レポート転載その1(哲学と贈与論)

 ここからは「哲学は「何かに役に立つ」のではなく、その「何か」を探求する営みである」という命題について、とりわけその不可能性について検討していく。そのために、まずはこの命題が、20世紀以降に議論されてきた贈与論の不可能性に関わるロジックと類比的に展開可能であることを検討し、次に贈与論で重ねられてきた議論を哲学に関する上の命題に応用して考察を進める。
 「何かの役に立つ」とはそもそもどういうことであるか。本講義の議論はもっぱらアリストテレスの『ニコマコス倫理学』([アリストテレス:2009])の主に第一巻および第五巻で展開されているものと相同的である。たとえば次のような善に関する記述を確認してみる。

「およそわれわれの行うところのすべてを蔽うごとき目的―――われわれはそれ自身のゆ絵に願望し、その他のものを願望するのもこのもののゆえであり、したがってわれわれがいかなるものを選ぶのも結局はこれ以外のものを目的とするのではないといったような―――が存在するならば(まことに、もしかかるものがなければ目的の系列は無限に遡ることとなり、その結果われわれの欲求は空虚な無意味なものとなるであろう、)明らかにこのものが「善」(タガトン)であり「最高善」(ト・アリストン)でなくてはならない。」p.16

 こうした善について、少し先に進んだところでは「即自的に善きもの」と表現されるが、これらの記述からも理解できるように、アリストテレスにとっては、善とはそれ自体として価値があり有用性の名においてより上位の目的に従属しないような最高の目的を善と呼ぶ。ふたたび本レジュメの記述に従えば、「統治者・技術者・生産者の組み合わせで、「善」を実現するための集団ができる」とあり、さらに「統治者/戦士/技術者/多様な生産者が、各人の役割に専念し、適切な調和がとれているのが「正」」とあるから、これらの記述を検討すれば善が実現されている状態が正であると解して問題ないだろう。この「正」についてのアリストテレスの記述も確認しておく。アリストテレスにおいて、正はまずその二義性が指摘される。不正なひとが違法的であり、他方で「過多をむさぼりがちな「不均等なひと」であるという対比から、「適法的(ノミモン)ということと均等的(イソン)ということとの両義を含」む。それゆえ、国政における「正」にも一方では適法的であるかどうかが問われるとともに、名誉や富が均等に配分されているかどうかが争点となる。正であるとは、均等であり、それが意味するのは過多でも過少でもない「中」であることだとして、アリストテレスは配分について次のように指摘する。

「配分における「正しい」わけまえは何らかの意味における価値(アクシア)に相応のものでなくてはならないことは誰しも異論のないところであろう。」p.179

「価値に相応のもの」であるという記述は重要である。つまり、アリストテレスは正の問題を基本的には経済性(エコノミー)の問題として考えているということができるだろう。均等が多過ぎず、少な過ぎない中であることが、価値相応であることを意味するならば、これは正が、人間同士の配分が等価的であることを意味している。したがって、先のレジュメの論理とおそらく参照されているだろうアリストテレスの議論を踏まえれば、善が実現されている状態が正であり、正とは等価的な配分が実現されている状態を意味するから、善とはある等価性の実現として考えることができるように思われる。しかし善とは一切の基準に依存しない「即自的な善きもの」であった。では「即自的に等価なもの」とはどういう意味だろうか。ここに贈与論的なアポリアが存在している。
 等価交換は、あるコストに対して等価な見返りがあることを意味している。これを手段と目的のやりとりに適用すれば、ある手段の使用(コスト)が、ある目的の実現(見返り)を可能にする。手段が有用であるというのは、それが結果に等価であることを意味しているのである。この際、最高の目的とはすべての等価交換の果てに最後に実現される目的であるということになる。たとえば、受験勉強は合格のための手段で、合格はよりよい就職のための手段で、より良い就職はよりよい金銭的報酬のための手段で・・・例えばその最後に幸福がきたりする。もちろん現実にはこのように線形的かつ連続的なものではないにせよ、アリストテレス的な論理にしたがえばこのように理解することも可能であるだろう。
 しかしそんなことは現実的に可能だろうか。即自的に等価なものがあらゆる目的の最上位であることは不可能ではないか。手段と目的がしばしば混同されるのは、技術者や軍人が哲学を知らないからではなく、手段と目的がそもそも実は等価性において判断されるがゆえに手段は容易に目的になり、目的は手段へと転化しうるからではないだろうか。ある最上位の目的も、それ以前の手段-目的連関との等価性において位置付けられるならば、そのような最高善は最後のものであるかぎり、一切の見返りを求めてはいけない。したがって、それは純粋贈与的な性格をおびる。一切の見返りをもとめることのない見返り。見返りをもとめた途端にそれは交換へと転化してしまうために、最高のものではなくなる。
 このような贈与は不可能であると考えられてきた([バタイユ:2002], [湯浅:2020])を参照。また[岩野:2019]では贈与が贈与として現前した途端に交換となるという不可能性をデリダの議論を参照しながら展開している)。モースの贈与交換に対してポトラッチや供犠の人類学的な事例から純粋贈与を思考してきたジョルジュ・バタイユはとりわけこのことをよく知っていた。バタイユによれば、供犠や贈与が贈与でなくなるのは、それが反復され維持されるとき、すなわち将来への「保存」が企図されるときである。たとえば供犠が、本来は手段-目的連関のなかである村の生産物を蓄積していたときに、かならずしも消費しきれない余剰が生じる。この余剰、有用性の等価交換に収まりきらなかった残りのものは、祝祭のなかで供犠という仕方で羊をはじめとする家畜が生贄に処され、生贄は家畜という有用性に拘束されていた事物的な状態から解放され、生命を横溢するとされる。人々はその死を模倣的に経験し、明日のことを考えずに、濫費し、消尽する。これがバタイユのいう供犠であるが、この供犠は反復されることによって不可能になる。そのような死の経験は破壊的であるがゆえに、しばしば禁止され限界づけられて、供犠は豊作を祈るための催事として再び有用性の連関のなかに位置付けられてしまう。贈与的な性格を帯びていた供犠は、明日からの生産のための等価物として回収されていく。より日常的な事例として親しい誰かにあげるプレゼントは、贈与であるためには見返りをもとめてはいけないが、今後の付き合いや関係の維持といった無形の見返りを一切考えずにプレゼントを贈ることは困難であるし、実際にはそのようにプレゼントが機能するわけであるからやはり贈与交換以上のものではなく、純粋贈与とは呼べない。
 したがって先のアリストテレスの論にも同様のことがいえる。最高の目的は、たった一回きりのものではなく、各人のもとで、あるいは社会のなかで維持されている状態でなければならないのならば、そもそもそれは維持という次なる目的に従属することになるだろうし、最高善という見返りが維持のための原動力となることさえあるだろう。しかし、最高の目的の維持を目的とするのは、バタイユが「明日への配慮」と呼ぶような計算的な思考に媒介して最高の目的を実現することとなり、これはある種の手段と目的の混同であり、最高の目的は手段としてその本性を失ってしまう。したがって、一切有用ではなく、見返りを期待しない目的が贈与論的に考察されたときに、それが現実的に反復される場合には不可能であるならば、「哲学とは「何かの役に立つ」のではなく、「何か」を探求する営みである」という命題は、反復しえないたった一回きりの破壊的な贈与であるか、そうでなければ不可能なものであると帰結されるほかないのではないだろうか。
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参考文献
(1)Aristotle, 高田三郎. ニコマコス倫理学. 改版, 東京, 岩波書店, 2009, ISBN4003360419.
(2)Bataille, Georges, 湯浅博雄. 宗教の理論. 東京, 筑摩書房, 2002, ISBN4480086978.
(3)湯浅博雄. 贈与の系譜学. 東京, 講談社, 2020, ISBN9784065194393.
(4)岩野卓司. 贈与論 : 資本主義を突き抜けるための哲学. 東京, 青土社, 2019, ISBN9784791772131.

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