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ヴィジョンの話でした。

なんだかキーワードは《ヴィジョン》だといったかと思ったら、前回の最後ではまた《核》に戻ってそうな…ほんと行ったり来たり寄り道みち草ばかりのノートの続きです。

で、なんだか二週間前のニシワキ君によれば、その核の中には二つのもの《記憶》と《仕掛け》がありそうだということでした。(と、伝聞調の語りになっているのは、このお盆の間に温泉や花火やバーベキューなどをして、すっかり頭がリセットされているからです)

あせらず、一つずついきます。

まず《記憶》。
これは、これまでのニシワキが仕事として、また観客として触れてきて舞台の記憶…いや舞台だけに限らないかな。
映画も音楽もアートも…いやいや芸術だけとも限らない、人生の中で触れてきた世界を発見した瞬間の感触、体感の記憶といったものも含まれそうだ…。

そういえば、このお盆の間に、墓参りにもいきました。(さっそく脇道にそれます)ニシワキの実家は農家ですから、まわりは畑や田んぼしかありません。ビルやマンションに視界を遮られず、360°地平線が(遠くの山並みはあるんですけど)見えるわけで、それがいいんです。それだけでいい。地平線や水平線が見えることは、とても大事なことです。はい。

墓参りの帰り、夕方になり、息子を助手席に乗せて車を走らせていると、前方に大きな太陽が沈んでいました。白熱の太陽は地平線に傾くほどに赤味を増していきます。

その日は厚みのある夏の雲が帯となり、その向こうに沈む夕日が西の空を染めていました。連なる雲の帯は、それぞれにグラデーションとコントラストを変えて、それが空を焦がす炎のようで…と、またニシワキは国語力のなさをさらけ出していますが、そんなうまく言葉にできない夕焼けをニシワキは子どもの頃から何度も見てきて、そしていつも見入ってしまう。

人生の中で繰り返される夕焼け体験は、今その瞬間ここでしか見られない美しさとともに、いつか見た夕焼けの記憶も重ねて見ている…いつも決まってそうです。

それから頭の中では、あかね色の雲の距離を測っている…上空何キロメールとかじゃなくてね。視界いっぱいに広がる夕焼け空と、それに比べてあまりにも小さい存在としての自分がいて、その距離を体感しているといった方がいいだろうか。

感覚的なことだけではなくて、そこには自然科学的な視点も同時にあるんですけど。それこそ、沈んでいく太陽という恒星は、光の速さでも数分はかかるほど、ここから遥か遠くにあるんだとか。日没はよく見ると目で追えますから、そこでは地球の自転も意識の中にある。

で、また、そんな自然科学的な世界から意識を飛ぶほどの美しさに魅せられてもいたりして…。

そんな多層的というか、いろいろごちゃ混ぜのものとして夕焼け体験はあって、(これは僕だけかもしれないけど)なぜかそこに安心を見出しもします。不思議ですね。でも、確実にありますね、安心が。
やさしさと、気楽さと、さっぱり感が合わさったような…きっと自分が「小さい存在」と確認できるからなんでしょうか。

同じことは、星空を見る時にも起きます。
見つけやすいのは、やはりおおぐま座の北斗七星で、そこから北極星を探して、するとカシオペアは…なんてことをこれまた何度繰り返したことでしょう。

子どもの頃は、それこそ天の川も空気が澄んだ夜には見えたんです。「今、僕は銀河の中心に目を向けている…」みたいなね、わずかな科学的知識でも、宇宙や世界を体感している。

やっぱり、空が見えることって大事なことなんです。日中は高層建築に囲まれ、夜は星も見えない環境というのは、精神のバランス感覚を危うくする。ほんとそう思う。

さて、「記憶」から話が広がりすぎてますね。
戻します。

ニシワキが《ヴィジョン》という言葉に引き寄せられたのは、こういった「夕焼けに出会う」「星空に出会う」といった視覚をともなう体験、体感に通じるものがあるからかもしれない。

そのビジョンが濃縮されたエキスのようにギュッと詰まっているという感じかな。いや、エキスだと希釈して使うことになるから、やっぱり断片やカケラかな。

今ふと、岩石に閉じ込められた恐竜の化石を想起しました。それは骨格全体から見ればほんの一部にしか過ぎないけど、そこから学者は古代の生き物の全体像や、自然環境を描き出したりする。そんなことに近いかもしれない。

ずいぶんロマンあふれる話になってきましたけど、現実離れしたどこかに連れていってくれるだけのものじゃない。繰り返しだけど、自然科学的な視点もあるんです。科学だけではなくて、資本主義や民主主義などの制度的なものもある。そういった「近代」の世界の捉え方、そこにずぶずぶに浸っている自分という存在もふくめて凝固している。凝固しながら動いている。殻を破る前の卵やサナギのように蠢いている。

ニシワキは、芸術って、ひと言でいうと「発見」だと思うんです。再発見も含めた「発見」です。これは、別に僕のオリジナルの(それこそ発見した)認識ではなくて、先達の言葉に沢山見つけられます。みなさんいろんな言い方をしていますけど、つまり「発見」なのかなと。

ゴーギャンさんの問いは

我々はどこから来たのか?
我々は何者か?
我々はどこへ行くのか?

ですが。
それは「世界とは?」「人間とは?」 そしてそう問う「私とは?」
という問いです。

芸術に触れた時、そこに「世界」「人間」「私」についての発見がある。

夕焼けの話をぶり返します。
夕焼けを前にして、いつかの自分の記憶が蘇る時、そこには「私」についての発見がある。
その空の美しさに魅せられる時、「世界」についての発見がある。
その太陽との距離、運動、色彩を捉えようとする時、人間が作り出したいくつもの神話、積み重ねられた科学的知識、歴史、文明、文化…連想ゲームのように連なっていきますが、そこに「人間」を発見する。

また話が、散ってきているか?
寄り道はいいんだけど、拡散するのはやはりよろしくないですね。

今日はこの辺にしようかな。
「発見」については、いつかまた掘り下げましょう。

ひとまずこのくらいにして、次回は、二つ目の「仕掛け」に進むことにしよう。
この「仕掛け」という言い方は、井上ひさしさんの受け売りですね。

と、書き出すと、また転がりはじめるので、今日はここまで!


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