原子力発電のこれからについてなど。
(作成日:2021/3/11)
2021年3月11日。東日本大震災から10年が経過するとともに、東電福島第一原発事故(以下、福島原発事故と表記)が10年目に突入する年でもあります。
というわけで、最近読んだ原発についての良書の論点について軽く紹介。参照する資料は、
ピーター・ヴァン・ネス, メル・ガートフ編著 (生田目学文訳)『フクシマの教訓 東アジアにおける原子力の行方』, 論創社.
です。同書の参照する章では他の章の論考をまとめると同時に、福島原発事故が提起した原発稼働の問題点を9つに類型化しています。ということで、この9つの簡単な論点に沿って、日本の状況を踏まえながら今後の原発のあり方を確認します。
* * *
1. 建設の初期費用
原発の新規建設は巨大なプロジェクトであり巨額の費用がかかります(だからこそ政府から巨額の資金が供出されてきたわけですが)。
一方で、その費用をどこまで見積もるかということが極めて不明確であって、例えば廃炉費用や高レベルの放射性廃棄物の処分費用は見積もりに含めるのか、それらを長期的な時間的枠組みのもとでどのように見積もるのかという問題があります。
そして重要なことは、福島原発事故のような「想定外の」事故による廃炉の費用は何倍にも膨れ上がります。
「福島原子力事故に関連した必要資金規模は、被災者賠償8兆円、廃炉8兆円、除染・中間貯蔵6兆円の合計約22兆円へと倍増すると試算されている。」[2]
2. 原子炉の運転および維持における専門的スタッフの必要性
原子炉を建造・管理し、職員の放射線防護を徹底し、電力を安定的に供給するための専門的職員の存在は原子力発電所の管理運営に不可欠ですし、そのような人材を供給し続けるための専門的な教育や訓練を行うことを政府や原発関連企業が保障し続けることも不可欠です。専門的職員の存在もそうした人材育成も、どちらかでも欠ければそもそも適切な管理の維持は破綻します。
3. 独立性と透明性を兼ね備えた規制機関の確立
同書では、日本の原子力事業の独立性および透明性における深刻な問題として、既得権益を持つ電力会社、原子力事業者、官僚、政治家、経済界、マスメディアなどからなる閉鎖的な「原子力ムラ」が構築され、福島原発事故の際に責任のある立場のある者が全く対応できなかっただけでなく信頼できる情報を国民に与えることすらできなかったこと、結果として国民の東電や政府から発される情報に対する不信が生じたことが指摘されています[1][3]。
さらに、一般的には原子力業界に対する規制は業界自身による規制につながることも指摘され(日本の状況に重ねれば、原子力規制は「原子力ムラ」に属する主体が全て担ってしまうということです)、結局、独立性と透明性を兼ね備えてかつ説明責任を果たすことのできる原子力規制機関の確立は、ほぼ不可能であることが福島原発事故で立証されたとしています。
4. 事故発生時の責任
原発事故が発生した場合、チェルノブイリや福島の例からも明らかなように事故の責任者には巨額の費用負担が生じます。福島原発事故においては、政府や「科学者」の対応や言説およびそこに見える態度が、まるで避難者含めわれわれ市民が「正しく怖がる」ことができていないことが1番の問題であるかのようなものであり、原発事故についての東電や政府自らの責任を等閑視するようなものでした[3]。
「問題なのは、民間業者は原子炉を売る一方、事故が発生しても責任を免れたいと考えていることだ。」[4]
5. 通常の状況と異常な状況それぞれにおける廃炉の費用および作業工程
1の項目と関連しますが、放射性物質には半減期が数十年〜数万年のものもあるため、それらの処理も含めて廃炉には超長期的な工程が必要になると考えるのが妥当ですが、一方で廃炉を完了させる前に関連企業が倒産したり、規制責任を負う政府が変わったりしたらどうなるか、という疑問が提起されることになります[5]。
6. 原子力発電と核兵器の関係
この項で指摘されている視点で皆さんと共有したいのは、原発も結局は核の利用の一形態であって、その運用を原理的に支える原子物理学はいつでも核兵器開発に転用可能であること、そして少し話の方向が異なりますが、原発の設置は物理的攻撃であれサイバー攻撃であれテロの標的となりうることです。
7. 核廃棄物の処分問題
5の項目と関連しますが、高レベルの放射性廃棄物の処分を今後どのように行っていくのか、ということです。
「現在のところ、高レベル放射性廃棄物を永久貯蔵する現役の施設は世界中に1カ所も存在しない。」[6]
8. 放射線被曝による健康への影響
この項については、
ティルマン・ラフ (2019) "電離放射線が健康に与える影響" 〈ピーター・ヴァン・ネス, メル・ガートフ編著 (生田目学文訳)『フクシマの教訓 東アジアにおける原子力の行方』, 論創社〉 pp. 219-257.
や、注[3]であげた文献を参照していただくと良いです。
ところで、この記事を書いている作業のさなか、以下のようなニュースが報道されました。
以前から何度も言われてきていることだと思いますが、福島第一原発の周辺地域で「甲状腺がんと診断される子どもが増えていることについて、被曝による健康被害は考えにくい」ということと、周辺地域で「甲状腺がんと診断される子どもが増えていることについて、被ばくを直接の原因とする健康被害が識別可能な水準で確認されることは考えにくい」ということとは、全く別のことです。
甲状腺がんの発症が「統計的に被ばく由来であると識別できない」ことは、甲状腺がんの発症が「被ばく由来ではない」ことを意味しません。
9. 原子力と気候変動
ブレイカーズ (2019)は、低炭素排出の再生可能エネルギーの中でも、太陽光発電と風力発電が安価であることと特別な燃料や安全対策を必要としないことから、今後の電力市場における優位と実際に電力需要を賄えることを示しています[7]。
つまり、こうした再生可能エネルギーの発展があれば、原発事故という膨大なリスクを伴う事実を看過して、クリーンエネルギーとして原子力発電の存在を正当化することも、難しくなるということです。
まとめ
結論の部分では、廃炉の想定費用すら定まらず、またチェルノブイリや福島の原発事故のような危機的な状況の中で閉鎖された原発の廃炉費用が高騰していること[1]、放射性廃棄物の永久貯蔵施設も存在しないこと、生態学的影響も確認されていることなどを総合的に踏まえるならば、原発の本源的なコストは計算不可能であることが指摘されます[8]。
つまり、チェルノブイリや福島の原発事故により、市民の放射線被ばくという過大なリスクが実証されたことに加えて[9]、そうした事故を受けての補償や廃炉などの対応のためのコストの予測が不可能であり実際の対応も(少なくとも日本では)混迷したままであることを踏まえれば、原発を「電力源」として利用していくこともまた不可能であると考えられるということです。
そして最後に述べられている指摘は、原子力事業の本質を鋭くついているように思います。すなわち、原発推進国・や核保有国/核保有を目指す国にとっては、原発は「信頼性の高い電力を最も安価に提供する方法を見つける」という問題ではなく、「国家の安全保障にどれだけの代償を払う覚悟を決めなければならないのか」という問題になってしまっているということです。
原発は、その事業規模の大きさや、「核の平和利用」という建前こそあれ、原理と技術は核兵器開発に転用できること等を考慮すれば、規制などの形での政府の積極的な介入は必然と言って良いかもしれません。そこでは、原発の過大なリスクは「国家の安全保障のために払う代償」とみなされ、しかもそのプロセスは「原子力ムラ」のなかで都合よく進められ、一方で市民に対しては徹底的に隠されます。
そして、災害の発生が多い地理的条件にあり、かねがね事故のリスクを指摘されていたにもかかわらず、「問題は(自分たちが)問題にしなければ問題にならない」というご都合主義で原発稼働を推進した結果、2011年3月11日の東日本大震災の被害を直接に受けて福島第一原発事故は起こり、今もなお続いています(原発事故から10年、ではありません。10年目に入る原発事故、です)。さらに悪いことに、政府も多くの声高な「科学者」も、誤った認識とそれに基づいた対応により、住民の不必要な被ばくを見過ごしただけでなく、日常生活における発がんリスクを持ち出し妥当でないリスク比較を行ったり、放射線を「正しく怖がる」などといった市民の「心の問題」に事故の責任をすり替えるような行為が横行しました[3]。
原発を推進するためなら、「国家の安全保障のために払う代償」として、原発事故による住民の放射線被ばくに伴う健康被害のリスク(これはもはや潜在的なリスクではなく顕在化した「危険」です)は正当化されるでしょうか。このような態度を許してしまうことは、「国家のためなら市民は犠牲になっても良い」とか、「国家のためになることをする者だけが権利を有するのだ」とかいうような不当な態度をも正当化しかねません。それは単に、市民の基本的人権の侵害です。
原発の存続を許してしまうことは、個人の権利が「国家のため」に蔑ろにされるような社会のあり方を容認してしまう危険を伴います。しかし実際は、個人がそのあり方や行動を国家に規定されるのではなく、互いに独立した個人の行動が国家や社会のあり方を規定するというのが本質ではないでしょうか。
独立した個人どうしが互いに平等な個人として相対できるような、より良い社会を実現するためにいくらでも声を上げること。大切にしたいですね。
* * *
注など
[1] ピーター・ヴァン・ネス (2019) "フクシマの教訓 9つのなぜ" 〈ピーター・ヴァン・ネス, メル・ガートフ編著 (生田目学文訳)『フクシマの教訓 東アジアにおける原子力の行方』, 論創社〉 pp. 343-355.
[2] 原子力損害賠償・廃炉等支援機構、東京電力ホールディングス株式会社
「新々・総合特別事業計画(第三次計画)」p.2、2017年 (2021-3-10参照)
https://www.meti.go.jp/press/2019/04/20190423006/20190423006-1.pdf
[3] 原発事故後の政府や括弧付きの「科学者」らによる科学的な知見についての誤った認識に基づく誤った言説と対応、およびそれが市民に及ぼした影響については、
study2007 (2015) 『見捨てられた初期被曝(岩波科学ライブラリー)』, 岩波書店.
が詳しい。
また、メディアにおいて発信された政府や括弧付きの「科学者」らによる、実際には妥当性に欠くような言葉が、市民の原発事故についての認識に対してどのような効果を持ちえたのかについては、
影浦峡 (2012) 『3.11後の放射能「安全」報道を読み解く 社会情報リテラシー実践講座』, 現代企画室.
が詳しい。
[4] ネス, 前掲書, p. 348.
[5] ネス, 前掲書, pp. 348-349.
[6] ネス, 前掲書, p. 351.
[7] アンドリュー・ブレイカーズ (2019)"持続可能エネルギーという選択肢", 前掲書, pp. 313-342.
[8] ネス, 前掲書, pp. 353-354.
[9] 単純に考えれば原発の危険性は、放射線被ばくによる健康被害が科学的に検証されている以上、それを許容する可能性も含めた "risk" というよりも、あえて受け入れたり危険を冒したりするなどということのない "danger" であると言えそうです。
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