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私が“人に寄り添う心”に目覚めたきっかけ。ツイテナイことから教わった話。

ずっと自分のことを「運がない」と思っていた、私。

10代の若いうちから難治性の病気になり、20代ではガンを患い、その他にも30代に入ってからはマイナーな病気にかかり、そのうえコロナ禍で仕事も解雇になって、

なんだかもう・・・ツイテナイ!!!!と。

病気のせいで制限が多く、社会的に弱い立場に位置していると自分で思っていた私は、それはそれは自己肯定感が低い人間でして。

でもね、思い返してみると、私が「ツイテナイ!運がなさすぎる!」と思っていた出来事に、実は救われていたこともあったりして。


たとえば「人の痛みに寄り添える人間になれたのも、自分がツラく大変な思いを経験しているから。


生まれてずっと健康に過ごしている人と話していると、当たり前だけれども、病気で不自由をしている人の気持ちを全然分かっていない。というよりも、そもそも、その意識を持っていなくて。

いや、そりゃそうなのよ。
そりゃそうだし、そんなことする必要もないから。

そりゃそうだ案件なんだけれども、そのなかで私は「相手のことを少しでも知りたい」という気持ちになってしまうという話。


それはなぜか。

答えは至ってシンプルで、私自身が病気で困っているときに、家族や友人、仕事仲間にたくさん助けてもらった原体験があるから。

だから私も「そうしたい」と、無意識で思うようになっていた。


そしてそれは、病気の人だけが対象ということではなく。

「同じように病気で苦しんでいる人の助けに、少しでもなりたい」「人の痛みに寄り添いたい」という気持ちがベースにあるんだけど、そこから派生して、気づけば「人の心に寄り添える人間でありたい」という思いに繋がった。

気持ちを汲み取りすぎて、ポジティブな心もネガティブな心も、すべてダイレクトに受け止めて、そして自分ごとのように感情が揺れ動いてしまうのは、私の良いところであり・悪いところでもあるんだけれども。

でもそんな感じで過ごしてきたからか、友人からの相談役になることも、知らない人から道を尋ねられることも、なんだかとても多かった。

自分には足りない部分がとてもとても多くあるけれど、なんだかんだで、「寄り添う力」で補っていたような気もする。


自分の感情までもが揺さぶられて疲弊してしまうこともあるけれど、それも全部ひっくるめて、昔も今も変わらず、人の話を聞くことが大好き

私との対話をきっかけに「救われた」と言ってくれる人がいるかもしれないし、私自身も、自分以外の誰かの人生に触れることで気づき・成長に繋げることができる。

なんとも貴重な時間だな、と感じずにはいられない。


人の話を聞くこと
をガッツリ仕事にしたい気持ちも一時期あったが、そうしてしまうと「私の心がもたないよね」と。夫にも言われたよ。よく分かっていらっしゃる。


とはいえ、バッサリと切り離すこともできなくて。


結果、今では、こうした文章を書いたり、お客さまの想いを表現するWebデザイン業を始めたりして、人との繋がりを持ち続けられる方法を日々模索している。


自分に降り注いだネガティブな出来事。

絶望する瞬間もある中で、そこから何を見出して・前向きな出来事に変換できるか。すべては自分次第であり、いかに行動できるか──。それに尽きるな、と強く実感中。

これからも。

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