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読書日記:「凍りのくじら」辻村深月

友人の開催する"自分が好きな本のおすすめ会"なるものに参加した時に、この本を拙い語彙力と共に紹介したところ参加者の皆さんがぽかーんとした顔をしていたことを覚えている。
伝えたいことが頭の中にはあるのにそのイメージだけが先走り、その朧げな背中を追いかけるように言葉を紡ぐもPCの画面は残酷なまでに参加者の皆の理解できない顔を映し続けている。「この本の良さが伝わらない…」と心底自分にがっかりしてしまった。

藤子・F・不二雄を「先生」と呼び、その作品を愛する父が失踪して5年。高校生の理帆子は、夏の図書館で「写真を撮らせてほしい」と言う1人の青年に出会う。戸惑いつつも、他とは違う内面を見せていく理帆子。そして同じ頃に始まった不思議な警告。皆が愛する素敵な“道具”が私たちを照らすとき――。


主人公の理帆子が敬愛する、ドラえもんの作者である藤子・F・不二雄先生が、SF=『すこし・ふしぎ』と称していたことにちなんで理帆子は自分も含めて周りの人の特徴を「少し・ナントカ」と名付ける。
そんな理帆子は自分自身を「少し・不在」。どこにいても誰といても理帆子は少し不在で、場の当事者になることはなく、どんな場所も自分の居場所とは思えない。


講談社文庫のあとがきでは
「理帆子は決してすぐさま読者の共感を得るタイプではない」
と記されている。

この本を初めて手に取ったきっかけはあまり覚えていないけれど
辻村深月さんの世界にのめり込む最初の一冊になったことははっきりと覚えている。

それは簡単には共感を得られまいとされる主人公に、あっという間に共感を覚えたから。人生や周りの人間に対する彼女の諦念や傲慢さに、目を背けたいほどの身に覚えがあったから。

自分を高尚な人間だと思い込み、それとは違う周囲の人間を下に見て、他人と違う高尚な自分を確認して安心する。自分は特別な存在なんだ、と。

自分だけが特別で、自分が感じている生きづらさや苦しみは他の人は感じ得ないし理解されない。

少しばかり想像力があれば、まるきり同じではなくとも自分が抱えている苦しみが他の人が抱えているそれと大差ないもので、他の人が抱えているであろう苦しみも理解できたろうに。


私は、特別になりたかった平凡者だった。

理帆子は最後に、自分が生きる世界を自分のものとして、現実感を伴った形で生きられるようになった。彼女を照らした光をきっかけに、でもそのあとは、彼女自身の意志と力で。

理帆子が救われたように、僕も救われた気がした。


今でこそ他者を見下すようなことはないけれど、かつての自分を内包しながら今自分が生きている現実の世界で必要とされ、誰かを必要とするこの世界をもう少し諦めなくてもいいのかもしれない。

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