見出し画像

♯3 会話とオーダーメイドを巡る旅〜short finger 渡部まみさんを訪ねて〜 第二回

自分の好きを辿って

渡部:クリエイティブなもの、アヴァンギャルドなものがすごく好きでした。だから好きなブランドは、舞台衣装とかコレクションブランドでした。自分も、そっちに行きたいな、行くんだろうなって思っていたのだけど、30歳手前くらいになると、自分の能力というか、身の丈がわかってしまうんです。自分が、ああいう風にはなれないんだなって。
そこにはきっと、人に着てもらうっていうこともあったんだと思います。
自分のクリエイションを表現するより、私は人のためにデザインをするデザイナーが好きなんだと思います。人ありきの方が私には向いているっていうのが、そのブランドでニットを担当していたことでわかったんです。自分の立ち位置が、意外と早い段階で、あまり苦しまずにわかったのは良かったと思っています。いつまでもその夢を追っていたら、大変だったと思うから。

寺田:ご自身のファッションの「好き」というところでいくと、アヴァンギャルドなブランドの服に惹かれる時期が長かったんですか?

渡部:結婚して葉山に引っ越すまではずっとそうでしたね。葉山に行って、そういう服があまりにもその土地に合わなくて、洋服迷子になっちゃったんです。今まで持っていた服が、全部、着れなくなってしまって。そこで、その土地に合うような洋服を、最初は主人に選んでもらったんです。
そこからなんとなく周りの人が着ている洋服を見ながら、街に合うようにやっていきました。そうしたら、もともと自分のなかにあったコンサバだったりとか、ベーシックなものが本当は好きっていう気持ちがどんどん出てきましたね。
アヴァンギャルドもベーシックも、どちらも本当は自分の中にあったんだけど、若いときはアヴァンギャルドが勝っていたんだと思います。当時は、「ベーシックなんて」って気持ちが大きかった。でも、本当はベーシックもすごい好きだった。そのことに、葉山の生活で気づきました。

専門学校での教える仕事を経て

寺田:イトキンには、何年間勤められていたんですか?

渡部:8〜9年間、勤めていましたね。長いことニットをやって、ブランドもいくつか変わっていきました。
そんなとき、学校の同級生がアパレルを辞めて、学校に戻って先生をやっていたんです。その子から「まみちゃん、先生やってみない?」と誘われて。「えー、先生?」なんて思いながらも、ステップアップのために転職のタイミングなのかなっていう気持ちもあった時期で。
先生は選択肢にはなかったのですが、それでも「試しに一回授業やってみない?」って誘ってくれて。大きい講堂で行われる特別授業で、ニットの話をして欲しいと頼まれました。
試しにと思って、その特別授業を担当してみたらとても楽しかったんです。自分が学生だったときの、4年間の楽しかった気持ちを思い出して。もう一回、若い子たちと触れ合ったら、学生の頃に純粋にファッションが好きだった気持ちに戻れるかもしれないと思ったんです。そこで、一度先生をやってみようと決心しました。

寺田:先生として働かれていたのは母校だったんですか?

渡部:そうですね。モード学園のファッションデザイン学科で教えていました。2年生を受け持って、昼間3クラス、夜間2クラスの担任をしていました。
やってみると、とても楽しかったです。やっぱり学生たちが可愛い。問題を起こすこともあったけれど、とても素直でした。年に一回行われるファッションショーも、自分たちがやっていたことを思い出して、すごく楽しかった。こんなに楽しいし、先生をこのままずっとやろうかなと思うようになっていました。

そんな頃に、結婚の話があったんです。
彼は葉山にいたので、「葉山から新宿まで通えるのかな?」と、何度か葉山から新宿に行ってみたんです。行けないことはないけど、葉山から新宿までは片道2時間かかる。朝7時には学校にいないといけないので、家を出るのは5時。夜は9時まで学校にいるので、帰宅できるのは11時。「うーん、これは無理かも」となりました。結婚してもほとんど家にいられないのは、生活という部分が疎かになってしまうので、仕事は続けたかったのですが、思い切って退職することにしたんです。

作家活動のスタート

渡部:そこから、人生で初めて、何もない状況になったんですよね。先生をやってすごく疲れていたから、しばらく休もうと思いました。
母方の祖母からもらった着物がたくさんあったから、それを着たいなと思って着付け教室に通ったりもしました。趣味をやってみる時間ができて、ゆったり過ごしていましたね。海に行ったりとかして。
でも、そろそろ何かしないとなって思ってきて。

横浜にあるアパレル企業だったら通えるかなと思ったんですけど、それも現実的にはなかなか難しそうで。アパレルは夜が遅いし、主人が家で仕事をしているなかで自分が働きに行って、ご飯のこととか考えたりすると、自分の気持ちがいつもハラハラしちゃうなって。そう考えると、もう働きに行くのは違うのかもしれないとなりました。かといって、自分で何かを始める勇気もなかった。

そんなことを考えていたとき、イトキン時代の同期で、私の編み物の先生だったりっちゃんが声をかけてくれたんです。
りっちゃんは仕事をしながら作家活動をしていて、原宿にあるお店に作品を卸していました。「そのお店で作家さんを探しているから、まみちゃんも作ってみない?」って言ってくれたんです。
せっかく声をかけてもらったし、何か作ってみようと思って、できることは何かなって考えました。
私に作れるものとなったら、手編みしかない。それで、手編みのバッグを作ろうとなったんですよね。そこから作家としての活動がはじまって、今に至る感じです。

寺田:ご自身で何かを作って、販売するスタートの作品は、手編みのバッグだったんですね。

渡部:活動を始めたとき、主人がウェブサイトをすぐに完成させてくれたんです。ウェブがあれば、オンライン販売もできるし、そこから色々と動いていきましたね。
はじめの頃は、友達や知り合いがオーダーをしてくれました。それから、近所の美容室に作品を置かせていただいたりして。あとは、地元の松本のお店に、知り合いのツテで置いてもらえるようになったり。

そんなことが続くなか、スタートして2年くらいの頃に、鎌倉に「ロングトラックフーズ」という岡尾美代子さんのお店(デリカ)ができたんです。そのお店のオンラインショップなどを主人が全部担当していて、岡尾さんとは仲良くさせていただいていました。そこで、ブラックベティーというティーポッドに被せるカバー(=ティーコゼ)を作りたいというお話が、岡尾さんからありました。そのイメージがニット帽のような形だったんです。それで「うちの妻が編めますよ」と主人が繋いでくれました。
ただ、岡尾さんがイメージしていたものは、当時の私が編んでいたものとは違っていて。私がメインで使っていたのはカギ針で、岡尾さんのイメージは棒針で編むものだったんです。「棒針かぁ。しばらくやってないな」と悩みはしたのですが、せっかくいただいたお話だからやってみようと思って。久しぶりに棒針を持って作ったら、それを採用していただけたんです。それはコラボ商品として、今もずっとオンラインで販売されています。

ティーコゼを編むようになったある日、友達から「まみちゃんニット帽編んでるの?」って聞かれたんです。確かに、そのティーコゼってニット帽に穴が空いていて、耳が出る感じなんですよね。そんなものだったから、友達には「ニット帽みたいに被れるね」って言われて。そこで私も初めて、確かにニット帽と同じじゃんって、気づいたんです。それで、友達がたまたまニット帽をオーダーしてくれて。そこからニット帽を編み始めるようになりました。

ニット帽を編んでみたら、それがカギ針で編むバッグより楽しかったんですよね。
バッグって、ターゲットが大人の女性に限られてしまうのですが、ニット帽なら、赤ちゃんからおじいちゃんおばあちゃんまで、男性も女性も全員被れるでしょう?それに、編んですぐに完成できるんです。完成が見えるのが早い。私は気が短いので、3〜4時間ですぐに完成しないと嫌なんですよね。
ニットのバッグって、何年も使えるものにしようとするとすごく時間がかかるんです。私が作っていたバッグは、内側はガッチリ帆布で作って、そこの上にニットを被せるだけにしていました。だから、ニットを編むのは何時間かでできるのに、内側を作るのに丸一日必要で。ミシンで縫って、持ち手もレザーを編んだりして、すごいこだわって作っていて。かといって、値段もすごく上げるわけにもいかない。普通のセレクトショップで売っているくらいの金額で買って欲しかったから。

ニット帽を編んでいくと、これは自分の満足感が早く得られるなって。それでニット帽ばっかり編むようになって、いつの頃からかニット帽だけになっちゃったんです。

寺田:作品を作り続けることで生まれた人とのつながりのなかで、自分がこれだと思えるものが見つかっていったんですね。

編むことの違い

渡部:バッグの製作は、つい一年くらい前に辞めたんです。サイトにはいつもあって、オーダーがたまに入れば作っていたんですけど、だんだんと手がもたなくなってしまって。バッグに使う糸ってすごく硬くて、編む度に全部の指が痛くなって、腱鞘炎になっちゃうんですよね。長い目で見たら、手を痛めてしまうなって思ったんです。

寺田:同じ編む作業でも、身体にかかる負荷が違うんですか?

渡部:柔らかい糸は平気なんですけど、硬い糸で編むと手にかかる負担が全然違うんです。丈夫なバッグにしようと思うと、凧糸とか、夏糸の麻とか、ラフィア(※ラフィアヤシの葉を乾燥させた繊維)みたいな硬い糸で編むんですよね。そういう糸は、とにかく全部力でもっていって編む感じで。そうすると腕をやられちゃうんです。編むときに支えている方も負担がかかるし、両腕ともどこが痛いかわからないくらい。三目くらい編んでは、手を広げて、ああ疲れたってやって、なんとか編んでる感じだったんですよ。

寺田:同じ編みものといっても、硬い糸で編むのは、竹とかの素材を編むのに近い感じなんでしょうか?力でグッグッと編み締めていくような?

渡部:確かに、そちらに近いと思います。私は、編み目がきつい方が好きだから、よりそういう風になっちゃいますね。それで結局、もうこれは辞めた方が良いなって思ったんです。長く続けるためにスパッと辞めようと。

寺田:同じ編み物に見えても、渡部さんが作るバッグとニット帽にはそんな違いがあったんですね。

先ほどのティーコゼのお話で、ちょっとわからないことがあったのですが、お聞きしても良いですか?カギ針で編むことと、棒針で編むことは、どのように違うのでしょうか?

渡部:棒だと2本を使って、入れて、引っ掛けてで一目ができるんですよ。カギ針編みは、カギ針一本で一目を作るのに2回編むんです。カギ針だと編み目が2倍になる。だから、カギ針の方が分厚いものができるんです。厚くてしっかりするから、バッグなどに向いていますね。
棒針の方は一重なので、柔らかく薄くできるんです。薄くて伸びるから、身につけるものに向いている。
そんな感じで編み方を変えるんですよね。面白いでしょう?

さっきのポッドにかけるカバーは、岡尾さんがイメージで持ってこられた写真がアランニット(※アラン諸島が発祥と言われるニット。漁師を寒さなどから守るために編まれた)だったんですよね。アランニットは、基本、棒編みなんです。

寺田:なるほど。作品の用途や目的に合わせて、編み方を変えるんですね。

イベントでのつながり

寺田:そこからはご自身の手で編んでいくものは、ほぼニット帽になっていったんですね。

渡部:そうですね。そこからは家でニット帽を編んで、オンラインで販売したり、お店に卸したりとかしていました。
そんななか、2016年の5月に「ko’da-style」のこうださん(※葉山で活動する帆布バッグの作り手)が誘ってくださって、初めて外でイベントをやったんです。そのイベントがすごく楽しくて、その後、こうださんのあとをちょこちょこ着いていくようになりました。いろんなところで一緒にイベントをさせてもらって、人と接しながら、自分で販売することを始めていきましたね。

それまでずっと家にこもって編んでいて、しかも、人とおしゃべりするのは苦手なタイプだったんです。外でイベントをするなんてダメだと思っていたんだけど、やってみたら意外とお客様とお話できて、これはできるかもしれないと思いました。スイッチがうまく切り替わるみたいなんです。うちの母がよくしゃべるから、同じ血が通っているんだなと思いましたね(笑)。

寺田:外に出てイベントをするのは、自分で出ていってみようと思い立ったのではなくて、こうださんに声をかけていただいたのがきっかけだったんですね。それで、やってみたらすごく楽しかったと。

渡部:イベントではお客様と直接やりとりできるし、知らない方に知ってもらえる。それがやっぱり良かったなって。
初めは鎌倉と葉山とで、よくイベントをしていました。毎年4月から5月にかけて、葉山では葉山芸術祭が開催されるんです。葉山にはアーティストの方がたくさん住んでいるので、その期間、自分の家を開放してギャラリーにして、みなさんに見に来てもらうんですよね。それで友達が素敵なお家に住んでいたから、一緒に何かやろうよってなって、そこで「すこし高台ショップ」というお店をやってみました。友達はイラストレーターの奥さんと、植物好きのご主人が植物を、私は自分の作ったものを置いて。そういう期間限定のお店をやっていました。その時期だけ、そういうイベントだけでも人が来てくれると嬉しかったですね。毎年来てくれる方もいましたし。

東京で仕事をしていたら、会社の人しか知り合いがいないでしょう?
葉山に行ったら、主人とちょっとの友達しかいないから、輪が広がらなかったんですよね。それがイベントをすると、そこで友達になれたりとか、知り合いができたりする。人とのつながりが広がっていくのが楽しかったんです。

♯4に続きます

心温まるサポート、もしいただけたらイベントでご来場者に配布する印刷物の充実や、出展者に美味しいものを差し入れしたいと思います。