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読書と日記_9/22

散歩ついでに、いくつかのギャラリーに行った。今井むつみ、秋田喜美『言語の本質』を何度も読み返しながら電車に乗り、北参道まで40分ほど。私はアート作品を見るのはあまり得意ではないのだが、その苦手さは、『言語の本質』で言われている記号接地問題に由来しているように思えてならなかった。ことばを知るということにおいて生じる難題は、アートにおいても極限的な仕方で現れるのではないかとおもった。ことばを学習するには、記号の単なる連続ではなく、身体性への接地(grounding)が不可欠ではないか、という指摘が記号接地問題であるが、アートを見ると思いつくそれらしい言葉のいずれもがすべり、地に足をつけることができない。本書では、犬の吠える声という物理的特徴と類似した「ワンワン」というオノマトペという類似性が、言語の身体性を形成すると記されていた。この類似性(あるいはアイコン性)は、そもそもいかなる意味において「似ている」のか。ソシュールの指摘したシニフィエとシニフィアンの恣意性の問題へのある反駁として、言語としてのオノマトペが対象と類似しているという非恣意性を持ち出すのだが、この記号と対象という還元不可能とされていた裂け目をつなぐ「似ている」、あるいはより動詞的に「似る」ということはどういうことなのか。また、言語学習のさいに、動作や形の類似性から知識の一般化が可能となるのだが、それはアブダクション推論の一種であるとされる。この類似性から一般化するというアブダクション推論という思考様式と、似るという現象には隙間があるのだろうか。このように考えた際に、アートがわからないという問題は、アートが難しいとか、私の素養のなさに還元しえない事態としてみえてくる。たとえば、そのアートを理解したことにできる説明的な言語は、積み重なったアブダクション推論による既存の知識体系の適用であるが、それが不可能となれば、ことばの零度の地点から、あるイメージが「似る」という現象をたよりに新たな知を形成していくための問いの連鎖へと身体を賭けることになる、というふうに展開されるかもしれない。言語に規定されるものとしての可視性が、そのはじまりにおいて言語を規定し、可視性を規定するものとしての言語が、そのはじまりにおいて可視性に規定される。このとき、今日見た誰も知らない他者の肖像画が、誰でもない誰かに似ているということを、どのように語りうるだろうか。


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