kaima

<かるさ>と<あかるさ>

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<かるさ>と<あかるさ>

最近の記事

いくつもの誤読が・・・

いくつもの誤読が・・・いくつもの星座が・・・ 内臓がシステムの誤読を可能にする・・・星々がコスモスの誤読を可能にする・・・ 哲学とはつねに「間違った名を呼ぶこと」 「世界を読むことは、書物だけに対して託される、あるいは書物の中に閉じ込められるにしては、あまりに根本的な事柄である。というのは、世界を読むこと、それはまた、世界の諸事象をそれらの「親密で密かな関係」、それらの「照応」、それらの「類比」を介して結びつけることだからである。」 (ディディ= エ =ユベルマン : 

    • レポート転載(アリストテレス左派について) 

       アラビア哲学のアリストテレス解釈が、中世哲学におけるアリストテレス導入の礎となったと言及されていた。本節では、アヴィセンナ(イブン・シーナー)によるアリストテレス解釈の「存在偶有説」について紹介することで、アリストテレスがアラビア哲学においてどのような受容がなされていたのかについてその一片を確認することとする。  アヴィセンナは、世界史においてイブン・シーナーという名で主に知られる10世紀から11世紀にかけてイスラム世界で活躍した医学者・哲学者である。アリストテレス『形而上

      • 2023年読んでよかった本とか論文(1~3月編)

        年末も年末というときに、コロナウイルスにかかってしまった。ゆっくりと進めたい課題や研究を取り掛かろうにも、熱が40度あれば何もできないと一度諦めることができた。しかし、たった1日で熱は下がってしまい、ここ2日間は37度台で停滞している。そのせいで、ちょうどやろうと思えばやれるが、やりたくはない状態でうだうだしている。特に授業の課題が複数出ていて、これがやりたくないが今やるのがおそらくちょうどいい(課題とバイトはコンディションの悪いときにやっておくのが良い)はずなのに、どうして

        • 「できないこと=無能力」についての断章

          無能力とは限界のことであり、強度のことである。 できること、すなわち能力とは、可能性である。可能性をもつことは、二つの選択肢、三つの選択肢、50kmの速さで走れるし、100kmでも、10キロでも走れる、といった具合に量で表すことができる。相対的に量化可能であることは、したがって可能性を比べることができることを意味する。 無能力とは不可能性である。不可能性は、ある限界を意味している。これを超えるものでも、これ未満でもないことである。したがって無能力とは「これでしかありえない

        いくつもの誤読が・・・

          忙しい時ほど駄文が書きたくなる。

          忙しい時ほど駄文が書きたくなる。 今、研究奨励金のための研究計画書なるものを書いている。これまで、いわゆる哲学や人文系として括られる課題のレポートを、自由気ままに、自己満的に書いてきた私にとってはどうやら非常に相性が悪いらしい。指導教員にも、計画書の体をなしていないと酷評されるほどにはそうなのだ。 なかなかきつめに指摘された感触があるが、そもそも私自身ある程度のマチズモを内面化していることもあり、くたばるほどではない。小中と続いたサッカーのスタメン争いを思い出す。私はいつ

          忙しい時ほど駄文が書きたくなる。

          レポート転載その1(哲学と贈与論)

           ここからは「哲学は「何かに役に立つ」のではなく、その「何か」を探求する営みである」という命題について、とりわけその不可能性について検討していく。そのために、まずはこの命題が、20世紀以降に議論されてきた贈与論の不可能性に関わるロジックと類比的に展開可能であることを検討し、次に贈与論で重ねられてきた議論を哲学に関する上の命題に応用して考察を進める。  「何かの役に立つ」とはそもそもどういうことであるか。本講義の議論はもっぱらアリストテレスの『ニコマコス倫理学』([アリストテレ

          レポート転載その1(哲学と贈与論)

          〈切り取り線=折り目〉、シミュラークル、抵抗点

          最近のこと。先輩のグループ展に行った。新宿眼科画廊にて10/13~10/18の期間展示されていた「 / 」。 https://www.gankagarou.com/show- tem/202310/https://scrapbox.io/tenjiwosuruyo/%E3%80%90_%2F_%E3%80%91 実際のところ、展示に行くと先輩に伝えたときに、「noteに書かれることを期待しているよ」と言ってくれたから、私にはそれが本音か建前なのかよくわからないために、いい

          〈切り取り線=折り目〉、シミュラークル、抵抗点

          読書と日記_1008

          友人が書くことを続けているから、私もちょっとだけ日記を書いて寝る。明日は祖父の一周忌で早いのにもう2時半を回っていて、ここ数日2時半より早く寝たことはないから眠気は来ていないけれども、お経をこの睡眠時間で寝ずに過ごすことはきっと無理だろうなと思うから、明日はできるだけ後ろの方に座りたい。 学期が始まって思いのほか忙しく、本が読めていない。今週はあと研究会のために40ページ、今井むつみの「認知心理学」のために40ページ、三田のベルクソンを読む講義のためにも資料を読んでまとめな

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          二重の体温

          菱形に凹凸するコンクリートとタイヤの接地が噛み合うときの、肌に触れぬ風、前から後ろへ車体の流線形に従いながら渦を巻く光と大気・・・三河島の喫茶店で食べたブランチのトーストの味と相似している秋の日差しが肌に染みる暖かさ・・・ええそうなの、摩訶不思議に流れ込む水蜘蛛の大群と足音が止まない・・・円形の毛先が冷たい地面に触れる音・・・しとしとととんしとしとととん・・・意味がないことはしないなぜなら私は? (空を飛ぶトンビを鷹と呼ぶことは、地球をひっくり返すこと) いやだなまったく

          二重の体温

          読書と日記_0924

          本当はパースの記号学についての著作から、先日の日記における「似る」ことについて、「ダイアグラム」という概念を補助線にフーコーと繋げて展開する、という記事を書きたかった。が、そのための重要な参考文献であったジル・ドゥルーズ『フーコー』を今日の夕飯に家族で訪ねた焼肉屋において帰ってしまったため、どうにも執筆が止まってしまった。明日の昼に忘れ物がなかったかを聞いてみたい。こんなことをいうのもなんだが、借りた本でもなければ、高価なハードカバーでもなく、文庫本でよかったと思ってしまった

          読書と日記_0924

          読書と日記_9/22

          散歩ついでに、いくつかのギャラリーに行った。今井むつみ、秋田喜美『言語の本質』を何度も読み返しながら電車に乗り、北参道まで40分ほど。私はアート作品を見るのはあまり得意ではないのだが、その苦手さは、『言語の本質』で言われている記号接地問題に由来しているように思えてならなかった。ことばを知るということにおいて生じる難題は、アートにおいても極限的な仕方で現れるのではないかとおもった。ことばを学習するには、記号の単なる連続ではなく、身体性への接地(grounding)が不可欠ではな

          読書と日記_9/22

          読書と日記_0919

          久しぶりに本を読んだ。いつも何かしら読んでいるのだが、読もうと思って読んだのは久しぶりであった。しかし、読むことと記録に残すことで、後者を私は多くの場合読んだということが多く、ただ目を流してページをめくることを読んだと実感してはいないように思う。記録、というのは基本的に抜粋していくか、概念を抜き出しては説明をする、余裕があればレジュメ形式にまとめていつでも読書会を開けるようにしておく、といったものである。しかし読んだことを実際にどこかの議論や文章を書く中で引こうと思うのは、そ

          読書と日記_0919

          受肉と光の問題。パンのデッサンあるいは屠殺場における可視性の政治。

          受肉と光の問題。パンのデッサンあるいは屠殺場における可視性の政治。

          読書と日記_0912

          まだ体調がすぐれない。昨日の日記で発熱はないと書いたが、今日は37.1度とやや微熱。鼻詰まりと難聴のせいで、顔全体が気怠く、酸素がつねに足りない気がしてしまう。 少しやる気を出すために、昨日『現代フランス哲学』と一緒に買ったPOPEYEの雑誌を水を飲みながら1時間くらい眺めていた。POPEYE構文が、一時期SNSでネタにされていたような覚えがあるが、シティボーイっぽい文体というべきか、そういうあからさまな文体を揶揄する感じだった記憶がある。おじさん構文にも言えることだが、語

          読書と日記_0912

          読書と日記_0911

          このところ体調を大きく崩し、家にいるときは寝るかSNSで時間を潰すことしかできていない。生活を立て直すためにも、また日記に頼ろう。 日記が続かない時は、生活ができすぎているときか、できなさすぎているかのどちらかである。なるほど日記は常に、生活が生きつつありながら、死につつあるそのはざまでしかありえないのだろうか。生きた生活と、死んだ生活について書くことはできない。いやむしろこういうべきだろうか。立ち上がりつつ、あるいは倒れつつあるかぎりで、それは生活である。 とりわけ、急

          読書と日記_0911

          読書と日記_0831

          いわゆるオフの日であった。本は読んでいない。12時半くらいに起きた。 今日は友人の研究会履修課題を手伝う、という名目で、奥渋谷にあるデカくてすごいかき氷を食べ、お酒を飲みながら課題をやる友人を見守り、「やむなし酒」という居酒屋でゴーヤチャンプルーと焼きそばを食べて帰った。 かき氷を夏の終わり寸前に食べることができてよかった、というか8/1に同じ友人と会ったときにかき氷を食べる予定がありつけず、さらに2回ほど遊んでいるが毎度なんらかの理由でかき氷にありつけなかった。4度目の

          読書と日記_0831