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♯2 会話とオーダーメイドを巡る旅〜short finger 渡部まみさんを訪ねて〜 第一回

手編みのニットは、こんなにも洗練されていてカッコいい。

short fingerの渡部さんが編むニット帽は、柔らかさや温かみを持ちながら、工業製品のような整然とした美しさがあります。

この美しさはどうやって生まれてきたのか?
渡部さんが数あるアパレルアイテムの中から、なぜニットを選んだのか?
そんなルーツを知るために、長野県松本市にある渡部さんのアトリエを訪ねました。

【プロフィール】渡部まみ
東京モード学園卒業後、イトキン株式会社にてニットデザインを担当。専門学校の教職を経て、自身の手編みニットブランドshort finger(ショートフィンガー)をスタートする。


きっかけは、母の仕事と絵を描くこと

寺田:渡部さんが、アパレルに進もうと思ったきっかけは何だったのでしょうか?ファッションに興味を持つのは、中高校生の頃にお洒落をしたくて、といったケースが多いと僕は思っていたのですが、渡部さんの場合はどうでしたか?

渡部:母がずっとお仕立ての仕事をしていて、その影響が大きかったと思います。
母は、元々アパレル企業で働いていたんです。住まいが岐阜だったから、高校を卒業して名古屋に出て、すみれ洋裁学院に進学して、その後アパレルに就職したそうです。
父と母は、同じ郡上八幡の出身だったんです。父は高校を卒業してから東京に出て、たまたま就職した会社が長野で。そこで二人は結婚して、それから母はずっとオーダーメイドで服を仕立てる仕事をしていました。
自宅の母の作業場には、昔の足踏みミシンが2台あって、母はそれでずっと洋服を縫っていて。ただ、あまりに田舎なので、お仕立てだけでは難しく、クリーニングの取次店もやっていました。
それを見ていて、子供の頃から当たり前に、「私は洋服の世界に進むんだろうな」って思っていました。

寺田:洋服が形になっていく過程を見られる環境だったんですね。

渡部:ずっとミシンの下で糸や生地を拾っては遊んでいる感じでしたね。それと、漫画もすごく好きで、絵にも興味があって。
だから、母が持っている洋裁の型紙が載っている本を見ながら、スタイル画をずっと描いていましたね。周りの友達が漫画のイラストを描いている横で、私は全身画を書いていて。小学校4年生くらいから、授業中はずっと描いていて、ノートが絵ばっかりになっちゃっていましたね。
それで、絵を描きながら、ちゃんとお金を得られる仕事って何かなって考えるようになって。それはファッションデザイナーなんだろうなって思うようになりました。
絵描きだとなんか大変なんだろうなって子供ながらに考えていて、イラストレーターって感じでもなければ、漫画家になれそうにもない。私は人が立っている絵しか描けなかったから。
ファッションデザイナーだったら絵を描いて、それを洋服にして売ることができる。絵を描きながら安定した仕事なのかもって、子供心に思いましたね。母の仕事がそういうものだったから、ちゃんとお金を稼げる仕事なんだって実感もあって。
意外とそういうところは真面目なんですよね(笑)。
思い返すと、小学校1年生くらいから、ずっとファッションデザイナーになろうと考えていました。
でも、実は動物も好きだったから、獣医さんにもなりたくて。
だからファッションデザイナーと獣医っていう二つの道が、しばらくは並行してありましたね。

寺田:どちらも叶えられた良いな、という夢として描かれていたんですね。

渡部:そうですね。でも、そこから一つに固まる時期があって。
小学校5年生くらいから乗馬教室に通い始めて、その教室の理事長さんが獣医さんでもあったんです。
私が中学生のときに、獣医さんになってみたいって話をしたら、その先生が「乗馬の学校が終わった後にいつも往診をしているから、一緒に来てみるか?」って誘ってくれて。着いて行ってみたら、想像していたよりもすごく大変な現場でした。血は出るし、痛いことをしないといけない。動物は好きだけど、やりたいこととは違うのかもしれないと思いました。
そこで、気持ちは一つに固まりましたね。

そこからは脇目も振らずに、洋服のデザイナーになるって思って進んできました。もし、夢を変えなさいって言われても、私にはそれ以外何もないですってくらいでしたね。

高校を卒業して専門学校に行こうとしたときは、文化服装学院とモード学園とで迷いました。当時流れていたモード学園のCMが面白くて、そっちにしようと決めて。勢いがあるように見えたんですよね。それでモード学園に進学しました。

こうやって思い返してみると、やっぱり私のルーツは母なんだと思います
今も、自分のブランドのパンツとかは、母が縫ってくれているんです。
母は45歳頃に目を悪くしてしまって、そこで引退をしてしまいました。それから別の仕事をしていたんですが、最近はそれも全て引退して。そのあと、「暇ができたから、お友達の洋服のお直しをしているんだ」なんて話を聞いていたんです。
ある日、中古のミシンないかなって、母から聞かれたことがあって。それで、私がミシンを買ってあげたら、良く縫っていたんですね。そんなとき、私が縫い子さんを探していて「ねえ、これ縫えないかな?」って声をかけたら「いいよ、いいよ!」って。
そこで縫ってもらってみたら、現役の頃から腕が落ちていないうえに仕事が速い!本当に驚いてしまって、それ以来、母にはずっと縫製をお願いしているんです。

寺田:ご自身の仕事のルーツであったお母様と、今は協業されているんですね。

渡部:そうなんです。この前も新しいミシンを買ってあげたら、またスピードが上がったみたいで。2ヶ月で30着も縫っちゃったんですよ。

寺田:昔って、今と違って家庭にミシンがあるのが、ごくごく当たり前だったんですよね?

渡部:縫うことを仕事にしていなくても、家族の服を縫うのは当たり前だった時代がありましたよね。
私たちの祖父母の世代は、着物が縫えて、洋裁ができて、セーターも編めて。その後の世代は、高度成長期で女性も外に出て働く時代だからっていうこともあって、結構縫えない人が多いですよね。私の親世代は、縫える人と縫えない人が半々くらいって感じかな。さらにその次の世代になると、ほぼできる人はいないってなってしまいますよね。

寺田:僕のイメージだと、アパレルの仕事を選ぶ人って、ファッションとして自分が身につけるものへの興味、お洒落をすることの楽しさから入っていく印象でした。だから渡部さんが、お母様の仕事の影響を受けてアパレルに進んでいったというのは、今日、お話を聞くまで想像していなかったです。

渡部:はじめは絵が描きたかっただけなんですけどね(笑)。

寺田:アパレルに進む本当のきっかけは「描く」だったんですね。

渡部:そうですね。でも、子供の頃からマスコットをフェルトで作ったりっていうのも好きでしたね。暇さえあれば、絵を描くか、ぬいぐるみの洋服とかを作っていました。それでも、一番は絵を描くことでしたね。作るか描くかって言えば、やっぱり「絵を描く」だった。
学生の頃もそれは変わらなくて、常に絵ばっかり描いていました。専門学校でも、縫う課題よりも絵の課題の方が好きでしたね。だけど、卒業して就職すると、そのあとは絵を描かなくなってしまって。
デザイナーっていっても大手のアパレル企業に入ってしまうと、かなり分業制なんです。絵といっても、スタイル画じゃなくて平絵(ひらえ ※洋服の平面図)だけで良い。人を描くことは、チーフデザイナーくらいしかやらなくなってしまうんです。
私もチーフになれるくらい頑張れれば良かったんですけど、その前に辞めてしまっていたから、本当に平絵を描くだけでしたね。それで、だんだん絵を描くことがなくなってきちゃったんです。そうすると、絵の情熱もなくなってきてしまって。
それから会社を辞めて、専門学校で教える仕事をして、一人でまたやろうって独立したときに、もう絵ではないから作ろうって思ったんですよね。

専門学校からアパレル企業へ

寺田:絵を描くことから派生して、デザイナーという目標があったのが、中高生の頃。そこから専門学校、アパレル企業への就職と進んでいったんですね。
専門学校では、どういったコースを専攻されていたんですか?

渡部:ファッションデザイン学科という一番スタンダードなコースですね。デザイン画を描くこと、型紙を作ること、洋服を縫うことの三本柱のコースです。
専門学校生だった頃は舞台衣装とかが好きで、そういう方面に進むものだと思っていました。ただ、その頃が就職氷河期の一発目だったんです。本当に就職先がない時期で、舞台関連の求職なんてなくて。それで、普通にアパレルに就職しようと思ったんです。働くなかで、新たに自分が望む職種の求人が出てくれば良いかなって。それでイトキンを受けました。
意外と、石橋を叩いて渡るタイプなんですよね(笑)。夢はあっても堅実じゃない方には進まない。ドンっといけないんです。

寺田:確かに、そのタイミングで一回きちんと就職するっていうのは堅実な選択ですよね。

渡部:でしょう(笑)?一年間企業で働かなくても、自分でブランドをやってみる人だっているけれど、私はそれは選べなかった。真面目に就職しちゃうんです。

寺田:そこで選んだのがイトキンだったんですね。

渡部:なんでイトキンだったのかっていうと、デザイナーも一年間はパタンナー研修を受けないといけない会社だったからなんです。パターンがわからないと良いデザインはできないっていう考えがあって、それが良かった
私はミセスのブランドに入って、そのパターンを引いていました。そうしたら、なんだかそれがすごく楽しくなってきちゃって。
パタンナー研修を終えて、2年目を迎えたときに、パタンナーを続けるかデザイナーに進むかの二択がありました。そこで、もう1年パタンナーを続ける道を選んだんです。それは、大きい会社に入って自分がパタンナーをしていくなかで、上のデザイナーさん達がどういう仕事をしているのかが見えてきたから、という理由もありました。これは自分のやりたいことではないかもって。
2年間パタンナーを続けてみたら、この仕事をずっと続けていくのも悪くないなって思いはじめました。でも、3年目のときに、どうしても人が足りないからって、デザイナーに進むことになったんです。
デザイナーに進むには「布帛(ふはく ※織物生地を使った製品)」「アクセサリー」「ニット」の道がありました。昔憧れていたのは布帛だったんですが、そこに進む気持ちは一切なくなっていて。アクセサリーが楽しそうだから良いな、なんて考えていたけれど、そこは人がいっぱい。それで、「じゃあニットで」なんて軽い気持ちでニットを選んだんです。ニットなんて学校でも全然勉強したことがなかったけれど、布帛は自分には向いていないのではないかと思うようになっていたので、その道を選びました。
布帛は、パタンナーとして働いていたときに、どうしても自分と合わない気がしていたんです。とにかく、きちんとしていたから。
布帛のデザインチームでは洋服を一着作るとなると、パタンナーさんや工場に資材を出すとき、全部責任を持って付属品まで揃えないといけないんです。私はすごく抜けているから、絶対ボタン一個を忘れるとか、そんな失敗をしてしまいそうだなって。ボタン一個を忘れるだけでも、それだけで多くの人に迷惑をかけてしまう。それが見えていたから、怖いなって思ってしまったんです。
だから、少なくともその会社のなかで、私が布帛チームにいるのは違うなって思ったんですよね。

ニットの世界へ

渡部:なんとなく選んだニットではあるんですけど、実は思い返してみると、学生時代のバイトが影響していたと思うんです。4年間ずっとアルバイトをしていた「テ・アッシュ・デラメゾン」というブランドの畠山巧先生が、ニットが得意な方だったんです。そこで、先生から「まみちゃん、ニットは楽しいよ!」って4年間言われ続けていて。このときニットは楽しいって言われ続けていたから、ニットをすんなり選んだのかもしれないですね。

寺田:それは面白いですね。実は専門学校時代に、すでにニットのことが頭にインプットされていた。布帛チームは生産管理の能力が問われるところで、そこに求められる資質は自分にはなさそうだなと感じてしまった。そんな理由からニットに流れていったようだけれど、実はニットには「これなら!」と思えるような納得感がご自身のなかにあったんですね。

渡部:そうかもしれないですね。ニットをはじめてみると、想像以上に自由気ままにできることがわかりました。ニットの人って他とは違って、パタンナーとデザイナーを兼任している感じで、それがすごく良かった。
布帛のデザイナーになったら少し寂しいなって思っていたんです。それは、デザイン画を描いて、付属品を揃えてパタンナーに渡したら、そこから先はその商品に対して、あまり関わることができないから。実際、商品になるまではパタンナーが何度も型紙を修正して、トワルを組んでってことをしているので、パタンナーの方がその商品に対して最後までしっかり関わることができるように見えました。
一方で、ニットは店頭に並ぶまで、自分が携わることができる。それこそ、糸を作るっていう本当にゼロのところから。会社にいながらも、ニットだと物作りをしているっていう感覚がすごくあったんです。もともと手を動かして作ることも好きだったから、自分にはすごく合っているなって感じたんですよね。それでのめり込んでいった。

寺田:同じアパレル企業内であれば、チームが違っても動き方はそんなに変わらないと思っていましたが、それぞれで全く違うんですね。

渡部:そう、全然違うんです。ニットってすごく大変で、就業時間が終わって最後まで残業しているのは、いつもニットの担当者。それぐらい、やることがたくさんあるってことだったんですよね。それは、デザイナーとパタンナーを兼任しているからなんだけど、それが私にはすごく楽しかった。
ニットに進んだばかりの頃は、本当に何も分からなくて、ニッターさんに研修に行かせてもらったり、会社の資料室にいる先生のところに1ヶ月くらい通いました。すごく勉強した。でも、それが私には充実していて。「ニット楽しい!」って思っていましたね。

寺田:ニットはちょっと特殊な立ち位置なんですね。大規模なアパレルっていうと、しっかり分業されているイメージでした。どちらかというと、お聞きした布帛チームの動きというのが、僕が思っていたそれに近いなと。ニットは専門性が高いだけに、そこが完全分業になっていない。担当している人が、かなり幅広い業務を担っているんですね。

渡部:本当に幅が広いんですよね。それこそ、スワッチ(※素材見本)を手で編むなんてこともするんです。

寺田:そうなんですね。大きなアパレル企業に手編みの仕事なんてないのかな、と考えていたので、それは意外です。
手編みに触れたのは、そこが初めてだったんですか?

渡部:いや、実は中学生のときに一度挑戦はしているんです。でも、そのときは左利きだったことがハードルになって、匙を投げちゃって。
今なら、スマホで写真を撮って反転させて…なんてことができるけど、当時はそんなことできない。頭の中で、本の編み図を反転させてなんてことをしてみたものの、すごく時間がかかるうえに上手くいかない。それで挫折しちゃったんです。

寺田:10代で一度挫折してしまった手編みだったけれど、仕事を始めて、ここでもう一度触れることになったんですね。

渡部:当時は、同期でカギ針の達人だった”りっちゃん”の自宅に合宿して、編み物を教わったりもしました。そこで手編みを経験したことは、今の仕事に繋がっている大切なものです。

寺田:short fingerの手編みニットに繋がる道のりが、少し見えてきました。

渡部:でもね、実はニットを担当している人でも手編みができないなんてことは、ざらにあるんです。スピードが速いブランドだと、スワッチを手で編んでいる時間なんてない。私がいたのはミセスのプレタポルテ(※高級既製服)のブランドだったから、じっくり取り組める時間があったんです。良い素材を使えるし、糸も好きなものを使える。編み地を何度も確認することだってできる。そこはすごく恵まれていたなと思います。

着る人を考えて、服を作る

寺田:アパレルといっても、それぞれのブランドのターゲットや価格帯で、やることは変わってきますよね。

渡部:はじめは若い人をターゲットにしたブランドをやりたくてイトキンに入ったけれど、たまたま担当したミセスのブランドが楽しくなってきたんですよね。それまでは気づかなかったんだけど、どうも制限がある仕事っていうのが好きみたい

寺田:「制限がある」というのは、どういうことなんでしょうか?

渡部:ミセスのブランドはVネックがダメとか、ノースリーブはダメとか、いろんなダメがあるんです。でも、ミセスの人はそういう服も着たい。だから、どうしたらこのブランドのお客様がVネックを着れるだろうかって考える。ちょっと天幅(※てんはば 衿ぐり左右端の幅)を広めに取ってあげるけど、切り込みの部分は下がらないとか、色々考えて工夫する。それを考えるのが、楽しかったんですよね。たまに展示会でお客様と接するときに、「このVネックが良いのよ」なんて言っていただくと、それも嬉しくて。
制限があるなかで、試行錯誤して物を作る体験ができたのは良かったなって思います。若くて身体が綺麗なら何を着たって映えるけど、年齢を重ねるとそうはいかないから。

寺田:綺麗に着こなすための制限が、着る人の年齢が上がるほど増えてくるんですね。

渡部:やっぱり年齢を重ねると、どうしても体型が崩れてしまいますよね。そこを、どうしたら綺麗に着てもらえるかを考えながら作るのが楽しくて。そうやって考えて作った服は、反応が大きいんです。着る人の喜びを感じられるのは嬉しいですよね。これは今の仕事にもつながっていると思います。

寺田:一つの会社でもブランドや担当が変わると、だいぶ仕事の取り組み方も変わってくる。この変化が、渡部さんの場合は前向きに楽しいと捉えられたんですね。
「なんでもやって良い」となると難しいってことはありますよね。制限があるからこそ考えることが楽しいというのは、確かにあるんだなと僕も思います。
渡部さんは主に社内で活動されていたと思うのですが、お客様の声は、どうやって耳にすることができたんですか?

渡部:毎週土曜日に市場調査に出るんです。ペアになっているMD(※マーチャンダイザー、商品販売計画担当者)がいて、そのMDと二人で自分のブランドのお店に行って店長さんに話を聞く機会がありました。あとは、会社の中で年に3〜4回受注会をやるときに、お客様も呼ぶことがあって。そのときは生の声を聞けるチャンスでしたね。こういった経験はすごく勉強になりました。

寺田:大きな会社で作る仕事をされていても、お客様と接する機会が普通にあったんですね。

渡部:そのへんは古い会社だから、丁寧にやっていたんじゃないかなと思います。あとは、担当していたブランドがプレタポルテだったからというのも大きかったですね。

寺田:「パターンを1年間必ず勉強する」など、アパレルとして押さえるべきポイントをしっかり考えていた会社だったんですね。

♯3に続きます


心温まるサポート、もしいただけたらイベントでご来場者に配布する印刷物の充実や、出展者に美味しいものを差し入れしたいと思います。