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検察庁法改正案で追求されるべき問題点

 ここ1週間、ネットやニュースなどでは「検察庁法改正法案」についての内容でひっきりなしだ。その始まりは、5月9日頃から始まった「#検察庁法改正案に抗議します」というハッシュタグである。数日間で一瞬にして数百万回という驚異の量のリツイートを生み出し、その中にきゃりーぱみゅぱみゅやなどの著名人の名前もいくつか見ることができた。この様な「民意の爆発」に答える様に、野党は法案改正反対を掲げ徹底抗戦をし、15日時点では法案の内閣委員会での採決は見送られる見通しとなった。ツイッターから始まった「抗議」が見事国会に反映され、国を動かしたのだ。ただ、それと同時に、ツイッターを見る限り国民の「検察庁法改正案」についての知識や認識、問題意識などがあまりにも不明確であり、時には不正確であると思ったところが多々あったのが自分としては印象的である。

 今回の「検察庁法改正法案」への反対の根源的な原因は国民の新型コロナウイルス蔓延への不安と恐怖、それと長年蓄積してきた国民の安倍政権への不満と失望だ。今までの安倍長期政権は様々なスキャンダルや問題を半ば強引に乗り越えてきた、そんな中でも安倍政権への支持率には大きな変化はでず、一定状態を保っていた。今回の問題の始まりは、1月末に行われた黒川検事長の任期延長を閣議決定した。その時点では、国民の批判や不満は限定的であった。その時の自分の思いを正直に言えば「日本の国民は民主主義を捨てたな」と言うぐらいの衝撃でした。この様に、安倍政権によるご都合主義的な法解釈により、「独立性」を保つべき検察人事にいとも簡単に干渉する安倍政権の姿勢は、納得できない行動であった。それから4月経った今日、まさかここまでの批判、反対や不満が安倍政権にぶつけられるとは正直思いもしなかった。なぜなら、この法案改正が直接的に国民怒りの矛先である「黒川人事に影響しないからだ」

ネットで繰り広げられた「検察庁法改正案」に対しての反対論の多くはあまりにも問題意識がかけ離れていた。いくつかの誤解や間違った認識を正すが、黒川検事長の任期延長は法案関係なく、閣議決定で決まっている。その為、法案の成立または不成立は特に関係がない。それ以外にも、議会では毎日の様に様々な法案が審議され、それはコロナウイルス蔓延下の緊急事態でも同じである。その為、「検察庁法改正案」の審議を「火事場泥棒」として批判するのは憶測の域を出ない。この法案による事後正当化の効果も限定的であり、この改正法案がもし可決されたとしても施行される2022年には黒川検事長と安倍総理は両方現職ではない。その他に、この法案改正案で規定されている内閣の人事への干渉はあくまで「任期延長」だけであり、内閣の人事意向を直接反映できるものではない。これらを踏まえて、今回の「検察庁法改正案」に向けるべき正しい問題意識はやはり、内閣の説明の欠如、と強引なご都合主義的法解釈ではないのだろうか?これほどまでに誤解を生じてしまった一因としてはやはり内閣の説明が足りなかったからではないかと思う。法案可決を急ぐのではなく、国民が理解した上で、この様な立法プロセスは進めるべきである。法解釈については、その社会背景などに照らし合わせて柔軟に行われるべきであるが今回の法解釈の変更についての適切性と必要性を感じない。国民の目には安倍政権が様々なスキャンダルや問題を回避する為に、親政権的な検事長の任期延長を決定したのだと映る。仮にもしそうでなければ、政府は説明責任を果たし、同じく国民の理解を得る必要がある、然もなくば速やかに陳謝し、撤回するべきだ。

 今回の問題で、一番目立ったのはやはり芸能人や著名人によるTwitterでの政治意見の表明ではないだろうか。著名人が陣頭に立って政治的意見表明をするのは民主主義的な側面から言えば素晴らしいことだ。だが、自分が「反対」している問題についての本質と事実についての間違った認識、もっと最悪なケースでは、ただ単純に「皆がやってるからやる」と感情的な同調による批判は危険だ。今回の問題がここまで広がったもう一つの原因としては、様々な著名芸能人が発言したこともある。日本では米国などと違い、芸能人や著名人が政治的意見を表明することは非常にまれだ。その為、今回はそれによりこの件が過度な注目を浴びたことは否めない。芸能人や著名人が政治的発言を行う前に、自分の影響力を認知した上で、責任持った正しい、建設的な意見を述べるべきではないのでしょうか?別にそれらのインフルエンサーが政治発言をするなと言っているのではない、ただ自分の発言に対して明確な理由付けや、事実についての「ファクト・チェック」などを行う事が重要だと言っている。そして、もし発言後に自分へのコメントや他者の発言を見て、自分の発言の間違いなどに気づき意見を変えたなら、それも説明すべきだ。要するに、インフルエンサーとしての「責任」を持つ必要があるのだ。それほど明確な意見や思いがないまま、インフルエンサー達による誤認された事実に基づく拡散された「感情的同調」は、間違った情報を広めるだけではなく、それは一般国民による非建設的な感情的同調を一層強める。その様な、感情に任せた政治的意思表示が行き着く先はポピュリズムである。その様な非建設的感情論の広がりは、国の政治を良い方向に導くどころか、その批判はその愚かさ故に正当性を失い、その目的すら達成できなくなってしまう。

 国民や野党の問題意識も、正しい方向に向くべきである。仮に法案改正が注視されても、「黒川人事」は変わらない。訴えるべき対象は、法案ではなく、安倍政権の行政運営であり、最終目的は検察庁法改正案の撤廃ではない。反対対象は「ハードウェア」としての法案ではなく、「ソフトウェア」としての安倍政権である。だが、今の世論や議会での野党の行動を見る限り、「改正法案」に問題意識が向いている、だが検察庁法改正案が問題解決にもたらす効果は限定的だ。逆にこの様な与野党間の論争が繰り広げられ、この様な緊急事態下で、大臣、国会議員や公務員などの時間や労力をコロナ対策以外に費やしてしまってる。検察庁法改正案についての議論以前に、安倍政権のこれまでの国家運営に対しての態度や今回の黒川人事についての強引な法解釈についての議論を進めるべきである。そもそも、今回の法案は安倍政権の黒川人事がなければ、さほど問題ではなっかったでしょう。

 最後に、検察の「独立性」についての様々な意見についての考えを述べるが、人々が言う「独立性」とは一体なんなのだろう?そもそも、検察とは「独立性」を保っていいのだろうか。議院内閣制的性質上、立法権を行使する国会議員は選挙によって正当性を獲得し、議会の多数派が行政権を行使する内閣府を形成する。それとは別に、各国家機関で働く官僚や一般公務員は決して国民の選挙などで選ばれている訳ではない、だがその人事を最終的には内閣府が握ることにより、正当性を獲得している。そうすると、検察の様な比較的特殊な行政機関に、完全な「独立性」を与えることはそれこそ民主主義制度に反することなのではないのか?むしろ、行政権を司る内閣がその人事決定権を「緩くコントロール」することは当たり前なのではないのか?現在の世論では、必要以上に内閣の検察への人事干渉に対して否定的だが、この様な点も考慮した上で考えるべきだと自分は思う。安倍政権を見る限り、その人事への強引な干渉は目に余る点が多々ある、だからと言って「完全な独立性」を追求するのはまた妥当ではない考え方である。

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