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ハリウッド物語 ~ ハリウッドの始まりと名前の由来

1883年、カンザス州の靴職人から不動産業に転じて財をなしていた当時55歳のハーヴィ・ウィルコックス(Harvey Wilcox)と、2番目の妻である若干25歳のディードラ・ウィルコックス(Diedra Wilcox)が、ロサンゼルス行きの列車に乗った。生まれたばかりの息子が死んだこともあり、新天地で新しい生活をしようと考えたという。その旅の途中でディードラ夫人は別の搭乗者だった女性と仲良くなり、イリノイ州かオハイオ州あたりにあった保養地(もしくは保養施設の名)についての話を聞かされる。その場所の名は”ハリウッド”。この地名が彼女の心に残った。

1890年頃とされる現在のウィルコックス・ストリートから北を望む風景

ハーヴィとディードラは、ロサンゼルスに到着すると馬車に乗って購入可能な土地を物色し始める。やがて、ロサンゼルスの北西にある、景観が美しかった160エーカー(0.65平米ほど)の土地に一目ぼれして2万4000ドルで購入。当時はオレンジやイチジク畑しかない農園が広がっているだけだったが、ここを住宅地として造成して、切り売りしようという計画を立てた。ロサンゼルスを中心にした土地投資ブームが起きて高騰する1888年の直前の話であり、不動産業者らしい良い決断だったと言える。ディードラは、このホリー(Holly/モチノキやヒイラギの仲間)が自生しない乾燥地した農園に、”ハリウッド”と名付けることをすでに決めていた。

ハーヴィ・ウィルコックスがデザインした、ハリウッドの宅地案内のパンフレット (1887年)

そうして1,500人規模の町としての開発計画書を提出し、1888年7月には最終的に62平米にも及ぶ地域がハリウッドという地名で正式に認可される。当時の法律に基づき、ウィルコックス夫妻は徴税から警察権までの自治権を得ることになった。スペインから割譲して数十年しか経ていないアメリカ南西部では、こうした開拓団が自治できる町が幾つも存在しており、シェリフを雇用したり、消防団を編成するのも地主の権利だった。

ハーヴィは、強い法律によって人間の行動は制御されると考える、いわゆるプロビジョニストだったため、ハリウッドを禁酒にして穏やかな人たちで溢れる郊外の町に育てるという理想を持っていたと言われている。このハリウッドの東端であるゴウワー・ストリートから道を挟んだ場所には、フランス系移民が経営する一軒の居酒屋があったが、ハーヴィの禁酒主義がそれを廃業に追い込んでしまい、後にシコリを残すことになったようだ。

幸先は悪くない新天地での船出だったにも関わらず、それから3年後の1891年にハーヴィは、28歳のディードラと開発途中に過ぎなかったハリウッドを残して死去。しかしディードラは夫の死にめげず、そのさらに3年後となる1894年にはイリノイ州知事の子息という、フィロ・J・べヴァリッジ(Philo J. Beveridge)という人物と再婚し、大きな区画を整備して宅地計画を進めていった。

宅地造成されていくサンセット大通り周辺(1904年)

ハリウッドが”ハリウッド”となる大きな機転となったのは、廃業した居酒屋のオーナーが1902年に死去し、残された遺族が跡地を賃貸に出したことだ。1911年に見つかった借家人は、イギリス生まれのデイヴィッド・ホースリー(David Horsley)とウィリアム(William)の兄弟。彼らは1907年にニュージャージー州で映画会社を設立していたが、アメリカ東部ではエジソン社が主導する独占的な撮影規制が激しさを増し、多くの映画関係者はそれを逃れるようにして中部から南部へと進出しており、「一年のうち350日は晴れの日」と呼ばれた南カリフォルニアの天候を武器にして再起を図ろうとしていた。

やがてホースリー兄弟は、同じニュージャージーで映画監督として奮闘していたアル・クリスティ(Al Christie)と意気投合し、彼の映画スタジオの西海岸支部として設立されたのが「ハリウッド初の映画スタジオ」となったNestor Studioである。瞬く間に居酒屋の跡地周辺には幾つもの映画スタジオが建設され、そうした複数の新興スタジオと共に、Nestor Studioは翌年の1912年にはニューヨークに新設されたUniversal Film Manufacturing Company(Universal Films)により買収される。その名のとおり、この会社は現在にまで名を残すハリウッド企業、Universal Studiosに繋がっている。

Universal FilmsによりNestor Studiosが買収された1912年頃の写真。この頃は、Nestorの名称のほうがブランド力があったようだ

屋外での映画撮影が魅力で海や山にも近い南カリフォルニアであるため、Universal Studiosはより大きな土地を求めてハリウッド北部の丘のほうへと移転していく。そして、ゴウワー・ストリートの居酒屋跡地には、チャーリー・チャップリンを見い出したL-KO Motion Picture Companyや、後にUniversal Studiosが再編された際の共同設立者となったジュリウス・スターン(Julius Stern)及びエイブ(Abe)兄弟の、Stern Brothers Century Film Companyなどが次々と入居した。多くは数作を撮影した時点で事業に失敗し、幾つかの会社はより良い場所を探して転居していった。1916年、居酒屋だった区画はアル・クリスティが購入するに至った。

こうして、この実質的にはハリウッドの辺境にあった、居酒屋跡地から発展したゴウワー・ストリートのあたりには、1920年代の終わりまでには200を超える映画スタジオが設立しては、統合されたり消えて行ったりしたらしい。頻繁に職探しの若者たちが溜まり場としたり、成功の夢を見る野心家たちはなけなしの金で小さなスタジオを起業しては失敗したりしたため、やがては”ポバティ・ロウ”(貧民街)と呼ばれるようになる。

映画界の下層の関係者たちが拠点にしていたとは言え、1940年代にはフィルム・ノワールの作品群を、1950年代には数々のSF映画を生み出すなど、映画産業のトレンドを引っ張るような、低予算B級映画の聖地として長く賑わった。Nestor Studiosのホースリー兄弟は、スタジオの売却資金を手に新しいビジネスを展開したが、借金を背負ったまま映画業界を去り、アル・クリスティも大恐慌時代に負債を追ってニューヨークで再起を図る。1941年に50年近いキャリアの末に監督業から引退するまで500本近い映画を撮影したが、晩年は兄のチャーリー(Charlie Christie)と共にハリウッド近隣のサンタモニカでマネージメント会社を興し、ボブ・ホープやジェームス・スチュワートなどを擁して成功を収めた。

なお、ハリウッドは数年のうちに人口が増えすぎたために上下水道や治安など様々な問題が山積みとなっており、1914年8月のディードラ・ウィルコックス夫人の死を機に、遺族はその自治権を放棄し、ハリウッドはロサンゼルス市の一部となった。”ウィルコックス”の名は、今もハリウッドにある通りの名前の1つとして名を残している。

静かな理想郷を作ろうと、ホリーが自生しない土地に”ハリウッド(ヒイラギの森)”と命名したディードラ夫人は、馬車や自動車が駆け回り、建設の音や砂埃で溢れ、夢を追って怪しい映画人たちが屯するようにったハリウッドが騒がしく成長していく姿を、その晩年にはどのような思いで見ていたのだろうか?

ウィルコックス・ストリートからハリウッド大通り (1928年)を東に望む。大恐慌の直前には、ロサンゼルスを中心部を凌ぐほど都会化していたという。Warner Hollywood Theaterがこの年にオープンする。
ウィルコックス・ストリート x ハリウッド大通り (1946年)
ウィルコックス・ストリート x ハリウッド大通り (1957年)。”ウォーク オブ フェイム”は、近くのサンセットxゴウワーから1960年に始まった
ウィルコックス・ストリート x ハリウッド大通り (1963年)。Warner Hollywood Theaterは、最初にシネマラ用大型スクリーンを設置した映画館の1つとなった。
ウィルコックス・ストリート x ハリウッド大通り (1971年)。この頃にWarner Hollywood TheaterはPacific Theaterと名称を変え、1995年に正式に閉鎖。
ウィルコックス・ストリート x ハリウッド大通り (1982年)
ウィルコックス・ストリート x ハリウッド大通り (1992年)。LA暴動の最中に撮影されたもの。
最近の同じ構図のストリートビュー (Google Streetview 2022)

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