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ニワトリも泣く



起床ラッパの役目を果たしていたニワトリを美味しく頂いた夜も明け方、消化ずみであるはずのそのニワトリのコケコッコーが耳をつんざき、目が覚めた。
それは3月で、朝方はいまだ深く冷え込み、私は毛布を肩まで寄せると、鶏鳴をいぶかしく思う間にも眠気が、深い霧のように覆いかぶさり、また眠り込んでしまう。
そうして9時になった。晴れの日には、鋭い陽光が差し込む窓辺では、ねずみ色の陽光が間接光のようにおぼろげに差し、それで今日が曇りか雨、ということが、外を見るまでもなくわかる。

ぬるい雨の湿度を感じる。それから、台所で営まれる家事に伴う水蒸気が、部屋にまで漂ってきているのを感じる。
「もう9時だで!おきん!」
とバアがひょっこり現れて、投げつけるようにそう言う。
「なあバア まだニワトリっておるの?いつもの時間にコケコッコーって聞こえたのバアもきいた?」
「きいとらん あんた昨日食べたばっかりだが だで外には一匹もおらんよ」
「じゃあゆめだったのかな」
「ゆめにきまっとるが」
き と と に強いアクセントを含ませて、バアはそう言い、ピィーっと鳴りはじめたやかんのほうへ吸い寄せられて、台所へ姿を隠してしまう。

霧雨のささやかな雨粒が風に従って、向きを変えながらそよいでいる。縁側で胡座をかいて、ジイはなにかの設計図を書いていた。いつも薄汚れたステテコを履いていたのを印象的に思い出す。
「食べてすぐはまだ身になっとらんもんで」
とジイは言い、ニヤッと笑う。ジイが笑う時、先端が欠けて黒くなった前歯がいつも目につく。
今朝の鶏鳴に対するジイの返答はそれだけだった。

ジイの言わんとしていることが、食べて日が経っていないうちは、ニワトリの肉が身体に留まっており、ニワトリに関連する夢を見ることがあるという、まじないめいたことなのか、ニワトリの屠殺とそれを頂くことに馴れていない私のような者には、そういった夢を見てしまうことがあるという事なのか、今となっては知る由もない。

私がニワトリの屠殺をはじめて見たのは、この話の前日だった。その時のことを私はもうあまり憶えていないのだが、幼き私は少なからず衝撃を受けていたはずで、いないはずのニワトリの鳴き声を聞く夢をみるというのは、前日のことを加味するなら、なんら不思議なことでは無いと思う。

二人と話す度、唐突に言葉を投げられ、受け止められなくても一向お構いなしといった風で、いまだに何を言わんとしていたかが分からないことも多い。
だからこそ私は、二人が私に投げかけた言葉のいくつかをいまだに忘れず憶えていて、その言葉の前後を想像で補い、言わんとしていたことを推測するのを今でも楽しんでいる。

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