しべが如何にも涼しげである。

 私は今まで歩くことばかりに夢中で景色など全く気に留めていなかった。行動を多少変えたところで眼前の現実すら見てはいないのだ。そのような心持ちで外堀だけを埋めてみても、結局は何の意味などないのだ──そう私は苦笑せずにはいられなかった。

 小ぶりな睡蓮はその花も葉も水を撥くことなく静かに浮いている。それらのひとつひとつに焦点を絞らずただぼうっと眺めていた。

──この間もこんなふうにそぼ濡れて。

 違和感が走った。
 この間とはいつのことだ。

 此処に来たことがない訳ではない。だが、それは何かのイベントであったと思うが、もう数年は前のことなのである。しかし、感覚的にはつい最近、少なくとも先月くらいのことに感じられた。

 その時だった。

 対岸で一際大きな波紋が弧を描いた。魚でも跳ねたのかと目を凝らすと、それは幾重にもなり私に向かってやって来る。風が水面を渡っているのだ──そう思った矢先それは私の横をすっと駆け抜けて行った。

 幾分冷えた空気を伴って、清らかさがつんと鼻をさすような香りがした。睡蓮の香りだと思ったが、睡蓮とはそれほどまでに香るものだっただろうか。

 これは、香水、しかも女物だ──。

 私は首を振り左右を見たが誰の姿もない。その刹那、背後から足音が聞こえてきた。

「コツコツ、コツコツ」

 周りの空気が一瞬で冷えきった、がそうではない。それは私の感じている悪寒であった。

「コツコツ、コツコツ」

 尚も足音は近づいてくる。パンプスか或いはヒールだろう。その乾いた靴音が真っ直ぐ近づいて来て歩を止める気配が無い。私は後ろを振り向くことが出来ない。いや、むしろ振り返ってはいけないと云う強迫観念に駆られていた。

 このままでは傘がぶつかるのではないかと緊張が走ると同時に私は気がついた。傘を打つ雨音は私のものしか聞こえないのである。足音の主は傘をさしていない、そう思った時それは私のすぐ後ろでぴたりと止まった。私は体を動かさないよう首だけを捻り、右肩越しにゆっくりと後方の、その足があるであろう地面を見た。

「はっ」

 息を呑んだ──裸足?

 靴音が響いていたにも関わらず、背後のそれは裸足なのである。その足は透き通るように白く、ほっそりとしている。揃えられた両足先の爪はペディキュアが幻視される程に紛うこと無き女のものだった。そう思った瞬間、私の背中に何かが触れた。それは手だった。

 親指以外の四本の指と手のひらの感触がある。しかし、その手に体温は全く感じない。暖かくも冷たくもない。そしてそれは突然、ぬっと私の背の中に差し込まれた。

「がはっ」

 思わず声が出た。温度や感触があやふやであるにも関わらず、確実にその手は私の体内にあった。胸の辺りをまさぐるように蠢いている。

 私は膝から崩れ落ち、濡れた地面に両手をつくと──嘔吐した。鼻先きのアスファルトに茶色い液体と一筋のぬらぬらとした線が見える。

──何だ。

 それは地面から私の口に繋がっている。
 糸などではない。口内には覚えのある異物感。

──髪だ。髪の毛だ。

 髪は口から更に喉の奥へと伸びている。
 髪の毛を掴み引き抜こうとするが、たった一、二本であるのに容易に引き抜けない。私はそのまま右手を口のなかに突っ込み更に力を込めて引いた。さらに嘔吐する。それでも抜けない。

 私は手に付いているであろう汚れを気にすることもなく、無理矢理に両手を口に入れ──引いた。

「ごはぁっっ」

 引き出され吐き出されたそれは、互いにもつれて一塊になり、ぬるりとした液にまみれた漆黒の髪の毛だった。

「な、何だコレ、一体どうなってるんだ」

 強烈な吐き気と悪寒のなか視界が暗転する。
 私は気を失いつつその場に顔面から前のめりに倒れた。鋭い痛みを感じながら意識が途切れる寸前、私はか細い女の声を聞いたような気がした。

 どれくらいの時が経ったのだろう。私はじりじりと肌を焼く強い日差しで目が覚めた。私は池畔でうずくまっていた。

「あのう、大丈夫ですか?」

 そう声を掛けてきたのは、軽快にランニングウェアを着こなした若い男だった。大丈夫ですか? と再び男が問いかける。

 あ、はい、と私は咄嗟に口を覆った。口の周りにも中にも違和感は無く特有の臭いもしない。目の前にある筈の吐瀉物の痕跡もない。それどころか雨の降った様子すら無かった。地面は完全に乾いているのである。

「何か持病でもお有りなんですか? あなた、先週も此処でこうして──」

「え? せ、先週──ですか?」

「ええ、その時も傘を広げたままに、そこにそう座っていらして──」

「あ、いや、私はただ、此処でバスを待っていた筈なのですが──」

 この辺りにバス停など無いのだとその若い男は云った。そう呼べるものは駅前のバスターミナルだけなのだと。

 確かにあった筈の停留所はどこを探しても見当たらない。

「そ、そうですか。ありがとうございます。もう大丈夫です。ご心配をおかけしてすみません」

 そう云って立ち上がる私の背後で、もう一度私を心配する男の声が聞こえた。

 私はいつから、いつもと違う時間を過ごしていたのだろうか。そしてこれから向かう帰りの道のりは、もしかしたら、いつもの道のりなのではないだろうか。

 そう思いつつ、広げたままになっている傘を拾おうと私は手を伸ばした。その時、傘の柄が火傷するほどに熱く感じられたのは、私の手が凍えるように冷たかったからに違いない。

 いつから私は朝起きるのが苦にならなくなったのか、それが未だに解らない。



〈了〉

 

 

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