森氏の差別的発言について。

こちらの記事に全文が上がっていますが、一応以下に記しておきます。

「【3日のJOC臨時評議員会での森会長の女性を巡る発言】これはテレビがあるからやりにくいんだが、女性理事を4割というのは文科省がうるさくいうんですね。だけど女性がたくさん入っている理事会は時間がかかります。これもうちの恥を言いますが、ラグビー協会は今までの倍時間がかる。女性がなんと10人くらいいるのか今、5人か、10人に見えた(笑いが起きる)5人います。女性っていうのは優れているところですが競争意識が強い。誰か1人が手を挙げると、自分も言わなきゃいけないと思うんでしょうね、それでみんな発言されるんです。結局女性っていうのはそういう、あまりいうと新聞に悪口かかれる、俺がまた悪口言ったとなるけど、女性を必ずしも増やしていく場合は、発言の時間をある程度規制をしておかないとなかなか終わらないから困ると言っていて、誰が言ったかは言いませんけど、そんなこともあります。  私どもの組織委員会にも、女性は何人いますか、7人くらいおられますが、みんなわきまえておられます。みんな競技団体からのご出身で国際的に大きな場所を踏んでおられる方々ばかりです。ですからお話もきちんとした的を得た、そういうのが集約されて非常にわれわれ役立っていますが、欠員があるとすぐ女性を選ぼうということになるわけです。」(太字部分は筆者による。)

問題点を簡潔に。


少なくとも太字部分の発言がジェンダーに関するステレオタイプに基づく不当な差別的発言に当たります(もう少し多いかもしれません)。上の発言における「女性は〜だ」とか「女性だから〜だ」といった言説は、ジェンダー・ステレオタイプに基づく不当な差別でしかありません。森氏はそうした妥当でない発言を公的な会見の場で(意識的であれ無意識であれ)してしまったのですから、そのような発言に批判が集まることは妥当だと考えられます。


* * *

「批判」と「いじめ・叩き」の違い


ところで、「批判」と「いじめ・叩き」は違います。


手元のデジタル大辞泉で「批判」という語を引くと、

「1. 物事に検討を加えて、判定・評価すること。
2. 人の言動・仕事の誤りや欠点を指摘し、正すべきであるとして論じること。」

とあります。一方、「いじめ」という語を引くと、

「肉体的、精神的に自分より弱いものを、暴力やいやがらせによって苦しめること。」

とあり、「叩き」あるいは「叩く」の該当する項を引くと、

(叩き)「徹底的に批判すること。また、厳しく仕込んだり、攻撃したりすること。」

(叩く)「相手の言論・文章などを徹底的に批判する。強く非難する。」

とあります。


「批判」は物事や言動の是非を検討し、その判定・評価をすること、そしてその検討・判定・評価を根拠に批判の対象となる物事・言動について正すべきであると論じたりするという点において、記述の中心は物事それ自体にあります。


それに対し、「いじめ・叩き」は(「叩き(叩く)」の定義に「批判」という言葉が使われてしまっているという若干の問題がありますが)、相手を攻撃したり非難したり苦しめたりする行為それ自体に焦点が当たっています。


両者の違いはまさにここにあると考えられます。「批判」については、物事の是非を検討・判断することに立脚するため、仮にその検討が妥当でないものであるならば、そこでなされる批判は棄却されることになるはずです。つまり、どれだけ「私はこう思う」と意見しても、妥当な検討のもとで妥当な説明がなされなければそれは批判になり得ないということです。


一方で、「いじめ・叩き」はその行為自体に焦点が当たっているため、それが妥当であるかどうかは問題になりません。どれだけ不当な意見であっても、それは「いじめ・叩き」として成り立ってしまうと考えられます。


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ここで、話を最初の森氏の発言に戻します。森氏の発言は、無根拠に(あるいは主観に基づいて)「女性は〜だ」という、ジェンダーに関するステレオタイプに基づく不当な差別的発言でした。その発言を不当なものとして判定し、それを正すよう論じること、また少し敷衍してその発言の責任を追求することは、まさしく前述した辞書的な定義における「批判」であり、そこでなされている検討も妥当なものだと考えられます。


このような妥当な検討に基づいた「批判」を、「いじめ・叩き」といった言葉で一括りにして一蹴してしまうすることは、適切ではないと考えられます。妥当な検討・判断に基づいた「批判」に対して、ただ自身の主観や気持ちに基づいて「寄ってたかって叩くのはどうなの」とか「いじめの構図と一緒」というレッテルを貼り付けてしまう行為によって、当事者の責任が矮小化され、さらに責任を負うべき存在が「批判する人たち」に転嫁させられてしまうことになりかねません。


つまり、主観に基づいた「女性は〜だ」というジェンダーに関するステレオタイプに基づく不当な差別的発言を公的な会見の場でしたことの責任は、一貫してそのような発言をした森氏に帰されるべきであり、それを追求することは不当な差別に対する妥当な批判であるわけですが、そのような「批判」を「いじめ・叩き」と混同して逆にそのような態度を批判した気になっているような発言が流布することによって、差別的発言に対する森氏自身の責任の重大さに対する認識が薄れ、「いじめや叩きはよくないよ」という「批判する人たち」ひいては日本社会のあり方の問題に責任の所在が転嫁されてしまうことになると考えられるということです。


今回私が言いたかったことは上のようにまとめられそうです。


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言葉の使い方に見えるステレオタイプについて


女性理事の数を4割まで引き上げることを「文科省がうるさくいう」という森氏の発言には、少なくとも数的な平等や機械の平等を達成するために女性を積極的に登用することに関して煩わしさなり鬱陶しさなりを感じていることが現れていると考えられます。


「うるさい」という語をデジタル大辞泉で引くと、

「注文や主張や批評などが多すぎてわずらわしく感じられる。細かくて、口やかましい。」

という定義の項があります。追及されるべき主要な問題は、その言葉を使う必要のない(というより、使うべきではない)場面でわざわざ「うるさくいう」という語を使ったことにあると考えられます。


次に、
「私どもの組織委員会にも、女性は何人いますか、7人くらいおられますが、みんなわきまえておられます。みんな競技団体からのご出身で国際的に大きな場所を踏んでおられる方々ばかりです。ですからお話もきちんとした的を得た、そういうのが集約されて非常にわれわれ役立っていますが、欠員があるとすぐ女性を選ぼうということになるわけです。」
という発言について。


誰が言った言わないによらず、「女性は競争意識が強く発言が止まないため女性がいる会議は時間がかかる」という趣旨の文脈に続けて組織委員会にいる女性が「みんなわきまえて」いることを強調することは、少なくとも組織委員会の女性については例外として、女性について「発言が止まずに会議の円滑な進行を妨げる」という点において「わきまえていない」ということを含意していると考えられます。


このことは「ですから」という接続詞の使い方を見ることでもそれなりに明らかになると考えられます。上の森氏の発言を見ると、

「組織委員会の女性はみんな(競技団体からの出身で国際的に大きな場所を踏んでいるために)『わきまえているから、話も的を得ており、かつ集約されている』」

という形にまとめられそうです。この二重カッコの部分は、それが正しいと仮定するならば、

「話が的を得ていないかまたは集約されていないならば、わきまえていない」

ということも意味しうると考えられます。


この観点から森氏の発言においては、組織委員会の女性を例外として「女性は発言を止めずに会議の円滑な進行を妨げる」という文脈のもとで、「発言を止めずに会議の円滑な進行を妨げる」ことを「話が的を得ていないかまたは集約されていない」ことであるとされ、さらに「話が的を得ていないかまたは集約されていないならば、わきまえていない」ということを含意されることによって、「女性はわきまえない」という帰結が導かれてしまうことになっていると考えられます。


少し議論が乱暴かもしれませんが、温かい目で見てください。


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その他、問題点


もう少し考えたいことはあるのですが、時間がないのでそのうちやることにします。トピックを先に挙げておくと、

・数(機会)の平等はとても大事

・誰が言った言わないではなくこのような差別的な発言が公的な場において引き出されてしまうような状況そのものが問題

・発言を撤回すると言ったからといって責任が消えるわけではないこと

といったあたりでしょうか。まあ、気長にやります。


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