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題の無い少女 / 短編小説

 

 他人の裸体を見たのは久しぶりだった。

 それ自体に特別な感慨はなく、ただ驚きだったのは、目にした裸体があまりに幼かったこと。

 齢が十にも満たないような、少女の肉体だったこと。

 

 その頃、私は売れない絵描きだった。

 名はイヲリタ。しかしもう、私の名を呼ぶ者はいなかった。名前の意義は形骸化していた。

 抽象的な絵ばかり描いていたから家に籠りがちだった。外に出る時分は数日分のパンを買いに出る程度で、知り合いに会いに行ったことも、ここ数年は記憶にない。

 変化があったのは、ある冬の帰り。玄関先でのこと。

 見覚えのない少女が倒れていた。

 初めは死体と思った。

 それほど、外気に転がる肌は真白く映った。

 だがよく見れば、手足の指先が赤い。這いつくばってきたのだろうか。すなわちまだ、生きている。

 新手の物乞いか。私は一定の警戒心を抱えた。

 けれどそれは、良心を押し出すほどではなかった。

 私は手荷物を下ろし、羽織っていた厚手のコートで少女を包んだ。

 ――彼女の青ざめた薄い唇が、かすかに動いた。

 もはや虫の息、しかし声を上げようとしている。生に縋る為の温もりを留めている。

 その後は暖炉の傍、沸かした湯水、それでまともな体温と呼吸まで戻ったならばベッドに寝かせ、あるだけの毛布を重ねてやり、そうして覚醒も近い頃合いになった辺りで少女が、

「……食べもの、なにか」

 と呟いたので、私は買ってきたばかりのパンを一つ持ち出した。

 そのままでは固くて食べ切れないだろうかと思ったので、ミルクに浸して柔らかくし、匙で欠片に崩しながら食べさせた。

 明くる日には、少女は見違えるほど目を爛々と輝かせていた。

 寝床を貸した為に床板で寝ていた私は、少女の快活な声によって叩き起こされた。

「お腹、減った。なにかないの」

「やあお前、もういいのかい」

「いいから、お腹減った」

 起き抜けにまた随分な横着。この年頃の子とはこういうものか。

 自らがまだ裸であることもいとわず空腹を訴える。

 子供とはそういうものか、私は妙に納得し、パンとミルクを差し出して少女の無遠慮な願いに従った。

 酷く空腹だったらしい。昨晩に買った数日分のパンは余さず食い尽くされた。

「満足したか」

「うん」

 大袈裟な頷きは見るからに幼稚で、子供慣れしていない私でもなにか微笑ましさを感じた。

 殊更、この少女の特徴を挙げるなら、華奢な肉つき、翡翠の瞳、上等なシルクにも劣らない滑らかな肌もそうだが、なによりも印象的なのは艶やかな黒髪。

 この辺りではめずらしい色だった。

「お前、名前はなんという」

「ムダイ」

 ぼそりと答える少女。

 名前としては、あまり聞き慣れないイントネーションだった。

「変わった名だな」

「名前じゃない」肩まで伸びた、針のような毛先が揺らぐ。「題名が、ないから、無題って呼ばれていただけ」

「そうか」

 名前ではなく、題名。

 もしや少女は、ある種の反俗的環境下、狂気染みた人間のもとに生まれた子だろうか。少なくとも正常には思えない。

 この時分、私は安堵していた。

 皮肉にも少女は、それこそ名前ではなく題名を付けてやりたいほど、上質な作品のようだったからだ。

 言わば女としての傑作、いや、この頃はまだ不完全な美、幽玄な可能性に過ぎないが、いずれ至りうる気配は漂わせていた。

 ひとまず私は、少女に「フィッカ」という仮題を与えた。

 すると彼女は首を傾げ、

「フィッカって?」

「この辺り特有の言葉だよ。知らないのかい」

「知らないことの方が多いもの」

「そりゃあそうだ。私だってそうだ」

「で、フィッカって?」

「迷い猫、という意味」

 少女は「ふぅん」と唇を尖らせる。

 張りのある頬を小さく膨らませたりして、最終的には、

「無題よりは、うん、いいかな」

 と、ただ無邪気に笑った。

 

 

 私は齢が三十を数え、絵描きを名乗りながらも収入は皆無だった。

 元々、口減らしの為に早々と家から捨てられ、偶々、裕福な好事家に拾われて、修学の才に乏しかった私は消去法の末に絵を教わった。

 資質とは不思議で、私は意外にも要領よく画法を習得できた。

 二十までに描いた絵は妙な具合に評価され、家主の伝手もあってパトロンも現れ、一時期はそれなりの報酬も受け取っていた。

 ところがその家主が亡くなって以降、私のカンバスは途端に輝きを失った。

 身につけたあらゆる画法を持ってしても暗闇は晴れず、描けば描くほど醜い心象に走る絵は完成から遠ざかるのみで、パトロンからも次第に見放され、連絡すら滞った。

 家主の死後、相続者のいなかった遺産は私が継いだ。

 それは質素に努めれば生活に不自由ないほどあった為、いっそう、筆の進みを遅くする理由になった。

 悠々自適とは言えないまでも、生きる上では過不足なく、気が向けば描きかけのカンバスに色を塗り足す。非生産的な時間ばかりで二十代を埋没させた。

 具合のよい人生とは言えず、それは女を語るにも同じことだった。

 恥ずかしながら私は、女なる事象が理解できず、というのもなるだけ浪費を避ける生活を求めるなら娼館通いなどもってのほかであるし、不思議とそういう類の情が湧いた試しもなかった。

 無論、芸術家のはしくれとして、美そのものは判断つくが、女の美など自然の美には及ばない、どうにもちっぽけだ、などと宛てもない文句をつけたりして女を遠ざけてきた。

 しかし、二十四の時、魔が差した。

 あるいは、女と寝るのがどれだけつまらないかを確かめたいが為か、たった一度だけ、娼館へ赴いたことがあった。

 いや、包み隠さず話すなら、肉体のどこかでは期待していたのかもしれない……しかし悲しいことに、娼婦とのひと時は私の基盤を揺るがすに値しなかった。

 淫売用の薄い笑み、それは私にではなく私の懐目当てなのが見え透いていて、憐れで貧相で、過剰におだててくる口上もちっとも面白くなくて、かえって不気味だった。

 心地は悪くなるばかりで、私は寝そべっているだけだったが、そうすると奴らは許可もなく義務的に覆い被さってきて妖しく蠕動し始める。

 私は、この際に漂ってくる女のにおいや、成熟した肉体の圧みたいなものが、堪らなく恐ろしくて、それは非合法な鍵によって自身がこじ開けられる恐怖だった。

 ほとんど強制的オルガズム、そののちに押し寄せてくるのは際限ない虚無感のみで、これならば一銭にならずとも絵を描いていた方がいいと知り得、いっそう籠城の種になるだけだった。

 今更、絵など完成しようが売れる見込みもない。

 それでも筆を折ることはできなかった。描かざるをえなかった。

 無意味と知りながらも、呼吸するようにただ描いた。

 そんな無為にも似た時間を変えたのが、無題の少女。

 フィッカだった。

「フィッカ、こんな時季だ。いつまでも毛布に包まっているのは楽じゃないだろうから、せめて服の一つでも見繕ってやりたいが」

「じゃあ、赤がいい。派手過ぎないの」

 他人と会話することすら稀だった私は、フィッカに強い物言いはできなかった。

 対し彼女はどこまでも図々しく、厚かましい要望をしてくるのが常だった。

 服を見繕うと言えば、やれ色だの生地だのこだわる。パンを買いに行くと言えば、必ず共に来てめずらしいパンばかりねだる。

 子供であるから夜は消灯も早く、しかも寝つくまで話をしてやる必要があった。彼女は私にとって縁のなかった労力を引き出す天才にほかならなかった。

 ただどうしてか、彼女の面倒に従えば従うほど、崩壊していたはずの営みは正常性を取り戻した。

 手持ちの古くなった衣服に気づき、子供を連れたことでパン屋の店主やら客やらと話す機会が生まれ、就寝起床も否応に規則正しくなった。

 そもそも私は、この生活を長く続けようとは考えていなかった。フィッカが全快したならば出ていくよう諭すつもりだった。

 だが結局、私は彼女の素性を詮索しなかった。

 フィッカが普通ではない親のもとに生まれた子なのは勘づいていたし、捨てられたも同然の境遇に同情するには、私はうってつけの人間過ぎた。

 彼女は、神に導かれたのだろう、でなければ同類の私の家にはたどり着けなかったはずである。

 そうして奇妙な同居に至ったわけだが、家主(今となっては元家主)が遺したこの家は、一人きりで住むには過分に広く、寝室も二、三は設えてあった。

 ベッドについても私と元家主の二つ分があったが、元家主の方は長いこと使っていない為にすっかりくたびれてしまっていた。そういう状態にあったことも、フィッカと暮らし始めて気づけたことである。

 仕方なく私は、まともに機能している唯一のベッドをフィッカと共にした。

「悪いなぁ、部屋はいくらだってあるんだが、ベッドがないんじゃ痛い思いをする破目になる。お前だって嫌だろうし、本当は私が譲ってやればいいんだろうが、私もこればかりは」

「いいじゃん別に、一緒の方があったかいし」

「そりゃあお前、今は冷えているからいいが。そのうち、手狭なことが厄介に」

「ならない、ならないってばぁ、……ふふっ」

 根拠もなく一笑に付して、奔放な小娘は執拗に寝返りを打ってくる。

 時には、私のあごに自分の頬を擦り合わせ――恐らく、私の剃りそこないの髭が妙な心地なので、おかしかったのだと思う――夜分も恐れずひとしきり笑い、笑い疲れた果てに眠るのが日々のささやかな末尾だった。

 こう大人しく眠っているのもいつまでだろう、という私の不安は的中せず、驚くことにフィッカは、どれだけ季節が移ろおうとも、就寝に際し文句を漏らしたことはなかった。

 上背のない少女だから、たとい共に寝そべろうともベッドに収まり切らないことはないが、しかし、不満の一言もないとは。

 むしろ私の方が、彼女の気まぐれな寝相にうんざりする時分もあった。

 けれどもふと、目蓋を開いた先にある彼女の安らかさを見れば、咎める気など起きるはずもない。

 どうせならよりよい夢を選べるよう頭でも撫でてやろうか、それでもっと幸福な寝顔を見せておくれ、という気持ちにまでなって、自然と優しい手つきを心がけていた。

 愛撫するこちらまで心地よさを覚え始めた頃、カーテンの隙間から青白い静寂が差し込む。月明かりまで彼女に手を伸ばしたようだった。

 それは私にとって限りなく夢に近い幻想に過ぎず、明かりが真に示したかったことは、彼女が頬に月光の破片を伝わせていることだった。

「フィッカ、泣いているのか」

 はっきりとは起こさぬよう、輪郭をぼかした声で私は訊ねた。

 フィッカは呻くばかりで返答を拒み、猫みたく手の甲を丸めて濡れた頬を拭う。

 それから二、三度身じろぎをしたのち、

「いや、行かないで、お願い」と呟いた。幼いなりの切迫さを孕んだ、ほとんど嗚咽のような声だった。

 私は、睡魔にさらわれる精いっぱいまで愛撫を続け、時折奏でられるバイオリンの響きのような繊細さに寄り添い続けた。

 食事や買い出し、就寝以外の時分は遊んでやることもあった。

 しかし日がな一日相手をするのはうんざりしそうだったので、時には仕事と偽って絵描きに励む振りをした。

 フィッカは幼い為にわがままを言うことも多かったが、仕事と言い聞かせれば我慢を利かせる程度には分別のある子だった。

 私の作業に対し、フィッカは黙って眺めているばかりだったが、時折やはり退屈になるのか、

「描くのって、楽しいの?」

 と訊いてくることもあった。

「楽しいばかりが仕事じゃない。だが、仕事をしなければ生活ができん」

 私の口車は利便性に富んでいた。そう嘯く以外にまともな答えも浮かばない。

「あたしも、描いてみたい」

 まったく予想外の申し出だった。だが拒む理由もなかった。

 私は「おいで」とフィッカを手招き、膝の上に乗せて、

「この筆を握って、なにか好きな色を足してごらん」

「いいの?」

「ああ。それもまた一興、新たな芸術になるかもしれん」

 所詮、どこに出す宛てもない絵。いっそ滅茶苦茶にしてほしい気持ちだった。

 そうでなくとも既に滅茶苦茶になった絵だ、今更色を足すだけなら誰がやったところで大差はない。

 予想通り、フィッカは色彩やら色合いやらてんで無視した色を乱雑に塗りたくっただけだった。

 見方を変えれば前衛的な配色とも言えるか、ある意味でこれは斬新か、そう皮肉る分には楽しい作品になった。

「これでいいの?」

「いい。もう十年経てば快作と称賛される」

 極めつけにはこの誤魔化し。

 けれどもフィッカは満足したらしく、それからも自由に絵筆を執っては彩色の達人のように振る舞った。

 愛らしく上半身を揺らす子猫はひたすらに楽しそうで――そういえば私自身も――と頭をもたげたのは幼少の記憶、私が果てのない絵描きの世界に心惹かれたのもまた、こうした他愛ないきっかけではなかっただろうかと思い返した。

 途端に、おかしさが込み上げてきた。

 まさか、こんな憂いなき筆遣いによって初心を引き出されるとは。

 思えば私も、フィッカと同じだった。家主に抱えられ、下手くそな絵を描いていたはずだった。

 私はぎゅっと、フィッカの体躯を抱き寄せた。

 唐突な温もりに彼女は筆を止めたが、しばらくした頃にはまた、なにも言わずに色塗りを再開させていた。

 愉快ある時間、それがお絵描き遊びに終始していたかと言えばそうでもなく、むしろこの頃は理由もなく外をぶらつく機会が多くあった。

 行き先はもっぱら近くの海浜だった。ぱきりぱきり、浜に打ち上がった貝殻を踏み鳴らして歩くフィッカは、初めて触れる楽器をでたらめに弾くように興奮して、時には意味もなく駆け回ったりして、最後は海に飛び込んだりしていた。

「そら、また飛び込んだな。べたべたするからやめなさいと、毎度言っても聞く耳持たずか」

「あたし、気にしないもの」

「それでベッドに寝られた日には、まったく敵わんよ。誰が毎晩、抱いてやっていると思っているんだ」

「じゃあ、今日も湯浴みしなきゃね。しっかり洗うのよ」

 それは奔放の極まった微笑だった。

 フィッカなりに大人ぶっているのかもしれないが、むしろその背伸びした物言いが小賢しさを助長させているような、努めて子供っぽさを滲ませているような気がして、滑稽だった。

 どこまでも無垢な彼女はつまるところ、海へ飛び込めば体がべたつくのを承知の上、ただ私を困らせたいが為、あるいは私に体を洗わせる口実、その時分を戯れの延長にしてやろうと画策しているらしかった。

 幼子にとっては自然な運びで湯浴みを提案できたつもりだろうが、私からすれば筒抜けの目論見、けれどあまりに幼稚だからこそいっそう愛くるしく思え、どれだけ憎たらしくとも了承させるだけの、不可思議な力を有しているようだった。

 湯浴みの時分は、少女と過ごす中でも特に気を払うものだった。

 たらいの中にフィッカを収め――線の細い娘なので、ここまでは容易だが――火傷させてはいけない、しかしぬる過ぎてもいけない程度の湯をなるだけ沸かし、それを度々浴びせてやりながら、同じく湯に浸しておいた布で潮を拭ってやる。

 自分の体であれば慣れたことも、他人の体、とりわけ少女の肉体となれば、硝子細工を扱うように緻密で緊張を伴う作業に思え、まだ目立った傷のない白磁の肌を痛めぬよう、ただただ慎重に、擦ってやらねばならない。

 いや、硝子細工なら意思を持たない分まだいい。

 私が触れているのは、少しばかりお茶目の過ぎる小動物だから、時に意味もなくこちらを振り向いたりする。話しかけてくることもある。

 時には、頬や耳を拭う為の私の手に、甘噛みしてくることもある。無機物を洗うのとは異なる困難があった。

「ねえ、背中がかゆいの、届かないとこ」

「と言うと、この辺りかい?」

「もっと下」

「ここか?」

「もう少し、そっち側の下の、ああ、その辺!」

「……なあフィッカ、ここなら間違いなく、お前の腕でも届いたと思うが」

「だって、掻いてもらいたかったんだもん」

 そうのたまって、たらいに溜まったお湯を投げつけてくる。

 すくい方が下手くそだから、湯水でぼやけるはずの、彼女のとびきり無邪気な笑顔ははっきりと見えていた。

 

 

 わずか数月のたわいない出来事ばかりで、私はいつの間にかフィッカの育て親になることを決意していた。それは無自覚な選択だった。

 しかし、子を持つことがいかに苦難であるか、しかもそれが血の繋がりのない女児であることや、私自身が人並みからはぐれた人間であったことを、この時の私はまるで考えていなかったように思う。

 当時の浅ましさに同情できることはただ一つ、幸福の比率、その偏りが顕著だったことのみか。

 存外に、人の幸福とは、本来は時折に顔を見せるだけで、その比率は生まれた瞬間に決定づけられている。

 しかし具合の悪いことに、来訪の機会は不明瞭で、配分よく振り分けられているわけでもない。

 一つの不幸があれば一つの幸いがもたらされる、というわけではない。

 要するに、私にとっての蜜な時分は、この頃がピークだった。

 少女と関わりによる幸福がいっぺんに押し寄せてきた、ただそれだけの偶然。

 そんなことにも気づかず、私はやに下がった思いでフィッカを育ててやり、寄る辺のなかった愛を注いでやり、これはいずれ女の傑作になるだろう、などと随分偉そうな感慨に浸っていたわけだ。

 二人で暮らし始めて一年、フィッカは街の画塾へ通うことになった。

 画法だけならば私の手ほどきだけで充分だろうが、それではあまりに閉鎖的過ぎる。

 芸術は世界の構築、フィッカはまだ幼いので世間を知らない。

 世間もまた彼女をよく知らないと思われるので、よければ友達の一人や二人、画塾で見つけてくれればいいと思った。

 今になって悔やむのもおかしな話だが、私には友と呼べる者もおらず、それもまた自堕落を形成した要因の一つと考えている。

 そんなこともあってか、せめてフィッカには、心通わす同世代の他者を作ってほしいと私は願った。

 しかし初日、フィッカは目を赤くして帰ってきた。

「どうした、なにかされたのかい」

「なんでもない」

 と答えた途端、彼女は大きく肩を震わせた。堪えているのは明白だった。

「なんでもないわけないだろう。せっかくの翡翠の目が、擦過傷みたいに真っ赤だ。話してごらんよフィッカ。お前が間違っていることなんて、きっとないはずだから」

 抱きかかえ、私が頭やら背中やら擦ってやるうちに、彼女はようやく打ち明けてくれた。

 画塾で、ほかの子らから衣服についてからかわれたという。

 嗚咽混じりに語るフィッカをあやしながら、私は雷に打たれた思いだった。

 私は、色だの布だの、ねだられれば大抵の要望には応じていた。

 が、元々倹約的な生活を送ってきたゆえの貧乏性が板についていたからか、不必要な量の服は見繕わなかった。

 加えて流行にも疎く、今の街の子らがどんな服を着るのが適切かなど、考えもしていなかった。

 愛の眼差しを持った者からすれば、どんな衣服だろうと可愛く映るだろう。

 だが他人の目とは非常に現実的でそうもいかず、まして子供となればいっぱしの気遣いなど覚えてやしないだろう。

 察するにフィッカは、裸でいるより恥ずかしい仕打ちを受けたに違いない。

 彼女は容姿で言えば間違いなく可憐。

 悪いのは衆目を侮って悪趣味な服を着せていた私のみである。

 それにしても、この泣きぶり、高名な画塾へやったつもりではなかったが、もしかすると裕福な家の人間が多いのだろうか。

 あるいは、そもそも、画塾とは名家の子が習いに通うところなのか。

 服については仕立屋に訊けば解決するが、人間関係はどうにもならない。私が出る幕ではない。

 苦肉の策として、画塾を変えようかと提案してみたが、フィッカは頷かなかった。

「いい。行く」

 それはやせ我慢というより、恨みを晴らしてやろうという気概にも思えた。

 考えてみれば彼女にとって、早々に価値観を分かち合える子など現れるはずがない。

 裕福であろうがそうでなかろうが、フィッカのような捨て子が真っ当な塾へ通うこと自体が稀だろうから、ある程度は、彼女自身も覚悟している部分があったのかもしれない。

 ともあれ、日中は画塾、夜は私も絵描きに付き合うことで、フィッカもまた絵画の道にのめり込むようになった。

 彼女は普段、私を「ねえ」だの「あんた」だの適当な呼び方をするが(不思議なことに、イヲリタと名前で呼ばれたことはほとんどなく、それはもしかすると彼女の中で、名前という概念が希薄なせいもあったのかもしれない)、家のアトリエではややふざけた調子で「先生」と呼ばれるのが慣例となっていた。

 彼女は未だに、私が絵描きで生計を立てていると思っているらしく、真実を打ち明けていないことには忍びない気持ちもあった。

 しかし家主としての威厳を保つには、いかにもな振る舞いを演じて、自らもまた売る宛てのない絵を描き続けるほかになかった。

 そうしてまた、一年半ほど経ったある日。

 普段通りであれば帰ってくるはずの刻限になっても扉は開かず、遂には酷い夕立が窓を叩き始め、これはまずいか、迎えに行ってやるべきか、とそわそわし始めた頃、フィッカがずぶ濡れになって帰ってきたのだった。

「やあ、遅かったじゃないか。そんなに濡れてしまって」

「うん。画塾の奴らと話してたら遅れた」

 ぐっしょり濡れたローブの先を絞りながら、フィッカはなんでもない調子で答える。私の心配などお構いなしの様子だった。

 ところで、この頃よりフィッカは、いくらかの女らしさを獲得し始めていた。

 多量の雨を吸った衣服は不完全な色香を際立たせ、雫を纏う黒髪は少女らしさよりも、数年先の憂慮を先取りしたような麗しさを放っていた。順調に、彼女という作品が完成度を増していることがうかがい知れた。

 しかし不安なことに、有形の美に対して言葉遣いの方は、どうしてか乱雑になっていった。

 画塾の奴ら、なんて、せめて友人と言い換えることはできないものか。

 私の憂鬱に対し、フィッカの言うところには、

「こういう風なのが好まれるのよ。あいつらって金持ちばっかで気色悪い喋り方だからさ、あたしみたいなのがめずらしいってわけ」

 その言い分がまったく理解できないわけでもないし、それがこの一年半、彼女が見出した彼女自身の居場所を獲得する方法、あの画塾でほかの子らと話す理由になっているのだろうが、その一切を感心はできなかった。どれだけの美貌だろうと、中身が、この有様では……。

 叱責したい思いもあったが、どうにも私は、怒ることに不慣れであった。

 いや、それでフィッカに友人ができるのなら構わない、それがこの子にとっての幸い足りえるのか、そう考え始めるともう、小言を並べる気にもなれなかったのだ。

「体を冷やすといけない。湯を沸かすから、フィッカ、早く脱いでおきなさい」

「じゃあ、あんたもね」

 湯浴みの際は彼女にねだられ付き添うのだが、私は密かに危機感を抱いていた。

 段々と女性らしい体を得ていくフィッカと、いつまで子供のように接していてよいものか、迷う瞬間々々が増えるようになったからだ。

 もう二、三年もすれば、彼女は絶世の美女と遜色なくなるだろう。

 この時分こそ未完成、それでもしなやかな肉体に表れ始めているいくつかの柔らかな丸みは、未完成ゆえの凄艶さが宿っていて、次第に私は、彼女の体に触れることにためらいを覚えるようになった。

 劣情と似て非なる後ろめたさが、視界を努めて曇らせようとしていた。

「ねえ、ねえってば」

 最も恐怖したことは――これはもう女の勘まで身につけ始めていると勘繰るべきか――フィッカが私になにかをねだるのが、決まって湯浴みの際になったことである。

「明けの日、画塾の奴らと出かけるんだ。それで蜂蜜と林檎のミルフォイユを食いに行くから」

 絹のように滑らかな肌を押しつけてきて、私の耳元で頼みごとを囁くまでがお決まりの手段だった。

 ようは、金貸しの相談らしいが、どういうわけか用途以上のことは言わないのが彼女の妙なところで、この小娘は既に、どんな状況下でいかように振る舞えば男を頷かせられるかを知っているような、ちゃちな小手先を用いるまでになっていた。

 私とて阿呆ではないから、初めは沈黙と渋面を操り毅然を装うが、

「ねえ、好きよ。あんたのこと」

 大抵はその一言を聞いて安心してしまって、「分かった分かった、私だって好きだからね」と了承してしまう。

 すると、フィッカはこれ以上ない喜びとばかりに破顔してキスしてくるのがお決まりだった。

 幸いなことにまだ、この小娘の手管には無邪気さゆえの部分が大いにあったから、時々のおねだりとして処理することもできた。

 言わば、狙ってやり込めるまでの域には達しておらず、溺愛する私以外の人間を手籠めにするのは無理だったように思う。

 ただ不安なのは、いずれはその域に達するかもしれないこと。羽根を持たない天使は、代わりに魔性の使い道を心得ようとしている。

 一抹の不安が埃のように積もりながらも、私は掃き捨てるだけの気概を持てずにいた。

 私は、人の親ではない。

 本来であれば、フィッカのような少女を抱く権利も義務もない。

 娘の正しい抱き方、躾け方、愛し方も知らない、知る術を持たない。

 血の繋がりもなく、時を経ればいずれはこの家を離れ、他人の女になるだろう。

 であれば、フィッカにも多少の遠慮があって然るべきだが、それは子供に求めるものではない。

 特に彼女は、長らく愛情に飢えていただろうから、一度たっぷり注がれればそれが当然と思い、ねだるのをやめなくなる。

 それはフィッカだけに生じる問題ではなく、世に遍く全ての子供に起こりうる現象だろうが、そうした場合は一定の正常性を持った親、それに近しい存在が歯止めを施し、扱いやすくなるよう手懐けるはずで、どの子供も愛情の受け皿をほどよいところで作り終える。

 愛情と酒は無縁のようで実は等しく、摂り過ぎれば心身に毒をもたらすという、暗黙の定説が広まっているから、どの親も子供がつけあがり過ぎぬようなバランスを保つ教育を行う、そうまでしてようやく、家族足りえるのではないだろうか。

 そういう意味において、私とフィッカの関係は、どうやら破綻していた。

 私は、彼女が最も少女らしかった頃、彼女が運んできた幸福に目が眩み、彼女が持つ少女ゆえの魅力に盲目し、限りない愛情を注ぎ過ぎていた。

 その証左、私は一度たりともフィッカを叱ったことがなく、幼稚な行動の一切を肯定し、そしてなにより、彼女を悲しませぬよう甘い言葉ばかりを囁いてきた。

 一時期は本当に、それこそが正しい接し方なのだと信じて疑わず、綻びに気づき始めた頃には、既に手遅れだった。

 私は、もう、日常生活においてこの小娘の言動を否定する術を失っていた。

 失う? 違う。初めから持ちえてすらいない。

 獲得する手立てもなく、友人もいない為に相談もできず、恥を忍んで告白するならば、実のところフィッカが画塾へ行っている間に、カンバスに彼女の姿を描いて仮想的な具合に叱りつける練習を行うこともあった。

 この時ばかりは印象的にではなく写実的に、色もつけず、彼女特有の微笑みと視線をスケッチした絵をこしらえ、そのカンバスに向けてなるだけ怒鳴りつける修練を積んだ。

「お前なあ、この頃、金を使い過ぎてやしないか、画塾だってタダじゃないのだ、服だってよい布や仕立ては高い、その上、ミルフォイユを食いに行くとは、少し贅沢が過ぎるのではないか、今はお前が小さいから、同じベッドで寝てやっても憚るところもないが、それもそろそろ潮時、お前だっていつまでも子猫とはいかぬ、毎日まともに食わせてやっているのだから背も伸びるし、なにより昔からそうだが、お前は寝相が悪くって敵わん、抱きつくまではまだしも寝返りの度に腹を蹴られる私の身にもなって……いや話が逸れたが、つまりはお前の分のベッドもいずれは設えなきゃいかんし、そういうこともあって、これからなにかと出費がかさむだろうから、お前自身、もう少々は弁えるようになってくれないか」

 相手が絵ならばいくらでも言える。

 それでも、憤懣をぶつけるつもりが単なる小言並べに終始する辺りが私のつまらない性分、予行演習すらままならないとは。

 情けなさも極まった頃、遂に私は描画の為ではない筆を執った。

 唯一まだ、パトロンとして繋がりのあった絹商のジョコルド氏に手紙を書く為である。

 しかし、これは苦肉の策、なにせもう十年弱、音沙汰をなくしている。

 それを今更、絵描きどころかまともな生活すら怪しい人間が支援を頼み込むなど、どれだけの厚顔か。

 さりとてもう、底の見え始めた元家主の遺産を数えれば、厚かましいと知りながらもほかに取るべき選択肢はないように思えた。私が真っ当な働き手としての資質がないことはお察しの通りである。

 作業への本格的な復帰について、多少なりとも希望があるとすれば、フィッカと過ごす数年の間に絵筆を握る時間がいくらかあった

こと。

 フィッカには毎夜、絵について教授することもあったので、その講義が図らずも昔の感覚を呼び覚ます機会にもなって、てんで腑抜けだった頃よりはまともな絵が描けそうな気がしていた。

 実際、ふざけた動機によって生まれた小娘の肖像画は、ここ最近だけでなく生涯においても最も輝きを放つ裸婦となり、今の私だからこそ描き表せる少女の無垢な魔性が表現できているように思えた。

 さて、憤怒の気概においては希薄な性分と話した矢先だが、実質的には、私は彼女に対し怒りを露わにしたことも、幾度かあった。

 なんだい、人の親よ、あなたも立派に怒るのではないか、と指摘される方の為に弁明するならば、その怒りとはフィッカの日常的な行いにではなく、絵についてだった。

 前述の通り、画塾へ通わせている彼女の技量を量るべく、毎晩々々、ごくわずかな時間ではあったが、家のアトリエでもカンバスに向かわせていた。

 そんなある時、私は彼女の画力がほとんど成長していないことに気がついた。

「お前、フィッカ、もう何年も画塾へやっているのに、どうも上達が鈍い。見ろ、ここ、簡単な遠近も取れていない。一年前も同じ指摘をした覚えがあるが、こりゃあどういうわけだ」

「ちょっと、疲れただけ。今日はやけに眠いんだよ」

「一昨日の晩だって似たようなことをだな、……いや、もういい、私は絵を見れば大概のことは、分かる、この絵にはお前の情熱がどうやら欠けている。技量の問題もあるがそれ以前に……」

「ああもう、小言はうんざりだわ!」

 フィッカは荒々しい声を飛ばした。私は緘口した。

 青い沈黙ののち、彼女は気だるげな眼差しで見上げてきて、

「ねえあんた、今日はもうおしまいでいいでしょう、本当に疲れてるの、あたしが愛おしいなら、一緒にベッドに入ってさぁ、髪を撫でてちょうだいよ、そぉしたらよく眠れるんだ、ねえいいでしょう?」

 猫撫で声と共に擦り寄ってくる体温。心臓をぎゅっと鷲掴みにされたようだった。

 ぐらりぐらりと揺さぶってくるような、妙に熱っぽい口調が、この時ばかりはむしろ、私の中の平静さを呼び起こし、その時初めて、私は彼女のちゃちな小手先を突き放した。

「いい加減にしろ! いつまでも子供みたいなことをぬかして、まともに絵を描く気がないなら画塾などやめてしまって構わん、知り合いの商人が給士を欲しがっていたからそこで働いた方がよっぽど健全じゃあないか?」

 給士の話はもちろん虚言だった。

 もしかすると、本当に人手不足かもしれないが、私に知る術がないことは分かり切ったことである。

 そうまで言っても、この時ばかりは、彼女をうんと叱りつけたい気分だった。

 やはり私は、人の親ではないが、一絵描きとしての誇りみたいなものは捨てていないらしかった。

 フィッカの、幾分やる気の欠けた絵を目にしただけで、眼前が熱く燃え上がる思いになるのだから。

「少し前の方が今よりもいい……いやもっと言えば、初めて筆を執り、私の絵に塗り足していた時の方が一等よい絵を描いていた。どうだ、子供のお絵描き遊びに劣ると言われて、お前がまだ真っ当な絵描きだと言うのなら、少しは思うところがあって然るべきではないか? この恥知らずめ……」

「フン、ばぁか」けれどこうまで叱責して、返ってきたのは予想もつかない罵声だった。「偉そうに、なにが恥知らずよ、恥を知るべきなのはあんた、あんたの方じゃない。あたし知ってるんだから、あんたがもう、絵描きなんてとっくに廃業しちまってることをさぁ」

 私は絶句した。

 魔性の申し子は続ける。

「気づいていないとでも思ったわけ? ハッ、とんだ阿呆じゃないの、ここの家だって本当はあんたのもんじゃない、あんただってあたしと同じなんでしょう? 無題の子だったんでしょう? 遺された金で生かされてきた身分の癖してさぁ……偉そうになんでもかんでも押しつけないで!」

 カンバスを払いのけ、大きな物音が完全に静まるよりも早く、フィッカは部屋を出ていった。

 去り際の瞳は目いっぱいの雫を抱えていたから、今頃はぐちゃぐちゃになった顔をベッドか毛布にうずめているだろうか。

 私はしばらく立ち尽くしていた。ほどなくして散らかったカンバスやら道具やらを片づけ、ほとぼりが冷める頃合いを見計らった。

 廃業については薄々、勘づかれているのではと察していたが、まさかこうして、明確な悪意と共に突きつけられるとは思っていなかった。

 金槌で頭を打たれた気分だったが――冷静になれ、向こうはまだ子供、悪意なんて言い方はよそう――思い返せば昔日の私も、頭に血が昇ればどんな悪罵も臆せず口にしていた。

 所詮は子供の言うこと、いちいち真に受ける必要はない、それよりも行うべきことがある。

 寝室へ向かうと、共有のベッドに腰を下ろしているフィッカの姿があって、彼女の目元には真っ赤な不機嫌さがはっきりとこびりついていた。

 けれど、部屋に入ってきた私を拒まない辺り、ある程度の踏ん切りはつけているようだった。

「ごめん」

「いや、フィッカ、私の方こそ言い過ぎたし、それに……」

 次第に萎んでいく私の声が嫌ったのは、彼女から指摘された廃業にまつわる一切だった。

 私がフィッカを叱るのはもっともだが、しかし、彼女が私からの教授を蔑ろにする、それもまたもっともなのだろう。

 彼女の言う通り、私はもう何年も、生活の為に絵を描いていない。遺された金でのうのうと生き延びてきた身分に違いない。

「こっちに来てよ、あんた。となりが寂しいんだ」

「ああ……」

 招かれ、拳一つ分空けてフィッカの横に座ったが、遠慮の空白はすぐに埋められた。彼女が、私の肩に体を預けてきたからだ。

「撫でてよ、いつもやっているように」

「フィッカ、廃業を黙っていたことはすまないと思っている……いや、言い訳がましく聞こえるかもしれないが、完全に廃れさせたわけではなく、いつかはまた筆を執ろうと考えていたのだ。この前も馴染みの絹商に手紙を送って……」

「分かったから、撫でて」

 遮るように語調を強めてくる。やはり、言い訳がましかっただろうか。

 自省しつつ、私はフィッカの頭にそっと手を乗せた。それはこれまで共に過ごしてきた時間の中で、二番目にぎこちない手つきだった。

「あたしも、言い過ぎたと思う。絵のことだって、あたしが全部悪いんだもの、あんたが今も絵描きかどうかなんて関係ない、あたしが悪いの」

「そうまで言うことは」

「ううん、言わせて」俯き、薄い陰のある瞳には小さく光る雫が挟み込まれていた。「本当を言うとね、あたし、あんたが廃業していたかなんてどうでもよくって……だって偉い絵描きじゃなくたって、あんたはあたしを拾ってくれて、名前をつけてくれて、育ててくれたんだもん。絵なんてどうでもいい……あたしはきっと、幸せだから」

 訥々と、断片的な具合の感謝だった。

 いつまでも子供みたいなことを、そう怒鳴ったばかりだが、彼女は既に自らの非を認め、私に恩を感じる程度には成長しているようだった。もう一切のわだかまりは晴れ、私は無言で彼女を抱き締めた。

「好きよ、あんた」

 耳元でそう囁かれ、その声にはけだし少女の無邪気さがあり、ちゃちな小手先など、疑いの目を持ったことが恥ずかしくなるほどだった。

 世の親とは、本来こうした小競り合いを越えることで親子の絆を深めていくのか、そんな感慨に浸るのに充分な一夜となった。

 さて、予期せぬ福音を受けたのもまた同じ頃で、私はジョコルド氏からお返事を賜っていた。

 こちらの事情を察した上で、ちょうど、描いてほしい絵があるとのことで、私は飛び上がりたい気持ちだったが、懸命に堪えた。

 正式に依頼を受けるのはジョコルド氏の邸宅を訪ねてからになるから、フィッカにぬか喜びさせるのはよくないと思い黙っていた。

 そうしてある日、いつものようにフィッカを画塾へ送り出したのち、昼頃、私もメトロポリスまで繰り出した。ジョコルド邸を訪ねる為だ。

 お会いした際――分かってはいたのだが――氏は私の記憶にあるよりもかなり老衰されたご様子だった。

 出迎えも全て使用人に任せ、氏ご本人は、

「恥ずかしい話だが、椅子から立ち上がることすら困難なのです」

 と、お茶目な具合に白い髭を手慰んでいた。

 けれども、昔ながらの優しい眼差しはご健在で、この十年弱、なんの知らせも寄越さなかった私に対しても、わずかな呆れすら見せることはなかった。

 形のはっきりしない声によると、氏が頼みたいことは肖像画だという。

 七年前、氏のお嬢様が子を産んだらしく、まずは「念願の孫娘でした」と談笑されていたが、悲しいことに、お嬢様の方は産褥の際に亡くなられたとのこと。

 それからというもの、孫娘様はこの邸宅で面倒を看ていて、不自由ない生活を送らせているはずだが、ふとした時にやはり恋しいのか、孫娘様から「母親とはどんなものか」と訊ねられるという。

 齢も七つとなれば物心もそろそろか、然るに氏のお気持ちを察するのは容易く、ご依頼の本筋も徐々に見え始めた。

 つまるところ氏は、孫娘様に母のことを語る為の材料、すなわち亡くなられたお嬢様の肖像画を私に描かせようというのだ。

 しかし弱ったことに、私は肝心のお嬢様にお会いしたことがほとんどない。

 いや、思い返してみればたったの一度、それもお話したわけでもなくちらりと見ただけ、それも十数年前となれば、顔立ちなど思い出せるはずがない。

 とは言え、私としてもようやく掴みかけている復帰の機会。

 次に依頼を受ける保証などないから、首肯する以外の選択はありえなかった。

 ただ、あまりに自信満々では過度な期待をさせてしまうだろう、私は承諾と共に、難儀な作業となる理由を正直に伝えた。

 すると、ジョコルド氏はどうしてか使用人に孫娘様を呼ばせた。

 しばらくして、礼儀作法などお構いなしに書斎へ駆け込んできた七歳の少女は、一瞬、私の瞳を欺いた――フィッカ、なぜここに――だがそれは幻覚で、よく見れば髪色や瞳など似ても似つかぬ少女で、それはそうだ、この子は氏の孫娘様なのだから、そう理解してくだらない錯覚から目を覚ました。

 見間違えたのは恐らく、少女の持つ爛漫さ、稚さが主因に思われた。

 私はもう、決して短くはない時間をフィッカと共に過ごし、彼女の成長を最も身近で感じ取ってきたが、印象においてはやはり、出会ったばかりの頑是ない姿が強く焼きついていた。

 思えばフィッカは、年々、女性らしい華々しさを獲得しているが、不思議なことに、彼女にまつわる最も美しい光景は、邂逅の時分にほかならなかった。

 いや、所詮これはたわいない戯言、「昔は可愛かったのだが」と回想したがる天邪鬼な親心かもしれない。

 さて、孫娘様を抱えたジョコルド氏の思惑についてだが、私も大方の見当はついていた。

 ようは孫娘様の顔立ちを参考に、母親であるお嬢様を想像し描くことはできないかということ。

 それでも至難には変わりないが、氏がおっしゃるには、ある程度は、私が思う母親像を含ませても構わないとのことで、仮に氏の記憶にあるお嬢様の姿と照合しえない出来になろうと、理不尽な難癖はつけないと約束された。

 尽力する旨を誓った私に、氏は、決して少なくはない着手金でもって応えられた。

 正式に依頼を受けた私は、ひとまず氏の孫娘様――名はメリエッタ――の容姿を脳裏に焼きつけるよう観察し、持ってきておいたカンバスに軽くデッサン、上手く面影を残す為の工夫を施し、ジョコルド邸をあとにした。

 順調な開始、それは表層に過ぎず、懸念はいくつもある。

 私の浮かべる母親像で構わないと言われたものの、私にとって母の記憶とは朝霞のように曖昧で、はっきりとした印象は心のどこにも残っていない。改めて困難な制作になることを予見した。

 だが帰路のさなか、私はわずかに高揚していた――いや、こういう時くらい素直に言うべきか――私は、希望に胸を躍らせていた。

 赤煉瓦の家並みに切り取られた澄んだ空、二階の窓から身を乗り出して惚気るお向かい同士の男女、彩色よく飾られた花々の店、適度に賑わうメトロポリスの景色……。

 目でとらえられるあらゆる幸福が、正しく幸福として感じ取れた。

 デカダンな十数年において、私はこれほど単純な肯定的視点すら失っていたのか、今や虚無感の方が幻想に思える、などと盛大に浮かれて帰り道を闊歩した。

 最たる喜びは、再び絵の職を得たことではない。

 私の手でもらい受けた報酬、それによってフィッカにパンを食わせてやれること。

 それこそ、今は亡き元家主に果たせなかった報恩になると思われた。

 私は、これからの生きる意味、絵を描く意義をフィッカに見出していたようだった。

 夕刻の為に陽が傾き始めた時分――ついでだ、そう遠回りにもならん――大変に具合のよかった私は、帰路を正直には進まず、フィッカの通う画塾へ寄ろうと決めた。

 どうやら一丁前に、愛娘を迎えに行こうという腹積もりだ。荷の重さなど軽くなった心と同等、気にならなかった。

 時間をうかがいつつ画塾へと向かったが、脇道を歩く振りをして窓から中を覗くと、まだ大勢の塾生がいて、道具を片づけている最中だった。

 迎えなのだから堂々と訪ねればよいのだが、私はあえて隠密を心がけ、フィッカが出てきたところで驚かせてやろうと画策していた。それは三十余年の人生において第一の茶目っ気だった。

 画塾を通り過ぎたのち、努めて自然な具合に踵を返し、もう一度、窓の傍を通りすがった。黒髪の天使を、翡翠の目の妖精を見出すべく。

 が、――赤、茶、違う、あれは服こそ似ているが、髪はブロンドときた、どうにも裕福そうな子ばかりだ――ぶつぶつと呟きながら、いつの間にか窓に張りついて塾内を凝視していた私は、遂にフィッカを見つけ切れなかった。

 自身の目を疑う以外の様々な原因を思い浮かべたが、ああ、もう帰り支度、この時分に全ての塾生がそろっていないなどありえるだろうか、私は画塾のやり方に明るいわけではないが、終礼の際に席を外す者などいないだろうと踏んでいた。同時に、不穏な予感が胸中に広がっていた。

 塾生の解散を見計らい、私は喧噪に紛れて室内に入り、

「ご無沙汰しています、ファルツィ先生」

 石膏を眺めていた女性に声をかける。

 決して若いとは言えない風貌の彼女は、私を見るなりやや怪訝な眼差しを向けてきた。

「あら、確かフィッカの……ようやく、正式にということでしょうか」

 なにかを察したような言葉だった。

 私は釈然とせず、

「正式にとは? 私は仕事の帰りついで、フィッカの迎えにきただけですが」

「そうですか、呆れたものですね」それは多少の怒り、あるいは憐れみの混じった声。「ご覧の通り、フィッカはここにはおりませんよ」

「ええ、ですから先生にお訊ねしたいのです。うちのフィッカはどうしたのでしょう。早退でもしたのですか」

「申し上げた通りです、あの子はここにおりません……もう二月も前から」

 その刹那、私は唖然とする以外の感情を忘れたようだった。

 気づけば、居残っていた塾生の何人かが、こちらを見てよくない談笑をしているらしかった。

 私は冷静でなくなった。

「悪い冗談はよしてください。フィッカはほとんど毎朝、こちらへ通う為に家を出発しています。今朝だってそうです」

「あなたにとってはそうかもしれません、しかし事実は、そうではないのです。あの子はここに来ることをやめています。ただそれを、あなたに知らせずにいるのです。去年から、あなたは月の授業料をフィッカに持たせるようにしていましたね」

 彼女の付言通り、私はある時まで、画塾の授業料を私自身の手で支払いに来ていた。

 だがフィッカが大きくなったこともあり、現在ではフィッカに金を持たせていた。

「あの子はそれを隠し持っているのです。なにに使っているかは分かりかねますが、絵に対する情熱には注いでいない」

「そんな邪悪な子ではありません」

「いいえ、とびきりの邪悪です」先生はきっぱり言い切った。「フィッカは完全に音沙汰をなくす少し前から、無断で休むことが間々ありました。それだけでなく、あの子は入塾した頃より、まともにカンバスと向き合う時分を削ぐようになりました。こちらの注意も聞かず、お喋りお喋り、ほかの子の邪魔ばかりして、ほとんど有害な存在でした」

「そんな、救いようのない言い方は」

「これでも言い足りないほどです。フィッカは、出自の不明な子だそうですね。ここは家格の高い子が多い為に、あの子にとっては相当なコンプレックスのようでした。だからこそあえて横暴に振る舞い、自尊心を守ろうとしたのでしょう。初めの頃は――あなたの教えがよかったのでしょう――ほかの者のよりも描ける方で、育ちの違いによる気後れをせずに済んでいました。

 けれど不幸にも、当初の劣等感により歪んでしまったプライドが、彼女を傲慢にしました。人の助言は聞かず、未成熟の画力にあぐらをかいて向上も見込めず、徐々に周りからも追い抜かれていきました。自尊心を保つ唯一の要因すら失い、およそ少女らしさを喪失させた態度だけを残した彼女は、ただ憐れでした」

 私は立つ瀬がなかった。

 頬の燃える感覚がひたすらに心地悪く、汗顔の至り、それは同時に、沸々と湧き上がる憤りの念によるものでもあった。

「あなたが抱えている感情は、適切とは言い難いでしょう」憤懣の為に赤くなったであろう私の顔を見て、先生は厳格に指摘する。「あなたはどうやら、フィッカに非があると思っている」

「その通りでしょう、先生の話が真実ならば。あの子は出自が分からないばかりか、どうやら気違いの子らしいのです。幼くして捨てられ、露命のまま私の家の前に転がっていて、しかも『無題』という名前で呼ばれていたそうで……所詮はそんな、馬鹿げた呼び名をつける親のもとに生まれてきた子なのです」

「あなたは酷く勘違いしている。子にとっての親は生みの親ではない、子のいる環境こそが親であり、重要なのです。フィッカにとっての本当の親を、あなたはあなた自身が一番よく理解しているはずでしょう」

「あいにく、私は先生の生徒ではない。説教なら結構です」

「ならばこれは忠告です。早くここから出ていきなさい。私と討論している暇は、今のあなたにはないはずです」

 その瞬間のみ、彼女の意見に同意した。

 私はフィッカを探し出す必要があった。

「おい、すまないが」帰り際の塾生らを呼び止め、「フィッカの行きそうな場所に心当たりはないかい。どんな些細なことでも構わないが」

「さあどうでしょうね」とびきり腹の出た青年が答える。醜い嘲笑を浮かべながら。「街なかでメディスの女たらし様と一杯やっているのでは? 帰りに時折見かけます」

「メディスだって?」

 青年の言葉を疑った。

 メディスとは、隣国で最も有力な貴族の名だったからだ。

「そりゃあまさか、メディス家のことかい」

「お察しの通りのメディスです。なんでも三男のユリアス様というのは酷い女好きでね。幾人もの女性を誘っては共に飲んだくれていらっしゃるとか……この界隈では有名な発展家ですよ」

「そうかい……」

 計り知れない落胆、だが立ち尽くしていても事態は変わらない。

 私は――厚かましいことを承知の上で――カンバスなどの手荷物を画塾に預け、酒場通りまで向かった。

 店を一つ一つ確認するなら相当な時間がかかるだろう、と思ったが、そんな推測はいい方向に外れた。フィッカは割合早く見出すことができた。なぜなら彼女は、ある酒場の屋外客席で堂々と飲んだくれていたのだ。

 高貴な衣服をまとった男も同席しており、画塾の青年に教示された光景がそのまま再現されている。際限ない呆れと怒りが同時に込み上げ、私は歩調を強めて彼女らのもとへ迫った。

 差し向かいの男に媚笑していたフィッカは、私の姿に気づくと、酔いが醒めたように目を見開いた。仄かに赤かった頬が途端に真っ青に変わった。

「あんた、どうして」

「それは私の台詞だろう、こんな場所で、こんな……恥知らずが!」

 一喝し、私はすぐに踵を返した。

 これ以上は、手を上げてしまいそうであった。往来で子供を殴るなど、私の方が恥知らずとなる。

 私は拳を固めたまま元来た道を帰ろうとした。だがすぐに「待って」と甲高い声で腕に抱きつかれ、

「違う、違うんだよ、あんた……そりゃあ、画塾のことは、悪いと思っているけど」

 すすり泣き、縋りついてくるフィッカ。

 はらわたが煮えくり返る思いだった私は、彼女の泣き声にすら演技めいたものを感じ、その弱々しい手先を振り払った。

「黙れ! 絵に対する情熱を失うだけならまだいい、生きる道はほかにもある……しかし、欺かれるのは、こればかりは許せんのだ、たった今、私はお前の為に」

 私は絵描きでありながら、これまで絵を描く意義を見出せずにいた。

 いや、失っていたのだろう、初めの頃は、元家主の教えに報いたいが為、描いていた。

 だから一人になった頃、途端に筆が重くなった。意義を失ったからだ。

 しかしフィッカと出会い、彼女と暮らすうちに気づき始めていた。

 これから描いていく意味、大義を。

 それをこの刹那、踏みにじられた。

 フィッカからの、裏切りによって。

 これまでのなにもかも――それこそ、数日前の仲直りですらも――私を手玉に取る為の欺瞞ではなかったのかと思うと、もはや許すも、許さぬもなかった。彼女を拒絶する以外の感情は生まれなかった。

「渡した金で、飲んだくれて、酒など……たわけが、痴れ者が!」

「あんた、そりゃあ、違う……あたしは、酒は、飲んでなんか」

「どの道、お前は私を裏切ったのだ。それは変わらない……」

 みたびしがみついてきた彼女の手を蹴飛ばし、私は振り返ることなく歩を進めた。

「もう二度と、私の前に姿を現すな。それが私の為でもあり、お前の為でもある」

 泣き声は追ってこなかった。私は呆気なく帰路に着けた。

 途中で画塾に寄って荷物を引き取り、家に帰って夜が更けた頃、ようやく冷静になった。

 怒りの一切が引いたわけではなかったが、それ以上に、夜分になっても帰ってこないフィッカの身を案じる思いが強まった。

 思えば彼女との生活において、夜を共にしなかった日は一日もなく、空の暗幕が下り切った頃合い、彼女がベッドに不在であることに、茫漠とした不安が立ち込めた。私は、フィッカを探し出さねばならないと思った。

 あてもなく街へと出たが、当然、どの店も閉まっている。

 こんな時間に徘徊するのは蝙蝠か夜盗くらいか……半ば諦めの足取りで酒場通りへも行ったが、やはりフィッカを見出すことは叶わず、肩を落としたまま家へと帰った。

 強引に眠りに就こうとしたが、眠れるはずがなかった。

 駆け回ったことにより体は火照り、動揺がどくどくと心音を高める――あの叱責は間違いではない、だが、あの拒絶が正しかったと言えるだろうか、私は、彼女から逃げてしまったのだろうか――時間が経つにつれ、どうしてか自らの過ちを模索するようになった。

 欺かれたのは私だというのに、なぜこんなことを考えてしまうのか、分からなかった。

 明日になれば、あるいは見つからずとも、彼女の方が観念するか改心して……。

 心のどこかでそう楽観していた私に対し、現実は酷く非情で、待てど暮らせどフィッカは戻ってこず、遂に三年が経過した。私がフィッカと共にした時間よりも長い時が過ぎていった。

 私の方は、三年の一切を無策に過ごしたわけではない。初めの半月ばかりは懸命に捜索した。だがそれ以降はもう諦めた。

 フィッカも帰る場所がなければこの家に戻るしかない、そうしないということは、彼女自身が新たな帰る場所を見出したからだろう(行き倒れていなければだが……)。

 可能性としてはあのメディス家の男といることが考えられたが、女たらし様と言えど、名家の人間がなぜ出自も分からない娘を相手にするのか疑問だった。

 いや、彼奴も私と同類、フィッカが美貌になることを予見し目をつけたのかもしれない。家柄など度外視できるほど見違えるのではないかと。

 仮にメディス家が関わっているとすれば、私などが到底、介入できる程度ではない。

 唯一あの女たらし様であれば、この界隈に出没していたようだが、最近では見かけなくなったと街の者から聞いた。

 時期からして、ちょうど私がフィッカと離別した頃で、もしフィッカがあの女たらし様に連れて行かれたのだとすれば、もはやこの国にいることすら訝しい。であればもう、なす術はない。

 捜索を打ち切って以降は、ジョコルド氏からの依頼に没頭した。

 が、氏の前ではすんなり動いていたはずの筆は再び鈍り、精彩を欠く時分が増えた。

 どうにも腕が重く、筆先は蝋で固められたように微動もせず、指先は震えるばかりだった。

 それもカンバスに向き合った時分のみで、それ以外ではまともに機能する手先であるから余計にたちが悪く、特に気鬱な日は酒に溺れるようになった。

 まともに絵が描けないのはフィッカと暮らし始める前、二十代の頃もそうだったが、今はその頃以上に呻吟し、描けないことに苦悶した。

 昔は酒に頼ることなどなかったのに、今では酒がなければろくに寝られず、夜中に何度も目を覚ますようになった。

 フィッカから抱きつかれ、蹴られようとも我慢できた就寝の時分……それが今や、一人で眠ることの不幸せに鬱屈するとは――孤独は罪ではない、しかし幸いでもない――私は甚だ参り、まだかすかにフィッカの香りが残っていた毛布を引っ張り出し、フィッカを模した毛布の塊を傍らに置いて寝るなど、馬鹿な気休めをするまでになった。それでもダメならば酒を飲んだ。結局は酒を飲むことでしか眠れなくなった。

 フィッカのいない時間はどうにも薄っぺらく、ゆえに足早に折りたたまれていった。

 フィッカと過ごした一週間よりも、今の半年の方が呆気なく過ぎるほどだった。

 あまりにも密度に乏しい時間、心は酒に浸されてふやけ、一日のうちではもはや覚醒している時分の方が短い。

 無論、絵の進みも芳しくなく、ジョコルド氏からは何度も催促の手紙が届いた。

 初めの頃は私も、忸怩たる思いで返書を出していたが、次第に滞った。

 着手金も酒に溶かし、再び元家主の遺産を細々と切り崩す生活に戻った。

 廃人と化した今、そぞろに考えるのは幸福の比率についてで、思えばこの腐敗は予期できたはずだった。

 幸福の比率は、フィッカとの邂逅からしばらくの期間に偏っていたから、それ以上の幸いなど巡ってくるはずがない。

 言い換えれば、それまでの幸福は全て、現在の絶望に至る為のプロセスに過ぎず、畢竟、堕落は運命づけられていたのだ。

 わずかな光を覚えたが為に、以前と同じ暗闇が更に深く感じられる。そういうからくりだった。

 のちにこの頃の暴飲は私の内腑を苛み、四十を前にして死の気配が漂った。

 医師を頼ろうとする前に酒を頼るのでなお悪く、テーブルに置かれたパンを切り分ける為のナイフを見かける度に、喉元を掻っ切る自らを幻視した。終焉はもう間近に思われた。

 だが――結論から言えば、私は自死しなかった。

 無為に生き延びてまた一年経った頃、私の家を訪ねる者があった。

「ご無沙汰しています、イヲリタさん」

 ベッドにもたれていた私は、久しぶりに耳にした私の名に総身を震わせた。

 許可なく寝室まで立ち入ってきていたのは、若い女だった。

 気品のある黒いドレス、紗のベールをまとった体は、細部に至るまで完璧な美に思えたが、唯一、奇妙に膨らんだ下腹部だけが美とはほど遠かった。

 が、それよりも目についたのは――艶やかな黒髪と、見覚えのある翡翠の瞳。

「フィッカ、か……?」

 私の訊ねに、彼女はどこか申し訳なさそうに頷いて、

「随分、老けてしまわれましたね。私ほどではないのかもしれませんが……」

 茶目っ気たっぷりに言う彼女は、私の知る無邪気さとは違う、垢抜けた雰囲気を醸していた。

 四年の歳月によって成人がましく変わり果てたフィッカは、初めて見せる憂いを帯びた微笑を浮かべながら「このお腹は、あなたの想像通りです。ユリアス様の……」と切り出し、失踪後の経緯を語り始める。

 あれからメディス家の女たらし様、ユリアスによって隣国に連れられた彼女だったが、ユリアスは既に婚約していた為、フィッカが宮廷に迎えられることはなく、その為、現在はユリアスが郊外にこしらえた家屋で慎ましく暮らしているという。

 言わば彼女は、女たらし様の愛人として、これまでの四年を生き延びてきたのだ。

「どうしても、もう一度だけ、あなたに会いたかったのです。これ以上、お腹が膨れたあとでは手遅れですから……ユリアス様に無理を言って、それで、一人で参ったのです」

 恭しく話す彼女には、海浜を駆け回っていた頃の幼稚さは欠片もなく、私はただ、傑作から遠ざかってしまった彼女の、しがない妊婦としての形貌に呆然とするのみだった。

 フィッカは床に散乱した酒の抜け殻を拾い上げ始め、

「お酒ですか……皮肉なものですね。あなたが、お酒に逃げるようになるなんて」

 皮肉がなにを示してのことか、想像に容易かったのは言うまでもない。

「イヲリタさん、あなたは信じてくれないかもしれませんが、あの日、私は本当に、一滴も飲んではいませんでした。誓って本当です……だって、私は毎日、この家に帰っていましたが、一度だって、お酒のにおいをさせたことはなかったでしょう? あの日だって、ただ彼の話に付き合っていただけ……いえ、そんなことが問題ではないことは、重々承知です、あなたが憤慨したのは、私が画塾へ行く為にもらっていたお金を、隠し持って遊興に費やしていたこと……私は、あなたからの愛を利用していたのですから。罪には変わりありません」

 悪い夢のようだった。フィッカが非を認めて素直に謝る? なんとも馬鹿馬鹿しく、これもまた酒を飲み過ぎたことによる幻覚にすら思えた。あるいはそう思いたかった。それこそ馬鹿げた話だが。

 フィッカは一日だけ、この家に泊まりたいと申し出た。

 私は気が進まなかったが、追い払う気力も湧かなまいほどで、彼女から清掃を行いたいと言われた際も、止めることはしなかった。

 彼女が率先して箒を持つ時分など過去にあっただろうか。

 それも、臨月と言わないまでもその体では苦難だろうと私が案じると、

「今の時期は、適度に動いていた方がいいのです」とあっさりかわして、作業も手際よくこなしていく。

 私は力なくうなだれ、たくましい主婦の様を日がな一日見せつけられた。それは現実のように失望的な光景だった。

 夜になれば共に飯を食い、意味もなく湯浴みもした、と言えばまるで昔日の再現だが、立場はすっかり逆転していて、それどころか、思うように体を動かせない私はなすがままだった。

 パスタを口へ運ぶにも彼女の手を借り、湯浴みも彼女の慣れた手つきによって背中を流された。

 昔のような戯れなど一切なく、もはや私は老人で、健気な娘の世話に強がりすら見せられない憐れな男だった。

 フィッカは話を盛り立てようと必死だったが、対して私は、彼女の行動の一切合切、そのどれもが贖罪めいて空々しく思え、気が滅入る一方だった。

 寝る時分はさすがにもう、ベッドを共にするわけにもいかなかったので、私は相談なく床の上に横たわった。

 フィッカは最後まで遠慮していたが、それがまたいっそう腹立たしく、私を意固地にさせた。

 彼女はもう、この家の子ではない、今はただの客人であり、ましてや妊婦。

 廃人の私とて、これ以上は惨めになるにも限度があるではないか。

 彼女も、こればかりは渋々了承、そうして無難な消灯に至った。

 ほどよく夜も深まった頃、私は静かに起き上がった。

 ランプを点けてよたよたとダイニングへ向かい、酒を飲んだ。

 迷いなどなかった。今はほかに考えられない。酒酒酒。欲求に身を任せた。毎夜のことだが今日は特別だった。格別だった。美味いとか不味いとかではない。気分の問題。生涯で最も不快な日。

 屈辱的だった。ゆえに酩酊は秒読みだった。

 ふと、目の端でナイフが光った。テーブルに置かれた、パンを切り分ける為のナイフ。

 幾度か、あれで自らの喉元を引き裂く幻覚を見た。とは言え実際には、自害の為に柄を握ったことはない。

 だがこの夜、私は迷いなくナイフを手にした。それから寝室に戻り、ベッドの傍らに佇んだ。

 フィッカは穏やかな寝息を立てている――幸せそうだ、膨らんだ幸いを抱え、もういっぱしの母親のような彼女の、なんとも幸せそうな寝顔――私を置き去りにし、絶望に突き落としながら、この女は。

 フィッカの毛布を剥ぐ。衣服の上からでも分かるほど張りのある乳房、晒された肌はどこを眺めても真白く、触れずともその滑らかさを想像できる。

 すらりと伸びた足にも、無駄な肉付きは見当たらない。昔日の予見通り、女としての造形美は至上の出来映えとなるはずだった。

 しかし、邪悪なことに、これは傑作ではない、見ろ、この醜く膨らんだ下腹部を……なんという穢れ、なんという冒涜。その一点のみで美貌を醜悪に変えるなんと愚かなことか。私は慨嘆した。

 けれども悲観することはない。ナイフならば腹を裂ける。

 醜く膨らんだ腹も切り取るには容易い。怖れることはなにもない。なに一つない。

 穢れを削ぎ、傑作にする。

 それが私の使命。芸術家としての到達点、終着点。

 完結は近い。この一振りで、一突きで、一裂きで。

 相成る。彼女が孕んだ汚穢を、邪悪を除去すれば。

 そうして私は、見えない糸で操られたようにぎこちない手つきでナイフを握り直し――振り下ろした。

 刹那、月明かりの静寂が破られる。

「……あんた?」

 彼女が目を覚ました。

 恐らく、ナイフが床に叩きつけられた音に気づいて。

「どうして、泣いているの?」

 殺意を手放した私は、彼女の腹の上でむせび泣いていた。

 わけなどない、ただ確かなことは、彼女の腹を擦るこの手が、芸術への狂気に支配されなかったこと。

 親子のようであった時分を捨て切れなかったこと。

「ごめんなさい、あんた、なんて……つい、昔のように」

 私はかぶりを振った。「そのままでいい、そのままで……」と答えた。憐憫な眼差しなどもう気にならなかった。

 彼女は上体を起こすと、私の濡れた頬にそっと触れて、

「あの頃は、あんたが、あたしの涙に寄り添っていた。だからこそ今、この夜は感慨深い」

 この日初めて、私は彼女のささやかな喜びに同調した。

 憎しみは雫と共に零れ落ち、体から解き放たれていった。

「信じてもらえるなんて思わないけれど、いつだったか、あたしが言ったこと……きっと、幸せだからって」

「そりゃあ、私が怒鳴った日の……」

「そう。あの時にはもう、あたしはあんたを騙していたけど、それでも、あの言葉だけは本意だったの、心からの気持ちだったの……偉い絵描きなんかじゃなくたっていい、あたしに名前をつけてくれて、育ててくれて、それだけで充分に、幸せだった。紛いものでも、あたしにとっての父親は、あんただけだった」

 私の頭を撫でる手つきは、冴えかえた夜風のように優しく、再びあの愛撫の日々を懐古させた。

 授かった幸いに慎ましく胸を躍らせる微笑み、それが私の濡れた頬にも反射したのだろう、自然と口元を綻ばせる自身がいたことを私は自覚した。

「この子の名前、もう決めてあるの。ユリアス様にも言ってある……あたしにとって、最も大切だった人の名前を授けるからって。女の子だったら、さすがに少しだけ、変えるかもしれないけど」

「それが、いい……きっと可憐だろうね」

「ええ、いつか、また会いに来るわ。ほら、おじいちゃんだよって、この子に紹介しなくちゃだから」

 はにかみ、お茶目に答える彼女には、在りし日の面影が充分に感じられた。私は呆れたように笑った。

 だが実際には、私が彼女に会ったのはこれが最後となった。

 フィッカが隣国に帰り、また一年ほど過ぎた頃、彼女が産褥死した報せが届いた。

 手紙の差出人は不明だったが、経過が詳細に書かれている辺り、誰が出したのかは明白だった。

 幸いにも彼女が産んだ子は無事で、非嫡出子として宮廷に迎えたとあった。

 同じ頃、私が依頼を受けていたジョコルド氏が亡くなった旨を知り、必然的に依頼も破棄された。

 つまりあの、孫娘様から母を連想しようと企んだ肖像画のデッサンは、不要になった。

 生きる糧を一度に喪失した私は、けれど悲しくはなかった。ただ前にも増して酒を呷った。自殺行為? その通りだ。

 私はもう、死を早める為だけに飲んでいた。ゆえに悲しくはない。ただもう死のみが救済だった。

 が、おなじみのナイフには手を伸ばさない辺りが滑稽で、死そのものを悲哀とは捉えないが、死そのものに怯える自らが介在するのも事実だった。私は緩慢に墓場への道を歩く死にぞこないだった。

 ある時、水溜りに転げる夢を見た。

 それは池沼のようでもあり、酒のようでもあった。

 底が浅いのに沈む感覚があり、これがどうにも心地よく、安穏に思えた。

 もしやこれが死か、この温もりに溺れれば助かるのか。

 私は薄らと笑った。生温かい終焉に身を委ねかけた。

「ねえ、ねえってば」

 幼い声が降った。私は目蓋を開いた。

 水溜りの傍らに少女が佇立していた。

 色白い肌で、華奢で、黒髪と翡翠の目が煌めく少女。

「あたしのお母様は、どこ?」

 泣きそうな声で訊ねられた。

 私は「知らぬ」と答えた。

「あたしのお母様は、誰?」

 私はかぶりを振った。水溜りに顔を擦りつけるように。

「あたしのお母様は、どんな人?」

 ――私は目を覚ました。

 水溜りではない、ダイニングの床の上だった。室内は酒のにおいで満ちていた。

 小鹿のように立ち上がり、アトリエに向かう。ジョコルド氏の孫娘様を描いたカンバスと、フィッカをデッサンしたカンバスを取り出した。

 後者は、仮想的な叱責を行う為に急遽こしらえた、あのデッサンである。

 夢に現れた少女は、フィッカのようでありフィッカではなかった。似て非なる存在だった。

 少女は知らないなにかを、あるいは知っているはずの誰かを探しさまよう迷い子に思えた。

 それはまるで、ジョコルド氏の孫娘様が、自らを残し他界した母の残像を求めたような――熔けかけた蝋燭よ、風前の灯火よ、まだ消えるには早い、今がその時、心のうちの、紛いものを消してゆけ、残ったものに愛は宿る――ゆえにこれが、最後の大義である。

 私は筆を執った。彼女を、真実の愛を描き出す必要があった。

 私は母を知らない。母性を表現することは叶わない。

 だからこそ素直に、ただ彼女を描いた。

 彼女が最も可憐だった頃、まだ題のなかった頃を。

 あの冬の日――凍てつく空のもとに行き倒れ、無精者の手によって拾われた様。

 一糸まとわぬ姿、線の細い体躯、肩まで伸びた艶やかな黒髪、翡翠の瞳、その一切を地に墜ちた妖精のように、何日も寝ずに描いた。完成に近づくことだけが愉悦、生きる糧、意味であった。

 意識を保つべく、露命を繋ぐべく、時には酩酊任せの下手くそな詩を読み上げながら筆を動かした。

 

 愛は考えてはいけない。

 愛は隠してはいけない。

 愛は望んではいけない。

 愛は迷ってはいけない。

 愛することを、愛してはいけない。

 愛とはただ、誰かの為に……。

 

 この時分、私は芸術において最後の挑戦をした。

 それは知らないこと、感じたことのないものを描く試みだった。

 母性とはなにか、なにを持って母の愛を感じうるのか、そうした自問を課し、カンバスに描き表わした。

 私が出した答えは、目線だった。そして微笑みだった。

 絵の中の彼女、その瞳をこちらに向け、柔らかな微笑と共に見る者全てを捉えるような絵に至った。

 だが彼女は、決して、万人に笑いかけているのではない。

 夢の中の少女、私を死から引き留めたあの少女だけが、この笑みの真意に気づけるだろう――なあ、愛しかった一人娘よ。

 カンバスの裏に題名を記して、私は眠りに就いた。

 在りし日のように、題を持たない少女を傍らに抱きながら。

 

  ♀

 

 めかすのは嫌い。体が重たくなる。

 私はもっと、自由に走り回りたい。

「お嬢様、お時間ですよ」

 使用人のアレッサンドロが部屋に来た。私は「ええ」と答え、

「今日はどこへ行くんだったかしら」

 本当は覚えていたけど、とぼけた振りをして訊ねた。

 予想通り、面白味のない顔のアレッサンドロは不思議そうに首を傾げ、

「ヴィレンツィアでございます。グラルディール公の宮廷で会食とうかがいましたが……」

「そうだったわね」私は椅子から立ち上がる。「お兄様は既に?」

「はい、ハルトロメオ様はもう馬車に」

「そう。では行きましょうか」

 重たいドレスを引きずる気分で宮廷を出ると、門のすぐ前にキャリッジが用意されていた。

 アレッサンドロが客室のドアを開けると、先に乗っていたハルトロメオが憎たらしい笑みで出迎え、

「やあ妹君。遅いじゃないか。さっきまで馬が鼻を鳴らして嘆いていたよ、まだかまだかって」

「愉快なお馬ね。きっと頭の中身がお兄様と変わらないんだわ」

「さすがに鋭いな。聞いたところだと、この馬たちの歳は人間換算なら僕たちとほぼ変わらないらしい、十五、六歳ってとこだとか」

「歳の話はしていないわ。あと、さりげなく私を同類のように言うのはよして」

「そりゃあ、君が変に皮肉ったせいだろう。僕が真面目に楽しませようと努めたのに」

「では不真面目でいいからお静かになさって。馬車酔いならともかく、憂鬱で頭を重くするのはごめんですもの」

 あしらいが作用したか、馬車に揺られる間はハルトロメオも静かにしていた。

 あとはこの重たい衣装を脱ぎ捨てられたらどれだけいいだろう、私は嘆息した。ええ、叶わない願いと知ってのこと……投げやりに窓の外へ視線を傾け、人混みのあるメトロポリスの風景をぼんやりと眺めた。

 グラルディール公の宮廷に着いてからは、毅然として振る舞った。

 出迎えた家政監督長にも労いの言葉を忘れず、ハルトロメオに対しても仲の円満な兄妹のように接した。

 すると、彼は大いにつけあがって口数が増えるから困る。こちらの思惑を汲み取れない辺りが本当に嘆かわしい。

 案内された食卓は小規模であるものの、品のあるテーブルクロスがかけられ、カトラリーや取り分け用の皿、巧みに折られたナプキンまで既に用意されている。

 私たちが席に着いたのと同じ頃にグラルディール公が姿を現し、

「久しぶりだね、ハルトロメオ」

「お久しぶりです、グラルディール公」とハルトロメオが挨拶したのに合わせ、私も一礼する。

 グラルディール公は禿げ上がった頭を掻きながら、人のよさそうな笑みを作り、

「そちらのお譲さんは、ここへ来るのは初めてだったね。ハルトロメオの妹の、確か名前は」

「イヲリトです」私は答えた。「お初にお目にかかります」

「そうだったね。いやぁ、別嬪なところは公爵夫人似だろうかね……」

 グラルディール公の取り繕うような言葉に、私は自然な笑みを向けたのみだった。

 しかし内心は、穏やかではなかった。席を立ち、ドレスを引き裂いて逃げ出したい衝動に駆られた。

「ああ、ええ、母も挨拶できればと申していましたが……」さすがのハルトロメオも私の心情を察したか、機転を利かせて話頭を転じる。「都合が悪くなり、申し訳ないと」

「構わんよ。未来の枢機卿を招くことができただけでも僥倖だ」

「相変わらず、公爵は口がお上手で。枢機卿など、万一にも先の話です」

「有力には違いないだろう……おや、お嬢さん、なにか気になることでも?」

 知らない間に俯いていた私に、グラルディール公が不思議そうに訊ねてくる。

 対して、ハルトロメオが「馬車酔いでしょう」と気を遣ってきたので、それで余計に腹が立ち、

「いえ……食卓に、感服していたのです」と、ハルトロメオの気遣いを裏切る形で取り繕う。「燭台も、飾りのバラも、もっと言えばカトラリーからお皿の配置まで、緻密な配慮がうかがえます」

「なるほど、これは鋭いお嬢さんだ」心ないおべっかは果たして成功し、グラルディール公は今まで以上に機嫌をよくした。「最近、隣国で体験した饗宴の給仕方法に感心してね、再現できるよう食事監督官に頑張ってもらっているんだ」

「食事監督官、ですか」

「ああ、食卓のセッティングもそうだし、料理を出す際のタイミングやパフォーマンスまで全てを指揮してくれている。料理の内容についても、以前より充実している」

「さすがは公爵、他国の文化にも精通されているのですね」ご機嫌取りにはハルトロメオも続き、「食事の際がいっそう楽しみとなりました」

「嬉しいことを言ってくれる……が残念なことに、メディスの馬車はだいぶ元気が良かったのか、君たちの来訪がこちらの予想よりも早くてね。料理は今しばらく待ってもらう必要がありそうなのだ」

「いえいえ、時間などお構いなく……」

「いや、このままここで退屈させるのは申し訳ない。なにか上手いもてなしを考えていたのだが、若いお二人を楽しませる余興などもなにもなく、どうしたものかと」

「お戯れを。なにもないなどと、そのようなことは。公爵は当国随一の文化人、数多のコレクションをお持ちと父よりうかがっております」

「ユリアス公ほどの審美眼はないがね。私は有名無名問わず、己の価値観のみで判断して集めてしまうものだから、傍から見れば玉石混淆と言われかねん」

「しかし公爵の慧眼には、父とて並ぶほどではないでしょう。ぜひ、拝見したく存じます」

 ハルトロメオの提案により、食卓から移動する破目になった。

 私は服が重いから動きたくなかったが、微笑みの仮面は壊せなかった。私も二人について行った。そうする以外の選択肢など存在しなかった。

 廊下を歩くさなか、軽薄な兄上から「気にするな、公爵も悪気はない……」と囁かれたので、私は「なんのことかしら」とわざとらしく微笑む。

 ハルトロメオは申し訳なさそうに目を逸らした。陰鬱な気分は募るばかりだった。

「この廊下の絵画も全てコレクションでね。無名のもの、これから有名になるかもしれない画家たちの分を飾ってあるんだ」

 悠然と歩きながら説明するグラルディール公と、意味もなく何度も頷いている不肖の兄。

 機嫌を誤魔化すのにさえ疲弊してきた私は、まるで興味を持てないカンバスの並びを眺めながら歩を進めていた。

 ――そして、足を止めた。

「イヲリト? どうした」

 異変に気づき、ハルトロメオがこちらへ引き返してくる。

 私は一覧していたカンバスの中で、ある作品に目を奪われていた。

 理由は分からない、ただ一つ確かなのは、それが少女を描いた絵であること。

「気になる絵があったのかい?」グラルディール公も私の傍まで来て、「ああ、これは旧知の絹商からもらったものだ。処分に困っていると言っていたから、私が引き取ってね」

「幼い少女の裸婦とは、めずらしいですね」ハルトロメオが答える。「しかしなにか、幻想的です。抱きかかえられている構図も不思議ですが、艶のある黒髪、瞳もエメラルドのように輝いて、こちらを見つめているのもどこか妖艶な気配が……可憐な少女の、魔性を表現した作品でしょうか」

「詳しいことは私も知らない。持ち主も誰が描いたかは覚えていないと言っていたし、なによりその絵は、題名がないんだ。カンバスの裏には『無題』とあるから、もしかするとそれが題なのかもしれんが」

「興味深い話です。僕はこの絵、気に入りましたよ。どことなくですが、幼い頃のイヲリトにも似ていますし……イヲリト?」

 ハルトロメオからの呼びかけに、私は上手く返答できなかった。彼は紳士な具合に私の肩を抱き、

「イヲリト、なぜ君は、泣いているんだい? そんなにも嬉しそうに」

「……それが、まったく、分からないのです」

 頬を伝うわだかまりを拭いながら、私は再び絵の中の彼女と目を合わせる。

 表面的に評した二人とは違う、もっと別の優しさを感じ取りながら。

 この絵の彼女は、きっと幸せだったに違いない。こんなにも美しい描き方をする者と巡り合えたのだから――それだけは、はっきりと伝わってくる。

 涙の為にぼやけた声を振り絞り、私は答える。

「ただ私には、このカンバスの少女が、少女に思えないのです……彼女の眼差しが、微笑みが、私にはどうしてか、母の愛を表現しているように思えて、ならないのです」


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