3月11日。

2022年3月11日。東日本大震災から11年が経過するとともに、東電福島第一原発事故(以下、福島原発事故と表記)が11年目に突入する年でもあります。

というわけで、最近(1年前ですが)読んだ原発についての良書が指摘する論点について軽く紹介します。参照する文献は、

ピーター・ヴァン・ネス (2019)  "フクシマの教訓 9つのなぜ" 〈ピーター・ヴァン・ネス, メル・ガートフ編著 (生田目学文訳)『フクシマの教訓 東アジアにおける原子力の行方』, 論創社〉 pp. 343-355.

です。参照する論文では、同書他の章の論考を総括すると同時に、福島原発事故が提起した原発稼働の問題点を9つに類型化しています。ということで、この9つの論点に沿って、現在の日本と日本を取り巻く世界の状況を踏まえながら今後の原発のあり方を確認します。

*     *     *

1. 建設の初期費用

原発の新規建設は巨大なプロジェクトであり巨額の費用がかかります(だからこそ政府から巨額の資金が供出されてきたわけですが)。

一方で、その費用をどこまで見積もるかということは極めて不明確であって、例えば廃炉費用や高レベルの放射性廃棄物の処分費用は見積もりに含めるのか、それらを長期的な時間的枠組みのもとでどのように見積もるのかという問題があります。

そして重要なことは、福島原発事故のような「想定外の」事故による廃炉の費用は何倍にも膨れ上がります。

「福島原子力事故に関連した必要資金規模は、被災者賠償8兆円、廃炉8兆円、除染・中間貯蔵6兆円の合計約22兆円へと倍増すると試算されている。」[1]

ちなみに2022年の日本政府の一般会計予算総額は約107兆円ということです[2]。ひとたび事故が起これば少なくとも単年度国家予算の20%に相当する費用(そしてその費用の大元は私たち市民が払った税金です)を拠出しなければならないような施設は本当に"安定的"な電力供給源といえるでしょうか(この比較はあまり適切ではないかもしれませんが)。


2. 原子炉の運転および維持における専門的スタッフの必要性

原子炉を建造・管理し、職員の放射線防護を徹底し、電力を安定的に供給するための専門的職員の存在は原子力発電所の管理運営に不可欠ですし、そのような人材を供給し続けるための専門的な教育や訓練を行うことを政府や原発関連企業が保障し続けることも不可欠です。専門的職員の存在もそうした人材育成も、どちらかでも欠ければそもそも適切な管理の維持は破綻します。

ところで、原発事故発生後の事態収拾に際しても何重もの多くの下請け労働者が危険な環境で低賃金で働いていたことは多くの人がご存知だと思いますが[3]、果たしてこうした労働のあり方を前提にして原発の維持・管理や事故後の事態収拾が適切になされるのでしょうか。またそこで働く人々の健康への権利、労働者としての権利は守られるのでしょうか。私は疑問に思います。


3. 独立性と透明性を兼ね備えた規制機関の確立

同書では、日本の原子力事業の独立性および透明性における深刻な問題として、既得権益を持つ電力会社、原子力事業者、官僚、政治家、経済界、マスメディアなどからなる閉鎖的な「原子力ムラ」が構築され、福島原発事故の際に責任のある立場のある者が全く対応できなかっただけでなく信頼できる情報を国民に与えることすらできなかったこと、結果として国民の東電や政府から発される情報に対する不信が生じたことが指摘されています[4][5]。

さらに、一般的には原子力業界に対する規制は業界自身による規制につながることも指摘され(日本の状況に重ねれば、原子力規制は「原子力ムラ」に属する主体が全て担ってしまうということです)、結局、独立性と透明性を兼ね備えてかつ説明責任を果たすことのできる原子力規制機関の確立は、ほぼ不可能であることが福島原発事故で立証されたとしています。


4. 事故発生時の責任

原発事故が発生した場合、チェルノブイリや福島の例からも明らかなように事故の責任者には巨額の費用負担が生じます。福島原発事故においては、政府や「科学者」の対応や言説およびそこに見える態度が、まるで避難者含めわれわれ市民が「正しく怖がる」ことができていないことが1番の問題であるかのようなものであり、原発事故についての東電や政府自らの責任を等閑視するようなものでした[5]。

「問題なのは、民間業者は原子炉を売る一方、事故が発生しても責任を免れたいと考えていることだ。」[6]


5. 通常の状況と異常な状況それぞれにおける廃炉の費用および作業工程

1の項目と関連しますが、放射性物質には半減期が数十年〜数万年のものもあるため、それらの処理も含めて廃炉には超長期的な工程が必要になると考えるのが妥当ですが、一方で廃炉を完了させる前に関連企業が倒産したり、規制責任を負う政府が変わったりしたらどうなるか、という疑問が提起されることになります[7]。


6. 原子力発電と核兵器の関係

この項で指摘されている視点で皆さんと共有したいのは、原発も結局は核の利用の一形態であって、その運用を原理的に支える原子物理学はいつでも核兵器開発に転用可能であること、そして少し話の方向が異なりますが、原発の設置は物理的攻撃であれサイバー攻撃であれテロの標的となりうることです。

現在、ロシアがウクライナに軍事侵攻を開始したことが世界的なニュースになっており、その様子が報道メディアやSNS等を通じて日本で暮らす私たちの目にも入ってきます。その中で、ロシア軍がウクライナの原発施設を占拠したとのニュースもあり[8]、「原発が対国家的な物理的攻撃・サイバー攻撃の標的となりうる」という危険性が、誰の目にも明らかになったように思います。


7. 核廃棄物の処分問題

5の項目と関連しますが、高レベルの放射性廃棄物の処分を今後どのように行っていくのか、ということです。

「現在のところ、高レベル放射性廃棄物を永久貯蔵する現役の施設は世界中に1カ所も存在しない。」[9]


8. 放射線被曝による健康への影響

この項については、

ティルマン・ラフ (2019) "電離放射線が健康に与える影響" 〈ピーター・ヴァン・ネス, メル・ガートフ編著 (生田目学文訳)『フクシマの教訓 東アジアにおける原子力の行方』, 論創社〉 pp. 219-257.

や、注[5]であげた文献を参照していただくとよいと思います。

ところで、原発事故10年目突入を前にして、以下のようなニュースが報道されました。

https://www.jiji.com/jc/article?k=2021030901138&g=int

※既にリンクが切れているのでインターネットアーカイブなどのサービスを利用して上記リンクを貼り付けてご覧いただけるとよいと思います。

以前からどこでも何度も言われてきていることだと思いますが、福島第一原発の周辺地域で「甲状腺がんと診断される子どもが増えていることについて、被曝による健康被害は考えにくい」ということと、周辺地域で「甲状腺がんと診断される子どもが増えていることについて、被ばくを直接の原因とする健康被害が識別可能な水準で確認されることは考えにくい」ということとは、全く別のことです。

このことについてわかりやすく説明されているYuri Hiranumaさんの2021年3月11日のツイートがあるので引用します。

毎回毎回お馴染みの、”not discernible”という表現がミソ。被ばく由来の発がんが発生すると否定しているわけではないのに、統計的に被ばく由来であると識別できないから、プレスリリースなどでは、「がん発生率上昇はみられない」ということになってしまう。

甲状腺がんの発症が「統計的に被ばく由来であると識別できない」ことは、甲状腺がんの発症が「被ばく由来ではない」ことを意味しません。

放射線被ばく防護の観点における妥当なモデルとしてはLNT(直線閾値なし)モデルが採用されており、これは生涯通算100mSvの被ばくで発がんのリスクが0.5%増加するという直線的な関係(つまり1000mSvの被ばくで5%、10mSvの被ばくで0.05%)を少なくとも放射線被ばく防護の目的においては採用しようというものです[10]。

重要な点は、LNTモデルは実証研究に基づいた放射線被ばくのリスク管理に最も実用的なアプローチとして放射線被ばく防護に利用されていること、そしてそれを放射線防護のための妥当なモデルとして採用している以上、放射線防護の観点からは被曝量がどれだけ小さかろうと「被ばくの身体健康への影響がない」と言い切ることは論理的にできないし、そのように言い切ってしまうことは極めて不適切であるということです。

しかしながら政府やそれに関係する人物において、そのような不適切な認識のもとで福島の子どもたちの甲状腺スクリーニング検査を批判する声があげられ、さらにあろうことか放射性各種を含んだ汚染水を「処理水」として海洋放出することが閣議決定されてしまいました。

これは本来あってはならないことです。現在自民党所属の衆議院議員の細野豪志氏は、2021年4月10日のツイートで、

#ゼロリスク を求める社会から卒業する時だ。コントロールできるリスクは許容して、大きなベネフィットを得る。#処理水 の海洋放出も、#ワクチン も、車の運転も、コントロールできるリスクを取らなければ、比較にならない大きいリスクが顕在化する。

と述べています。

「比較にならない大きいリスク」の内実が何かまったく明示されていないのでそもそもそれが顕在化することが「コントロールできるリスク」を許容する理由にすらならないですし、あるいはここで細野氏が挙げている「コントロールできるリスク」が本当にコントロールできているのかということに目を向けてみると、そもそも政府(特に原子力政策を推進してきた自民党政権)と東京電力がリスクコントロールできなかった(というより、してこなかった)から東電福島第一原発事故が起きたという事実があります。

「原発事故由来の」汚染水の貯蔵と放出の問題は、本来政府と東電のリスク管理がしっかりしていて原発事故が起こらなければ起こり得なかった問題であって、その意味で貯蔵された汚染水は「リスクコントロールに失敗した結果として生じた新たなリスク」です。そのようなリスクをゼロに近い形で抑える責任は必然的に政府と東電にあるという簡単な話で、そしてそのような「リスクコントロールに失敗したうえで生じた新たなリスク」をワクチンのリスクや自動車事故のリスクと比較することはそもそも適切な議論として成り立ちません。

つまり、原発事故の発生直後によくみられた、放射線被ばくによるがん死のリスクを喫煙やら野菜不足やらの日常生活上のリスクと並べる不当な議論と同じ形で、そもそも望んでもいないのに押し付けられた原発事故由来の放射線被ばくリスクと、自分の自由な選択(ワクチン接種も自動車運転も喫煙も野菜摂取も強制ではなく自分の選択です)における日常生活上のリスクは、リスクとしての位置づけが全く異なるということです。

このように考えると、政府が放射性核種を含んだ汚染水を「処理水」と称して海洋放出することを決定してしまったことは、大変不当な議論であると言わざるを得ません。さらに悪いことに、政府や政府関係者の一部にはうえで述べたような自ら責任を負うべきリスクを風評被害と称して、我々市民の側に責任を押し付けようとしていますし(この認識は10年間変わっていないようです)、あろうことか放射性核種の一種であるトリチウムをデフォルメされたキャラ化さえしていました[11]。裏では電通も一枚噛んでいたようで[12]、市民に対する不誠実な態度は10年経っても改める気がないようです[13]。

あろうことか政府が市民の生活を破壊したことに対する責任を取ろうともせず、そうして顕在化したリスクを孕んだ技術をいまだに正当化しようとすることは、許されることでしょうか。


9. 原子力と気候変動

ブレイカーズ (2019)は、低炭素排出の再生可能エネルギーの中でも、太陽光発電と風力発電が安価であることと特別な燃料や安全対策を必要としないことから、今後の電力市場における優位と実際に電力需要を賄えることを示しています[14]。

つまり、こうした再生可能エネルギーの技術的発展があれば、原発事故という膨大なリスクを伴う事実を看過して、クリーンエネルギーとして原子力発電の存在を正当化することも、難しくなるということです。


まとめ

結論の部分では、廃炉の想定費用すら定まらず、またチェルノブイリや福島の原発事故のような危機的な状況の中で閉鎖された原発の廃炉費用が高騰していること[1]、放射性廃棄物の永久貯蔵施設も存在しないこと、生態学的影響も確認されていることなどを総合的に踏まえるならば、原発の本源的なコストは計算不可能であることが指摘されます[15]。

つまり、チェルノブイリや福島の原発事故により、市民の放射線被ばくという過大なリスクが実証されたことに加えて[16]、そうした事故を受けての補償や廃炉などの対応のためのコストの予測が不可能であり実際の対応も(少なくとも日本では)混迷したままであることを踏まえれば、原発を「電力源」として利用していくこともまた不可能であると考えられるということです。

そして最後に述べられている指摘は、原子力事業の本質を鋭くついているように思います。すなわち、原発推進国・や核保有国/核保有を目指す国にとっては、原発は「信頼性の高い電力を最も安価に提供する方法を見つける」という問題ではなく、「国家の安全保障にどれだけの代償を払う覚悟を決めなければならないのか」という問題になってしまっているということです。

原発は、その事業規模の大きさや、「核の平和利用」という建前こそあれ、原理と技術は核兵器開発に転用できること等を考慮すれば、規制などの形での政府の積極的な介入は必然と言って良いかもしれません。そこでは、原発の過大なリスクは「国家の安全保障のために払う代償」とみなされ、しかもそのプロセスは「原子力ムラ」のなかで都合よく進められ、一方で市民に対しては徹底的に隠されます。

そして、災害の発生が多い地理的条件にあり、かねがね事故のリスクを指摘されていたにもかかわらず、「問題は(自分たちが)問題にしなければ問題にならない」というご都合主義で原発稼働を推進した結果、2011年3月11日の東日本大震災の被害を直接に受けて福島第一原発事故は起こり、今もなお続いています(原発事故から11年、ではありません。11年目に突入する原発事故、です)。さらに悪いことに、政府も多くの声高な「科学者」も、誤った認識とそれに基づいた対応により、住民の不必要な被ばくを見過ごしただけでなく、日常生活における発がんリスクを持ち出し妥当でないリスク比較を行ったり、放射線を「正しく怖がる」などといった市民の「心の問題」に事故の責任をすり替えるような行為が横行しました[5]。

原発を推進するためなら、「国家の安全保障のために払う代償」として、原発事故による住民の放射線被ばくに伴う健康被害のリスク(というより、これはもはや潜在的なリスクではなく顕在化した「危険」です)は正当化されるでしょうか。このような態度を許してしまうことは、「国家のためなら市民は犠牲になってもよい」とか、「国家のためになることをする者だけが権利を有するのだ」とかいうような不当な態度をも正当化しかねません。それは単に、市民の基本的人権の侵害です。

原発の存続を許してしまうことは、個人の権利が「国家のため」に蔑ろにされるような社会のあり方を容認してしまう危険を伴います。しかし本来は、個人がそのあり方や行動を国家に規定されるのではなく、互いに独立した自由で平等な個々人の行動が国家や社会のあり方を規定するというのが本質ではないでしょうか。

私たちの誰もが相互に独立した平等な個人として同じテーブルを囲むことができるような、よりよい社会を実現するためにいくらでも声を上げること。(私はこうしてブログとして自分の考えを表明することくらいしか今のところできていませんが)大切にしたいですね。


*     *     *

注など

[1] 原子力損害賠償・廃炉等支援機構が提供する東京電力ホールディングス株式会社「新々・総合特別事業計画(第三次計画)」のp. 2。以下から。
https://www.meti.go.jp/press/2019/04/20190423006/20190423006-1.pdf

[2] 2021年12月24日の日本経済新聞の記事を参照。

[3] 以下参考。
https://toyokeizai.net/articles/-/6940
https://www.iwanami.co.jp/book/b254364.html

[4] ピーター・ヴァン・ネス (2019)  "フクシマの教訓 9つのなぜ" 〈ピーター・ヴァン・ネス, メル・ガートフ編著 (生田目学文訳)『フクシマの教訓 東アジアにおける原子力の行方』, 論創社〉 p. 347.

[5] 原発事故後の政府や括弧付きの「科学者」らによる科学的な知見についての誤った認識に基づく誤った言説と対応、およびそれが市民に及ぼした影響については、

study2007 (2015) 『見捨てられた初期被曝(岩波科学ライブラリー)』, 岩波書店.

が詳しいです。また、メディアにおいて発信された政府や括弧付きの「科学者」らによる、実際には妥当性に欠くような言葉が、市民の原発事故についての認識に対してどのような効果を持ちえたのかについては、

影浦峡 (2012) 『3.11後の放射能「安全」報道を読み解く 社会情報リテラシー実践講座』, 現代企画室.

が参考になります。同じく影浦峡氏の研究ブログも参考になります。

[6] ネス, 前掲書, p. 348.

[7] ネス, 前掲書, pp. 348-349.

[8] 少し検索するだけでも現在のウクライナの深刻な状況がわかります。
https://jp.reuters.com/article/ukraine-crisis-iaea-transmission-idJPKBN2L701H
https://mainichi.jp/articles/20220309/k00/00m/030/371000c

[9] ネス, 前掲書, p. 351.

[10] 例えば大学共同利用機関法人高エネルギー加速器研究機構 KEK放射線科学センターの提供する「暮らしの中の放射線」の「被ばく線量と影響の現れ方」の記述が参照できます。
https://rcwww.kek.jp/public/kurasi/
以下が直接のリンク。
http://rcwww.kek.jp/kurasi/page-55.pdf

[11] こちらは朝日新聞の記事。
https://www.asahi.com/articles/ASP4G74WCP4GUTIL03F.html

[12] こちらは毎日新聞の記事。
https://mainichi.jp/articles/20210415/k00/00m/040/247000c

[13] 原発事故被害を受けた市民に対する電通の不誠実さについては、NPOはっぴーあいらんど☆ネットワークさんの以下の動画が明らかにしています。必見です。
こちら前編。
https://youtu.be/YICBIN1H60Y

こちらが後編。
https://youtu.be/4wAaCMcVWIk

[14] アンドリュー・ブレイカーズ (2019)"持続可能エネルギーという選択肢" 〈ピーター・ヴァン・ネス, メル・ガートフ編著 (生田目学文訳)『フクシマの教訓 東アジアにおける原子力の行方』, 論創社〉 pp. 313-342.

[15] ネス, 前掲書, pp. 353-354.

[16] 単純に考えれば原発の危険性は、放射線被ばくによる健康被害が科学的に検証されている以上、それを許容する可能性も含めた "risk" というよりも、あえて受け入れたり危険を冒したりするなどということのない "danger" であるといえそうです。

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