森氏の差別的発言について。(続)

前回の記事はこちら

というわけで、続きです。以下のトピックについて少し検討したいと思います。


1) 数(機会)の平等はとても大事

2) 誰が言った言わないではなくこのような差別的な発言が公的な場において引き出されてしまうような状況そのものが問題

3) 発言を撤回すると言ったからといって責任が消えるわけではないこと


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1) 数(機会)の平等はとても大事


よく考えれば当たり前の話ですが、本当にジェンダーに関する社会的な差別が全くないのであれば、どんな会合の場であっても女性の数と男性の数は半々になっている(あるいは、それに近い値に収斂している)はずです。何か社会的に活躍するにあたって必要とされる能力に性差があるわけではないのですから。


ですが実際は、少なくとも日本オリンピック委員会の理事会においては「女性理事を4割」ということに関して「文科省がうるさくいう」ことが必要とされてしまうような状況にあることに示される通り、ジェンダー平等は達成されてなどいないわけです。


こうした状況を本当に顧慮するとき、私自身は、数の上での平等・機会の平等を十全に保障するとともにそれを実現し、かつそれを実現していることを透明性をもって公開することなしに、「等しく能力があれば性別の差異によらず判断・評価する」といった態度はとり得ないと考えています。


ジェンダーにおける機会の平等を求める声が上がらざるを得ない状況、すなわちジェンダーに基づいた社会的活動における構造的格差が残存している状況が明らかな状態で、その格差を不断に是正し続けることなしに(つまり、男性優位のジェンダー規範を残したまま)、「等しく能力があれば性別の差異によらず判断・評価する」といった態度のみを取ること、およびそのことだけを支持するような言説が流布してしまうことは、男性優位のジェンダー規範という安全地帯に立ったままの人たちによって行われる、アファーマティブ・アクションに対する「逆差別だ」とか「男性蔑視だ」とかいう主張と結びついてしまうおそれがあると思います(もちろん、こうした「逆差別だ」といった主張はそれを主張する側が徹底的に誤っているわけですが)。


ですから、既存のジェンダー規範から離れた平等な社会的な判断・評価は、ジェンダーによらない数の平等や機会の平等を十分保障・実現し、かつそれを透明性をもって公開することと同時に進めていかなければならないと考えられるわけです。そしてそれを実行する主体は、それまで社会から排除されてきた主体だけではありません。マイノリティをマイノリティだからという理由で(意識的であれ無意識的であれ)排除してきた側がその不当な行為への反省と責任とともに実行する主体でなければなりません。


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2) 誰が言った言わないではなくこのような差別的な発言が公的な場において引き出されてしまうような状況そのものが問題


森氏は「誰が言ったかは言いませんけど」として、(わざとかは知りませんが)女性蔑視の発言が自分のものではないようにぼかして発言していますが、仮に森氏にジェンダー・ステレオタイプがないとしたら、そもそも会見の場で「女性がいる会議は時間がかかる」という旨の発言を引用する必要がないはずです(し、してはいけません)。


しかし実際には、森氏は「女性がいる会議は時間がかかる」という旨の発言を、それが「悪口」だと自覚しながらわざわざ引用したのですから、明らかに森氏自身のジェンダー・ステレオタイプが現れていたと捉えるのが妥当だと考えられます。そこでは、「誰が言ったか」は問題にはならず、むしろステレオタイプに基づく女性蔑視発言が公的な会見の場において引き出されてしまう(だけでなく笑いまで起きてしまう)ような状況そのものが問題になります。


ステレオタイプに基づく不当な主張の発言主体が曖昧だからと言って、その主張を(意図的とも捉えられる文脈で)含めて発言をした森氏の責任も一緒に曖昧になるわけではありません(このことは次の検討とも関わります)。


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3) 発言を撤回すると言ったからといって責任が消えるわけではないこと


いつも思うのですが、自らが発信することば(発言も文章も諸々含めて、です)の責任は、その人自身が負うべきではないでしょうか。


たとえそのことばが他の人のことばを参照していたとしても、その他者のことばを何らかの意図をもって自身のことばに援用した以上、そのことばを使用することの責任の一角は負わなければいけないと考えられます。そして仮に参照した発言が誤りであったならば、参照元のことばを発信した人はもちろんですが、それを援用して自らのことばを発信した人も(特に森氏はその立場上社会的影響も大きかったですから)、辞任など、誤りの責任を負う形で社会的な対応を即座に行わなければいけなかったはずです(ここがグダついてしまったのも大きな問題ですが、今回は取り上げません)。


もう一度繰り返しますが、不当な主張の発言主体が曖昧だからと言って、その不当な主張を含めた発言をした森氏の責任も一緒に曖昧になるわけではありません。ここで少し話を広げて、森氏の辞任表明の会見の場での、女性蔑視発言については「解釈の仕方だ」という発言を取り上げて、これに類似した「こちらに悪気はなかった」という形の言葉がもつ責任転嫁の構造を取り上げて今回の検討を終えたいと思います。


前回と今回の検討を踏まえて、私自身は森氏の発言は明らかにジェンダー・ステレオタイプに基づく女性蔑視の内容が含まれていた発言であると考えていますし、その発言の責任を取るべき主体は森氏自身だと考えています。ところで、上に掲載した記事にあるとおり、森氏は辞任を表明する会見で、


「私どもとしては、あくまでオリンピック、パラリンピックを開催するという強い方針で、今、準備を進めていた矢先でありまして、そういう中で会長である私が余計なことを申し上げたのか、まあこれは解釈の仕方だと思うんですけれども、そういうとまた悪口を書かれますけれども、私は当時そういうものを言ったわけじゃないんだが、多少意図的な報道があったんだろうと思いますけれども。まあ女性蔑視だと、そう言われまして。
 私はこの組織委員会に入ってから、女性の皆さんをできるだけたたえてきましたし、男性よりも余計、女性の皆さんに発言していただけるように絶えず勧めてきました。皆さんはなかなかお手を上げてお話しにならない時がたくさんありましたけれども、あえてお名前まで申し上げて『谷本さんどうですか』とか言ってお誘いをして、女性の皆さんに本当によく話をしていただいたと思っております。」
(太字部分は筆者)


と述べています。太字部分のうち最初の二つが、発言の主体たる自分が負わなければならない責任を、発言を見聞した我々の「解釈の仕方」や「意図」の問題として責任の所在を押し付ける、不当な責任転嫁の発言です。


※ちなみに他の太字部分は一見女性の活躍を褒め称えているように見えますが実際は女性を「発言に物怖じする消極的な人たち」とレッテル貼りしてそれに対して自分(男性のことですかね)が配慮して発言を促してきたという、またもや男性優位のジェンダー・ステレオタイプに基づいた不当な女性蔑視発言と捉えられます。懲りないですね、自覚がないだけでしょうが。


発言の責任の所在は紛れもなく森氏自身にあり、それは報道が切り取り報道であるかどうか以前に会見における発言の全文を読めばわかることです。それを報道側の「解釈の仕方」や「意図的な報道」の責任に置き換えることはあってはいけません。


このような責任転嫁を許してしまうと、例えば会社で男性上司から女性部下に対するセクハラの被害が発生した時に、加害者側の男性の

「私の行為はセクハラだとは思っていない。それは(被害者側の女性部下の)解釈の仕方の問題だ」

とか、

「私はセクハラをしたわけではないのだが、多少意図的な訴えがあったのだろう」

といった主張さえ正当化されてしまいかねません。このような主張を断固として拒否し批判することは、女性社員がこのまま泣き寝入りするしかない状況に陥らないようにするために当たり前に行われるべきことです。


話は元に戻って、森氏の発言も同様です。森氏自身にその発言の責任を追求し批判することは、(元から明らかでしたが)彼の発言によってより強く照らされた旧態依然としたジェンダー規範に対する批判でもあるということです。それは森氏への「いじめ・叩き」として一蹴されていいものではないし、「うるさい」「逆差別だ」などといって止めてはいけないものです(女性が男性にとって「うるさい」と感じるほどに声を大きく上げなければならなくなったのは一体誰のジェンダー平等に関する無知と無関心のせいだったのでしょうか)。


既存の男性優位のジェンダー規範というぬるま湯にどっぷりと浸かっていたい人だけ、無関心でいましょう。

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