『アイドライゼーション・ポイント』に出品した文章について

アイドル批評誌『かいわい』は、現代美術展『アイドライゼーション・ポイント』にふたつの文章をおさめたコピー本を出品しています。
このふたつの文章と展示の内容は、直接には関係していません。ある意味では絵画作品や映像作品、インスタレーションと横並びに「アイドルについて思考している」ものとして扱われることを望んでいます。

ところで「アイドルについて思考」するとはどういうことでしょうか。まず「アイドル」とは何なのか?と自問してみるとします......しかし、こうした地点から考え出そうと思うと、とてもしんどそうです。(このしんどい作業をとんでもなく丁寧に解きほぐして、また編み上げたのが香月孝史『「アイドル」の読み方』です)ひとまずここでは、ひと口に「アイドル」といっても、その言葉の意味するところには大きな幅があり、またアイドルへの関心の度合いによって、その幅の見える範囲も変わってくるということを押さえておきましょう。
こうして理解を大体でとどめておくのは、お互いの知識や経験の幅を厳密にすり合わせようとすることは際限のない行為だからです。例えばある国について誰かと話そうとしたとき旅行者として訪れたのか、そこで生まれ育ったのか、仕事の都合で移り住んだのか、また国といってもどの地方なのか、どの街なのか......と厳密さを求めだすとキリがありません。ですから、我々がまず分かっておくべきなのは「アイドル」という文化圏は広く深く、そこに関係してる者でも目が届かないことがあるということです。

ここで最初の問いかけに戻るなら、「アイドルについて思考する」とは、こうした「目が届かない」ことを前提に含んでいます。仮に隣り合う距離だったとしても何も知らないこともあれば、「届かな」さを埋めようと広い視点を持とうとすることもある。もちろんそれはアイドルに限らず、世間一般あらゆることに言える普通のことでしかありません。
ですが、「アイドル」はそうした"普通"を通り越して、なぜかひとつのステレオタイプな「アイドル」のイメージとして、分かりきったものとして固まってしまいがちです。だからこそ「思考」には、そうしたステレオタイプを突き崩す、深く広くある"多様"なものが、自ずから求められることになるのです。
少し急ぎ足に結論めいたものを仮に出しておくなら、「アイドルについて思考する」ことは"多様性"をごく"普通"のものとしてあらためて提示する行いだと言えます。


前置きが長くなりました。では『かいわい』の文章が、どのようにその普通であるような多様性に迫っている思考なのかを簡単に紹介していきます。


巻頭に収録されている古川智彬「アイドルはアートである」は、タイトルのとおり「アイドル」と「アート」が同じものとして並べられる、という見立てがなされている文章です。
こういうと、「アイドルはアートのように優れたものだ」と言っているかのように考えられてしまうことがしばしばあります。ですが、この文章の狙いは「A=B」である「アイドルはアートである」を「B=A」の形でも捉え直すこと、つまり「アートはアイドルである」と、逆さまに眺めてみる企みがなされています。こうすることで、アイドルとアートが社会において上下関係にあるような価値観のステレオタイプを崩すことができます。
その分析の実際をこそ読んでいただきたい(というか、あらゆる表現もしくはスポーツの試合などと同様、こうした文章もまた、もっとも美味しいところは結果に至る過程にこそあります)のですが、ゆっくり追っていくと、「アイドル」と「アート」の枠組みが溶けてしまって、どちらがどちらともはっきり言えない部分が目を背けようもないほどはっきり提示されます。少なくとも、社会的に承認されて何となく偉そうにみえる「アート」が、「アイドル」とまったく無縁な世界でもないらしいぞということが分かっていきます。


ふたつめは、古村雪「アイドルは生き物である」です。この論考の論点は多岐にわたります。暴力、公共性、フェミニズム、ポリコレ、資本主義、ケア、参加型アート……数え上げ始めたらキリがありません。読み手は、自分の関心の赴くままに、そこに綴られた断片的な思考を行ったり来たりすることができます。ただし、第1節でまとめられた近年のライブアイドル文化についての整理だけは最初に読んでおくといいでしょう。
ともあれ、要約することが難しいうえにそもそも要約することがあまり意味をなさないような文章です。詳しい内容の紹介は諦めて、これを読むことがどのように「アイドルについて思考する」ことにつながるのか、その道筋の一つを示してみたいと思います。
「アイドルは生き物である」の論述のなかには、様々な固有名詞だけでなく、アイドルにまつわる具体的なシチュエーションが時おり挿入されています。例えば、特定の「アイドル現場」に「通う」ようになると、いつも来ている他のオタクと顔を合わせる機会が増えます。現場終わりに飲みに行ったりして、親しくなることがあるかもしれません。と同時に、当然気に入らない人間も出てくるでしょう。衝突が生まれるかもしれません。でも、その衝突のエスカレーションはある程度の範囲に収まります。なぜなら、やりすぎるとアイドルが悲しむからです。
アイドル現場では、直接言葉を交わしたことがなかったとしても、定期的に同じ空間を共有し、なんとなく「あの人か」と認識し合っていることも多い人間たちが、そこにある摩擦を認識しつつも、決定的な衝突にまでは至らないような形でほどほどに共存しています。そこにあるのはお行儀のよいピュアな利他性でも、身も蓋もないむき出しの利己性でもありません。古村は、アイドル現場を通じてこうした「公共性」について思考しています。そして翻って我が身を振り返ってみれば、アイドル現場の人間関係のリアリティに私たちが思考を巡らせているとき、実はこうした公共性について思考することができていたのではないでしょうか。仲のいいオタクやいけ好かないオタク、あるいはSNS上でしか見かけないオタク、色んなオタクたちのなかで自分はいかにして振る舞うべきなのか、何ができるのかを考えるというのは何ともささやかな営みです。それでもそこには確かに、公共性についての思考や実践が存在しています。
ここで起きているのは、自分がアイドルに関連して考えていたことの新たな意味を、古村の論考に促されて後から見出すということです。アイドルにまつわる思考が、別の文脈に接続可能であるということではなく、そもそもその思考が例えば公共性についての思考そのものでもあったということに、後から気が付くのです。このようにして、すでに存在していた「アイドルについての思考」を後から再発明するような力を、古村の論考は持っています。もちろん、それ自体が「アイドル現場」であるとされている「アイドライゼーション・ポイント」という展覧会についても、さらなる思考が促されることになるでしょう。そうしてあなたを襲った思考は、再びあざみ野へと足を運ばせるに違いありません。



アイドライゼーション表紙

《目次》
・古村雪「アイドルは生き物である」
・古川智彬「アイドルはアートである」

《入手方法》
アイドルのCD1枚と交換
※シングル/アルバム、開封/未開封は不問
※CDがない方は会場のQRコードからテキストのデータをダウンロードできます。

【文責】
古川・結城

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