「選択的夫婦別姓」制度について思うこと。


※この記事はアメブロに投稿した記事をまとめ直して多少手を加えたものになります。

1. 前置き


こんにちは。早速ですが本題に入ります。

※「選択的夫婦別姓」制度導入の議論が生じた背景についてはこちらを参照のこと。

まず大前提として、「選択的夫婦別姓」(以下の議論では便宜的に「氏」ではなく「姓」という言葉を使用します)という言葉を「夫婦別姓」と言い換えて議論をするということが、全く誤った解釈に基づいたものであって、議論を成り立たせないようにしてしまうということがわかるでしょうか。

「選択」という言葉を辞書で引いてみましょう。私の手元にある電子辞書のデジタル大辞泉では、
⒈ 多くのものの中から、よいもの、目的にかなうものなどを選ぶこと。
2. 「選択科目」の略。
3. リレーショナルデータベースにおいて、表の中からある特定の条件に合う行を取り出す操作。
とあります。
今議論したい意味は明らかに1つ目の意味ですので、それを検討します。

夫婦同姓と夫婦別姓のどちらが優れているとか劣っているとかは決められるはずがないですし(どうやら「夫婦別姓反対」と騒いでいる人たちの多くは優劣を決め切ってしまっているようですが)、また、選択の対象は同姓か別姓かですので、「選択的夫婦別姓」における「選択」の意味は、上記の定義1に重ねて表現するなら、
「夫婦同姓か別姓かという二つの選択肢の中から、(婚姻者どうしの)目的にかなうものを選ぶこと。」
ということになると考えられます。

つまり、「選択的夫婦別姓」制度の導入の意義は、

夫婦になる際、婚姻者どうしの自由(裁量)に基づいて、各人の目的にかなうような形で「夫婦同姓」か「夫婦別姓」かを選ぶことができるようになる

ということにあると解釈できるということです。

当たり前ですが、「選択的夫婦別姓」を認めることによって「夫婦同姓」が否定されるなどということはありません。各人の自由に基づいて同性も別姓も選ぶことができる。それが「選択的」という言葉の意味です。

このことを踏まえれば、「選択的」という言葉を意図的に取り除いて「夫婦別姓反対」と主張することは、議論の形態として不適切であることがわかると思います。

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2-0. 診断事始め 


というわけで(どういうわけでしょうか)、以下は「選択的夫婦別姓」をめぐる批判的言説に焦点を当てて、それがいかにinvalidな、つまり不当な議論(の形に見せかけたイカサマ)であるか、診断していきたいと思います。これは、単に私がやってみたいだけです。伝えたいことはすでに書ききったので、蛇足と思って読んでいただければと思います。

参照するのによい資料を見つけたので、こちらで挙げられている言説に沿って診断していきたいと思います。
これは、Twitterなどで見かける反対意見のほとんどが、この投稿内で挙げられている類型によく当てはまっているからです。

では、始めましょう。

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2-1. 「家族の一体感」言説


「家族の一体感が失われる」
・親子の証明や家族の絆には、やっぱり同姓がいい
・同姓が嫌なら結婚しなければいいだけの話だと思う。同姓だからこそ夫婦であり、家族だと感じる
・家族になるという意味で、同姓がその第一歩。
・夫婦同姓の方が家族にまとまりがでそう
・姓とは家族である証明。それが違うのなら家族とは言えない。
・別姓になると家族の絆や一体感が損なわれる


この言説に共通するのは、
「夫婦別姓になるならば、家族の一体感が失われる」
という命題であることはわかると思います。


さて、日本では国際結婚をする場合夫婦別姓が原則です(同姓に変更することも可能ですが)。では、国際結婚して別姓のまま日本で暮らしている夫婦がいるとして(もちろん実際に多くいることは明らかですが)、その人たちは、


「同姓でないから、家族の絆を感じることはできない」でしょうか。

「同姓でないから、夫婦でもなければ、家族でもない」でしょうか。


「同姓でないから、家族になるという意味の第一歩すら進めることができない」でしょうか。


さて、「家族」という言葉をこれまたデジタル大辞泉で引いてみましょう。
「夫婦とその血縁関係者を中心に構成され、共同生活の単位となる集団。近代家族では、夫婦とその未婚の子からなる核家族が一般的形態。」とあります。


「夫婦とその血縁関係者を中心に構成され、共同生活の単位となる集団」とあることから、パートナーの父母、兄弟、姉妹は「家族」であると考えるのが妥当です。


ところで、婚姻時に夫婦同姓となることが現状の原則である以上、ある夫婦の一方は自身の姓を変えなければなりません。つまり、もしあなたがパートナーと婚姻するときに、パートナーの姓を変更する、ということになれば、そのパートナーは自身の父母や兄弟姉妹、親戚といった、上述した定義での「家族」と姓を異にすることになります。


では、そのパートナーにとって、姓が変わったことによって「家族」とのつながりが断絶してしまうことになるでしょうか。もはや父母も兄弟姉妹もただの「血縁関係者の集団」であって「家族」ではないのでしょうか。


このように考えれば、「家族の一体感」を持ち出して「選択的夫婦別姓」に反対することの無根拠さがはっきりします。「別姓であることが家族の一体感を失わせる」という言説は全くの詭弁です。

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2-2. 「戸籍制度や伝統を守るべき」言説


「戸籍制度や伝統を守るべき」
・今までの日本の伝統や価値観が失われる
・家族制度や戸籍制度の廃止につながりかねない
・家族の絆は消えないかもしれないが、日本人として数世紀前から脈々と続く御先祖様との絆は消えてしまうと思う。一族の意識を希薄にさせてはならない
・戸籍廃止につながるのは明らか
・日本の伝統文化を無くす必要はない。同姓必須なのは日本だけと言われますが、何故海外に合わせる必要が?

※「戸籍制度」云々については2-5で付随的に述べます。

「文化」や「伝統」はこうした議論においてはよく持ち出されます。少し意味を敷衍するなら、「みんな知ってる」というやつです。さて実際のところ、

「夫婦別姓は適切でない。夫婦同姓が日本の伝統(文化)だから」

とか、

「夫婦別姓は適切でない。日本人ならみんな知っているよ、そんなこと」

とかいうのは、「選択的夫婦別姓」制度導入に反対する理由の説明にはなっていません。説明のための概念が説明を受ける概念よりも曖昧で、包摂的であるなら、それは超越的存在(例えば、神様ホトケ様)を用いて、ある概念を説明することと構造としては同じだからです。

例を挙げましょう(適切であるかは分かりませんが)。
あなたが友達に、

「√2が無理数であることを証明せよ。」

という問題を出題したとして、

「√2は無理数だよ。だってそれは数学における常識だから」

とか、

「√2は無理数だよ。学生ならみんな知っているよ、そんなこと」

とか返ってきたとします。これは説明(ここでは証明ですが)になっているかと問われたら、間違いなくノーです。

つまり、説明のための概念は被説明概念よりも、あるいは同じくらい具体的で、範囲の絞られたものでなくてはならないということです(√2が無理数であることの証明の例では、「有理数」「背理法」「互いに素」といった具体的な概念をしっかり理解し、それを適切なプロセスで使用していくことが証明のための基礎になります)。
困ったときに「文化」や「伝統」を持ち出すことは避けた方が良さそうということがわかりますね(私も気をつけたいと常々思っています)。

そもそも、現在の戸籍制度なんて遡れても明治初期まででしょうし、たった150年ほどの制度を伝統という言葉で括ってしまうのはいささか早計ではないでしょうか。

また(話の方向が多少ずれますが)、「日本人として」という副詞節は、使った当人の意図がどうであれ、それ自体大きな排除性や差別観を含みうる言葉です。このような言葉を、少なくとも法制度に関わるきわめて重要な問題の説明のために使用すること自体の不適切さには注意したほうがよいでしょう。

それから、「何故海外に合わせる必要が?」という意見について。
あたかも「選択的夫婦別姓」制度の議論が「海外に合わせる必要がある」ことを主要な目的として行われているような意見ですが、おそらく見当外れの意見でしょう。

先ほど参照した法務省のホームページには、
「女性の社会進出等に伴い,改氏による社会的な不便・不利益を指摘されてきたことなどを背景に,選択的夫婦別氏制度の導入を求める意見があります。」
とあります。

つまり、「改氏(姓)による社会的な不便・不利益」の是正が「選択的夫婦別姓」制度導入を求める意見の主要な目的であって、その結果として海外と同じような制度になる、というだけです。

以上です。次、いきます。

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2-3. 「結婚とは夫婦同姓にすること」言説


「結婚とは夫婦同姓にすること」
・同姓にする覚悟があってこその結婚だと思う
・結婚する意味がわからなくなる。好きな人と同じ苗字になれるから結婚するのでは?別姓ならただ付き合っているだけと同じだと思う
・結婚とは苗字が変わるものだと思うから

結婚することは夫婦同姓にすることではないです、で、おしまい。

あえて言うなら、別姓制度をもつ国において結婚が成り立っていることはどう説明するのでしょうか(伝統や文化を持ち出すことの誤謬は上で紹介した通りです)。
あるいは、より卑近な例として、日本国内での国際結婚において、互いに姓を変えない選択をした人たちは「結婚」していないのでしょうか。

次、いきます。

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2-4. 「その他」の言説


「その他の理由」
・夫婦別姓にしたい人はあくまで少数派。少数派のためにわざわざ法整備をするのは合理的ではない
・「選択的」と言いながら夫婦同姓は古い価値観と批判される。同姓を選ぶ人への嫌味などがなくなれば賛成
・導入されると、別姓を選ばなかった人が「間違っている」と非難される恐れがある
・苗字が違うと離婚しやすいと思う
・結婚した以上、覚悟と責任を感じて欲しい

一つめの「夫婦別姓にしたい人はあくまで少数派。少数派のためにわざわざ法整備をするのは合理的ではない」という意見について。


そもそも参照したアンケート調査において、「選択的夫婦別姓」制度に反対する10代、20代の人たちが少数派であるので、この意見がまかり通るとすれば、


「『選択的夫婦別姓』制度に反対する人はあくまで少数派。少数派のためにわざわざその人たちの意見を聞き入れて法整備を進めないことは合理的ではない」


という意見もまかり通ります。自分で自分の首を絞めることになっていますね。

※ところで、後で触れる問題ですが、こうしたマイノリティの人々が「マイノリティであるから」という理由でその権利を制限され、あるいは否定されるような差別的発言がまかり通るような社会構造がいまだに残っていることに驚きと疑問を隠し得ません。

二つめ。先ほど、「選択的夫婦別姓」制度を導入することの目的は「改氏(姓)による社会的な不便・不利益」の是正にあると言いましたが、これは「夫婦同姓を古い価値観として批判」することとは全く関係ありませんし、「別姓を選ばなかった人を『間違っている』と非難される恐れがある」ことの根拠にもなりません。

(またまた適切な例かどうかはわかりませんが)例をあげることにします。
ある地域に一つだけ、100年くらい続く老舗のホテルがあって、そこのレストランでは主食にパンしか出されませんし、宿泊者も多くがそれを受け入れています。

いま、あなたは何らかの理由でそのホテルに宿泊せざるを得ず、しかも小麦粉アレルギーをもっているとします。

さて、主食がパンしか出ないことを知ったあなたは、「私は小麦粉アレルギーだから、主食にご飯や小麦不使用のシリアルとかいった選択肢を用意してほしい」とホテルのオーナーに訴えたとします。

この時オーナーが、

「それには承伏しかねます。なぜなら、

『選択肢を増やす』と言いながらパンを主食とすることは古い価値観として批判される。パンを選ぶ人への嫌味がなくなれば賛成

選択肢が増えると、ご飯や小麦不使用のシリアルを選ばなかった人が間違っていると非難される恐れがある

からです。」

と発言したとします。さて、あなたはこの発言を聞いて「ああ、このオーナーの説明は理にかなっているな」と納得するでしょうか。私なら「じゃ○ん」で評価1をつけます。

これは単純に考えれば、主食にパンを選ぶ人が大多数である状態で、主食がパンであることによって不都合が生じる人たちのためにパン以外の選択肢が取れるようにした、というだけでパンを選ぶことそれ自体が方方から批判されたり非難されたりするだろうか?、、、というだけの話です。
そもそもパンかご飯かどちらが客観的に「善い」かなど決められるはずがありません。「夫婦同姓」と「夫婦別姓」の選択も同様です。

ところで、上で取り上げた二つの言説にはもう一つの問題点があります。
それは、「選択的夫婦別姓」制度の導入に賛成する人の集団やその考えを、わざと(あるいは単に無知なだけかもしれませんが)ねじ曲げたり単純化したりして捉え(賛成者は「夫婦同姓を古い価値観として批判」する、あるいは賛成者は「別姓を選ばなかった人を『間違っている』と非難する」という形)、それを否定して、元の集団や考えを否定する、というやり方です。
いわゆるストローマン(藁人形)論法ですね。

これは他の場面でも案外よく見かける手法です。探してみると面白そうですね。

話を元に戻します。三つめ。「苗字が違うと離婚しやすいと思う」という意見は、「夫婦別姓であるならば、離婚率は上がる」というように読み替えることができますが、少なくとも離婚率の上昇という結果の原因を一つだけと考えることはあまり適切ではありません。また、そのような因果関係があることを証明することも難しいでしょう(そもそも、社会的な現象の間に因果関係があるとすることを実証的に説明する、ということ自体が研究においては非常に困難であるということは、多少勉強すればわかることですが)。

四つめ。「結婚に責任と覚悟を感じる」ことに、その夫婦が同姓であるか別姓であるかは関係ありません。
夫婦同姓にすることは、現状においては「結婚」の結果として付随するだけで、「結婚」それ自体に責任と覚悟を感じることは夫婦同姓にすることに何ら影響を与えませんし、夫婦同姓にすることによっても何ら影響を受けません。

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2-5. 「子どもへの影響がある;子どもの氏(姓)をどうするか困る」言説


さて、最後の診断、

「子どもへの影響がある;子どもの姓をどうするか困る」
・もし子どもが生まれて親の苗字が違うだけでいじめの対象になるかもしれないから
・子どもをどちらの苗字にするか揉めそう
・子どもができて夫婦が別々の姓だとややこしい
・子供はどちらの姓にするべきなのか。つける姓で愛情が変わってくるのではないか。建前上でも家族はひとつの姓に統一しておいた方がいい気がする。

最後に残しておいたのは、この反対意見が一番答えるのに多くの考えを要するからです。というのも、新たな権利主体として「子ども」が登場してくるからです。

それでは診断を始めていきましょう。

一つ目の意見に関しては、まるで「親と子どもの名字が違う」ことにいじめの責任を帰すような記述になっていますが、不適切です。

おそらくこの意見を投じた人が心配していることは、

「親と名字が違う」子どもは少なくとも現在の日本ではマイノリティで、その特異性やもの珍しさが原因となって同質的な集団からの排除、すなわちいじめにつながる・・・(1)

という形になると考えられます。


しかしこの場合、いじめにつながる最大の要因(つまり、責任の所在)は、「マイノリティを同質的な集団から疎外する」ような態度それ自体にあるのであって、「親と子の名字が違う」ということや親と名字が違う子どもたち自身が責め立てられる筋合いは全くありません。


前に述べた(1)の文の「親と子供の名字が違う」という言葉を「セクシュアル・マイノリティの」や「被差別部落の」、あるいは「在日外国人の」という言葉に置き換えてみてください。マイノリティがマイノリティであることを理由に疎外される、というきわめて不適切な構造がはっきり見えます。


また、こうしたマイノリティがマイノリティであることを理由に疎外される、という構造を正当化するような態度は、ともすればいじめの加害者の立場を正当化することにもつながりかねません。


こうした、1つ目の意見のような構図をとる言説は、一見するともっともらしいことを言っているように見えますが、実際は上で診断したように全く不適切な意見であることがわかります。

さて、(おそらく)本題です。「子どもの姓をどうするか」という問題について検討していきたいと思います。


結論を先に言ってしまうなら、私は「子どもの姓は、所与の選択肢の範囲内で、子ども自身が選択する権利を行使することができる」ことが第一だと考えています。以下では、そうした考えの根拠を述べていきたいと思います。


(断っておきますが、私は法律の専門家でもなければ法学部生でもないので正確な法律解釈や運用はできません。それでも、英単語の意味が分からなくて困ったときに英和辞書を引くように、何か生活で困ったときに法律を参照することは、たとえ法律について自分が”素人”であったとしても、何らおかしいことでも非難されることでもありません。)


まず、議論の基盤として、日本が批准している国際条約である「児童の権利に関する条約(子どもの権利条約)」


を参照します。


というのも、日本国憲法第98条2項には、

「日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。」

とあり、日本の法律では、批准された国際条約は自動的に法的効力を持つことになります。また、国際条約は、憲法に次いで、国内の制定法より優位の法的効力を持つとされるのが一般的な認識です。


つまり、仮に「選択的夫婦別姓」制度の法整備を進める上で、子どもの姓についての扱いをどのようにするか、といった「子どもの権利」に直接関わる項目を含めて法整備が進められるならば、「児童の権利に関する条約」の趣旨や規定を基準として、それらを反映したものにしなければならないということになると考えることが妥当だ、ということです。


さて、「児童の権利に関する条約」の第7条には、

「1 児童は、出生の後直ちに登録される。児童は、出生の時から氏名を有する権利及び国籍を取得する権利を有するものとし、また、できる限りその父母を知りかつその父母によって養育される権利を有する。
2 締約国は、特に児童が無国籍となる場合を含めて、国内法及びこの分野における関連する国際文書に基づく自国の義務に従い、1の権利の実現を確保する。」

と明記されており、第8条1項には、

「締約国は、児童が法律によって認められた国籍、氏名及び家族関係を含むその身元関係事項について不法に干渉されることなく保持する権利を尊重することを約束する。」


と明記されています。


波多野(2005)(注1)を参照すると、第7条に登場する「登録」については日本人の場合は「出生届」と「住民票への記載」、外国人の場合は「出生届」と「外国人登録」を指し、「氏名」については、「日本では『氏』と『名』を一つずつもつ[中略]ことが多」いとあります(波多野, 2005, p.45)。


そこで次に、日本で暮らす人が「氏名」を「登録」されるにあたって法的根拠となる、戸籍法を参照することにします。


さて、戸籍法第十六条には、

「婚姻の届出があつたときは、夫婦について新戸籍を編製する。但し、夫婦が、夫の氏を称する場合に夫、妻の氏を称する場合に妻が戸籍の筆頭に記載した者であるときは、この限りでない。
②前項但書の場合には、夫の氏を称する妻は、夫の戸籍に入り、妻の氏を称する夫は、妻の戸籍に入る。
③日本人と外国人との婚姻の届出があつたときは、その日本人について新戸籍を編製する。ただし、その者が戸籍の筆頭に記載した者であるときは、この限りでない。」

と明記されており、また、第十八条には、

「父母の氏を称する子は、父母の戸籍に入る。
② 前項の場合を除く外、父の氏を称する子は、父の戸籍に入り、母の氏を称する子は、母の戸籍に入る。
③ 養子は、養親の戸籍に入る。」

と明記されています。


ところで、これらの記述は、民法第七五十条

に記載されている、

「夫婦は婚姻の際に定めるところに従い、夫又は妻の氏を称する。」

という記述、つまり夫婦同姓を前提としていると考えられます。


ここまでの記述もろもろを踏まえて考察してみると、

仮に「選択的夫婦別姓」制度の法整備が行われたとして、民法第七百五十条の規定を夫婦別姓の選択を可能にするような形に改めることによって、戸籍法第十六条にある、「夫婦(あるいは国際結婚における日本人)について新戸籍を編成する」というプロセスにおいて、夫婦それぞれの姓を記載するという形で戸籍を新しく編成するならば、子の姓は、戸籍法第一八条1項の記述に従って「父母の氏を称する子は、父母の戸籍に入る」ことになっていますから、「夫婦それぞれの姓をもった子どもが、戸籍上存在する」ことは、戸籍法の定める範囲内において(つまり、戸籍制度を維持した上で)認められることになると考えられます。


したがって、夫婦別姓を選択した場合の子どもの姓の「登録」については、法改正で十分対応可能であると考えられます。


(話が逸れますが、こうした観点からすれば、「選択的夫婦別姓」制度の法整備によって「戸籍制度が破壊される」などということはないでしょう。)


そして、「児童の権利に関する条約」第8条に従い、夫婦それぞれの姓を戸籍上有する子どもが、その姓を「保持」する権利を保障され、尊重されることも当然約束されなければなりません。


さてここまでで、条約や法律を参照しながら、「選択的夫婦別姓」制度を導入した場合においても、子どもの姓の「登録」と「保持」の権利が、現行の法制度を「破壊」することなく保障され得る、ということを確認しました。

とすれば、残った(と思われる)問題は、「別姓夫婦の間に生まれた子どもは、どのように自分の姓を決めることになるか」という「選択」に関する問題になります。

ひとまず「児童の権利に関する条約」を参照します。


さて、児童の権利に関する条約第12条には、

「1 締約国は、自己の意見を形成する能力のある児童がその児童に影響を及ぼすすべての事項について自由に自己の意見を表明する権利を確保する。この場合において、児童の意見は、その児童の年齢及び成熟度に従って相応に考慮されるものとする。
2 このため、児童は、特に、自己に影響を及ぼすあらゆる司法上及び行政上の手続において、国内法の手続規則に合致する方法により直接に又は代理人若しくは適当な団体を通じて聴取される機会を与えられる。」

と明記されています。


ここでは、子どもの意見表明権が規定されています。ただし、「自己の意見を形成する能力のある」や「児童の意見は、その児童の年齢及び成熟度に従って相応に考慮される」といった記述は、本項の事項が一般的な基準を指すのではなく、個々の子どもの個別的・個人的事項について規定したものであることを意味しています(波多野, 2005, p.83)。


ところで、波多野によれば、日本の民法では、

15歳以上の子に対し「子が父又は母と氏を異にする場合に、自ら氏の変更をすること」(七九一条1項)及び「遺言をすること」(九六一条)ができると認められている一方、養子となる者が十五歳未満であるときは、法定代理人が本人に代わって縁組の承諾をすることができる(七九七条1項)と定められており、満15歳以上の子どもが少なくとも一定の身分行為を単独で行うことができる能力が認められていて、その意味で「満15歳」が一応「自己の意見を形成する能力」がつく年齢と解されているとされます(波多野, 2005, pp. 86-87)。


重要なのは、15歳以上の子どもについては「自らの氏を(自分の意志で)変更すること」が可能であることが既存の法律の範囲内で明示的に規定されているということです(民法七九一条3項では、15歳未満の子どもについては法定代理人がその氏の変更を代行できることが示されています)。


このことがどういうことを意味しうるか、ここまでの記述を踏まえて考察してみましょう。


まず第一に、日本において、「自己の意見を形成する能力」をもつと解釈される満15歳の子どもは、現行の法律において「(自ら形成・表明した自己の意見に基づいて、)自らの氏を変更すること」が認められていると解釈できます。


ここで、「子が父又は母と氏を異にする場合に、自らの氏を変更すること」というのは、あらかじめ氏(姓)が(戸籍上の)家族においては単一に決まっている(=「夫婦同姓」)という、制度的な条件を前提としているために、父の姓から母の姓へ、あるいは母の姓から父の姓へ「変更」するという意見表明の方法しか取れない、ということであると考えられます。


そこで、前提となる制度的な条件である「夫婦同姓」について、「夫婦別姓」という選択肢が取れるようになった場合を考えてみましょう。すると、子どもは自らの氏についての(すでに条約・法律において尊重され、保障されている)自己の意見表明に際し、父の姓から母の姓へ、あるいは母の姓から父の姓への「変更」だけでなく、父の姓か、母の姓かの「選択」という選択肢を取れることになります。


つまり何が言いたいかというと、「子どもの氏(姓)をどうするか」という問題は、現行の条約・法律において子ども自身に「影響を及ぼすすべての事項について」意見表明権が保障されている以上、子ども自身が意見を表明し自ら決定することが尊重される問題である、ということです(そのための制度上の選択肢が今のところ「氏の変更」しかない、というだけです)。


その意味で私自身は、「選択的夫婦別姓」制度を導入した際に生じうる「子どもの氏(姓)をどうするか」という問題に関して、子どもの自己の意見表明の難しい時期(幼少期など)については、「変更」や「選択」という選択を子どもに迫ることは一旦保留して、自己の意見表明ができる状態になってから家族で話し合う場を設けて子ども自身で選択する、というのが最善の選択ではないかと考えています。


もちろん、多くの問題もあります。例えば、「満15歳」が「自己の意見を形成する能力がある」年齢として妥当かどうか。あるいは、障がいのある子どもの意見表明についてはどのように対応するかなど、もし「選択的夫婦別姓」制度が導入されたとしても、考えるべき課題は山積しています。


しかし、それは全体として権利保障とそのための制度整備の問題です。


ここまでで診断してきたように、「選択的夫婦別姓」制度の問題は、決して文化や伝統や家族の絆といった、抽象的で曖昧な概念で説明できる問題ではありません。さらに、マイノリティの権利が「マイノリティであるから」という理由で等閑視される構造的差別が容認されてよいはずもありません。


また、こうした「選択的夫婦別姓」というアジェンダから湧き出る多くの問題は、当事者だけの問題でも、狭義での政治上の問題でもありません。それに対する答えは、私だけでなく、この記事を読んでいる皆さんも含め、市民全体で真摯に向き合って探していかなければならない問題であると思います。


私の稚拙な文章が、皆さんが「選択的夫婦別姓」について、多少なりとも考えるきっかけになれば幸いです。

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3. 思いとか。


最後に。私は結構気に入っているあだ名があって(「もち」というのもその一つですが)、そのいくつかは名字由来のものなんですね。


そんなわけで(というのも変かもしれませんが)、自分の姓も自分を形成するアイデンティティの一部になっているなとつくづく思うわけです。そしてそれは単に自分の内面で完結するものではなくて、他者との関わりにおいて形成されるものですから、自分のそれまでの姓を失うということは、自分自身のアイデンティティの揺らぎとともに、他者との関係の揺らぎも意味しうるということになります。


私は、自分のアイデンティティを、そして身の周りの近しい人たちとの関係を、「文化」や「伝統」の皮を被った化け物に奪われるくらいなら、「思考」や「議論」を重ねて精一杯抵抗したいと思います。




注1) 波多野里望(2005)『逐条解説 児童の権利条約 [改訂版]』有斐閣.


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