戯曲の「仕掛け」について
仕掛けの話です。
前回の最後にも書きましたが、この「仕掛け」という言い方は、井上ひさしさんからの受け売りです。
演劇は「一に仕掛け、二に仕掛け、三四がなくて、五に仕掛け」とどこかで仰っていた…ちがったかな。とにかく、井上さんは「仕掛け」を強調していたと記憶しています。
今、不安になって、ネットを検索してみましたが、「一に仕掛け、二に仕掛け」なんて…ひっかかりませんね。
…ですが、こんなのが出てきました。
ネットからの孫引きになっちゃいますが。
なんだか、もう、これで話は済んだ感があります。
なにを私はグダグダ書こうとしていたんだという…。
こんなのもあります。
この「井上ひさし公式サイト」は、訪れるとしばらく帰ってこれないくなるニシワキにとっては智恵の宝庫です。
さて。
井上先生のいう「仕掛け」は、演劇でなければ表現できない「構造」としてあるようです。
先の引用したサイトで岡野宏文さんは、「日本人のへそ」「珍訳聖書」などの作品を例に出したあとで、このように書いています。
毎回、戯曲を書き始める度に、どうやって書けばいいんだ…とニシワキが途方に暮れていたのも、そんな仕掛けを探しているからなのかもしれない。
もっというと、手探りで掴もうとしているその何かは、これから書こうとしている作品の仕掛けの有効性を信じるための「核」と言えるかもしれない。
などと言いつつ。
ニシワキは、構造的なところは、演劇の先達の作品からお借りすることも多い。一場、一幕、一作品まるごとトレースしてみて、その構造を確認することもある。
「いやいや、そこが劇作家として勝負するところでしょう」とおっしゃる方もいるでしょう。はい、その通りです。
私も、そう思う。
そうです。ニシワキは、とても凡庸です。
若い頃は、オリジナリティに憧れたこともやはりあるが、そんな才能も蓄積もないと諦めてしまっているところがある。
毎回、敬意をもって拝借しております。
ん、なにか余計なことをかいている気もするが。
ま、隠すつもりもないので、とりあえず、進む。
(あとで、消すかもしれないけど)
前回、「記憶」についてあーでもなくこーでもなく書きましたけど、それは私個人の記憶や実感や精神と結びついたところのものです。それに対して、この「仕掛け」は演劇の歴史や技術、あるいは物語の歴史や技術の領域です。たぶん。
その二つが、なんらかの形で結びついて新しい作品となる可能性を「核」と私は呼んでいるのかもしれない。また、そうやって新しく作品が生まれる予感を「ビジョン」として感じているのかもしれない。
うーん、いろんな意味で「あまい」書き方をしていますが。
もう少し詰めたいところです。
その仕掛けとは、具体的にどんな構造をしているのか、とか詰めた方がいい。
そうなってくると、これかな…。
はい。
戯曲の構造について、ニシワキが教科書としている本があります。
喜志哲雄先生の『喜劇の手法 笑いのしくみを探る』 (集英社新書)
私も、たまに「台本を書いてみたいんですけど。何か参考になる本はありますか?」と訊かれることがあるのですが、私はまずこれを薦めます。
本のタイトルには「喜劇」とありますが、戯曲全般(基本、西洋演劇ですが)の構造としても充分読めます。
本の見出しを拾ってみましょうか。
目次
序 笑う―喜劇の観客
1 だます―喜劇と意識
2 迷う―喜劇と無意識
3 間違える―喜劇の状況
4 語る―喜劇の言葉
5 考える―喜劇についての喜劇
はい。
これ、長くなりそうなので、次回、詳しくやることにします。
* * *
追記
「世界」や「趣向」といった言葉を注意せず使ってきていますが、日本の演劇の文脈ではこのように使われる言葉でもある。
歌舞伎用語案内 世界定めと趣向
歌舞伎の「世界」「趣向」と、井上先生の言葉の意味するところが全くイコールではないだろうけど、確認しておきたい。
特に「世界」という言葉は、地理的な意味での世界から、今は「セカイ系」といった言葉まであって、よく分からなくなる。
メモでした。
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